第68話 調香師の復活
サルーンのあちこちにあしらわれている緑色の大理石の柱、その一本の陰から古ぼけた扉がにじみ出たかと思うと、中からのっそりとアレシュが姿を現した。
その姿はいつもの洒落者の彼を思うと、無残なくらいに荒れている。
うるさいくらいの装飾に満ちた上着は肩に引っかけたままだし、タイはかろうじて結んであるだけで歪み放題、シャツの袖は乱暴にまくられている。白い肌には艶がなく、目の下にはあからさまな隈まであった。
監禁でもされていたのか、という彼の姿にミランは顔をしかめ、ルドヴィークはなぜか慈悲深く微笑む。
ルドヴィークは漆黒の外套を翻してアレシュの眼前まで歩むと、長身の背をかがめて恭しくアレシュの手を取った。
「父上に続く偉大なる調香師の復活を、葬儀屋として心より祝福いたしますぞ。アレシュ・フォン・ヴェツェラ」
「ありがとう、ルドヴィーク。複雑きわまりない父さんのレシピには散々振り回されたけど、君たちがさばくための定番品も何種か出来たよ。その代金で、今回の計画に使う金は全部まかなえるかい?」
アレシュの言葉に、ルドヴィークは深く響く声で囁いた。
「おお、素晴らしいですな。おそらく金額的に問題はないと思われますが、念のため後で検品をさせてください。定番品は値崩れを起こさないように大切にさばかせていただきますし、レシピ使用料さえ払ってくださるのなら、あなたが個人的な付加価値をつけて香水を売るのももちろん結構」
「金と商売のことについての君のぶれなさは、信用してるよ。それと、美意識も」
「どれも等しく嬉しいお言葉ですな。我々もあなたのためなら少しくらい金銭の融通は利かせたいのですが、穴が空いてからあちこちが騒ぎ始めましてな。黙っていていただくのに、少々値が張っております」
あちこちってなんだろう、とアレシュはぼんやり考える。
考えるが、今は自分の担当することだけで頭がいっぱいだった。アレシュが適当にうなずいていると、ルドヴィークは貴婦人にするよう、アレシュの人さし指の爪に口づける。
「それにしても……あなたの才能が再び開花したことは、実に、実に喜ばしい。今のあなたはかけがえのない音楽の指揮者であり、創造主です。今後、限りない創造が花開くときが来るのが楽しみでなりません。新しいレシピが出来た際には必ず、真っ先にこのわたしにご連絡ください、若き巨匠」
厳かに言う彼はあくまでうやうやしく見えるけれど、万が一アレシュが新しいレシピを隠し持ちでもしたら、今口づけた指を一本ずつ切り離しにかかるに違いない、とアレシュは思う。
悪人どもにとって、しばしば友情と金の話はまったく別だ。
ルドヴィークは傷ついたアレシュのことも淡々と愛するだろうし、最悪、調香にアレシュの力ない四肢なんか要らないのだ――と思うと、さすがのアレシュでも寒気を覚えた。
そんなアレシュとルドヴィークの様子をどう見て何を感じたのか、不意にミランがルドヴィークとの間に割って入って不機嫌そうに腕を組む。そのまま何を言うでもないミランに、アレシュは目を細めた。
(相変わらずのばか)
声には出さずに囁き、アレシュはミランにだるい身体をもたせかける。
ミランはそれを許してたたずみ、ルドヴィークに警戒の視線を投げたままアレシュに訊いた。
「で、アレシュ。そろそろ俺にも貴様が何をやっているのか説明しろ。これだけぼろぼろになって金を稼いで葬儀屋から買ったのは、一体なんなのだ」
「ああ、まだ話してなかったっけ。僕がルドヴィークに頼んでたのはね、街に空いた三つの穴の中と、周辺にあったもの。その、すべてだよ」
「すべて?」
ミランがよくわからない顔をしているので、ルドヴィークがにこにこと口を出す。
「つまり、瓦礫の類から壊れた日用品の類まで全部、ということでして。それらがこちらの棺桶の中に収まっております」
「つまり……が、がらくたではないか! そんなもののために死ぬほど頑張って大枚はたいたのか、貴様は!」
呆気にとられて叫ぶミランに、アレシュは面倒くさそうなため息を吐いて首を横に振った。
「穴の空いた場所で何が起こってるかを調べるには、これが一番確実なんだよ。現場はすぐに荒らされちゃうし。あとはカルラが言ってたような、『魔界の扉』がある場所も、こっちで調査したりなんだりするために、できる限り金で借りきった。
何しろここは百塔街だ。いくら僕らが六使徒を名乗ってたって、他人の持ち物を勝手に持っていったり、勝手に誰かの土地に立ち入って調査をしていたら恨みを買う。力尽くより金を使うほうが紳士的だろうと思ったんだ」
「紳士的も何も……その借りきった場所とやら、一体、何カ所くらいあったのだ」
おそるおそる問われ、アレシュは少々視線をさまよわせる。
「大体、百二十くらいだっけかな? 穴の現地調査はカルラとサーシャがやってる。昨日はふたつめ、三つ目は今日。カルラがサーシャと一緒に向かってるはずさ。……段々不安になってきた」
「どうした、アレシュ。貴様がカルラ姉さんを心配するとは、どこか具合が悪いのか。むしろ悪くて当然の顔だが、いっそ少し寝たらどうだ」
ミランが珍しく真っ当ないたわりの言葉を投げると、アレシュは血の気の失せた顔で彼を見つめ、つぶやいた。
「いや、僕が心配なのはサーシャのほうだよ。カルラが是非サーシャをって言うから送り出したけど、大丈夫かな……死んでまで調査とかに借りだして、過重労働じゃないか? 帰ってきてから僕が怒られないかな? サーシャに嫌われたら、僕、生きていけないんだけど」
「貴様は――この期に及んで幽霊の心配か!! 本当に心配のしがいのない男だな!」
心底からのミランの罵倒もどこ吹く風、アレシュは深いため息を吐く。
「だってサーシャはただのなんだ、僕が心配してやらないと。カルラのことだって愛してるけど、彼女を心配するのは人生の無駄だよ。カルラはだって……カルラだよ?」




