第65話 奇跡の天気予報
アレシュの様子に、ヤルミルは彼の肩をゆさぶって言った。
「駄目でしょう、目をそらしちゃ! クレメンテは以前この街の浄化を試みたところを、六使徒のあんたがたたきのめしたんでしょ? それがあんなところでぴんぴんしてちゃ、あんたの実力に疑問が持たれかねません!」
「疑念くらいで事実は変わらない。僕は確かに彼をたたきのめしたし、今の彼は神の寵愛を失って、前みたいな奇跡の大盤振る舞いもできなくなってる。ただ――」
アレシュが言葉を切って様子をうかがうと、クレメンテを囲んだ百塔街の住人たちが、おもしろがって彼に色々と言葉を投げているのが聞こえてきた。
「役には立つぜ、司祭さま。明日の天気は?」
「晴れ、時々、三割の確率で雨が降るでしょう! 百塔街旧市街一帯では呪いの影響で微量の毒を含んだ雨となる可能性がありますのでお気をつけて!」
純白の司祭服に身を包んだクレメンテは、金髪をひらめかせて真摯な口調で言い放つ。
周りからは「おお」と感心と嘲笑じみた声があがり、矢継ぎ早に質問が続いた。
「洗濯物干せないのは困るわあ。明後日着ていきたい服があったんだけど」
「明後日なら間違いありませんが、どうしても明日干すならお昼前後に! ちなみにあなたに明後日幸運を呼ぶ服の色は白です!」
「そんなことまでわかるのか! じゃ、今、この街に俺のことを好いてる女って居る?」
「三人居ますが、うちひとりは愛憎がこじれて近日中にあなたを刺しに来る可能性があるでしょう。避ける方法はありませんので、とりあえず神に祈って下さい!」
クレメンテの力一杯の返答に、街の住人たちは互いに顔を見合わせ、呆れ、あるいは結構もりあがっているさらに質問を投げている様子だ。
――今からでも、すべてを見なかったことにできないだろうか。
切実な思いを胸に抱き、アレシュはさらに深く帽子をかぶり直す。
カルラは後ろでわずかに身を震わせた。
「うわあ……あいつ、顔の半分はアレだけど、肌とか髪とかはまだまだつやつやしてるわよ? 許せない……! しかもまだ、微妙に神託聞けてるし! 努力しないで美しい奴って、ほんとむかつく!」
「ふむ。彼にとってはああして、些細なことでも『ひとのために奉仕している』と実感できる状態がしあわせなのでしょうな。まあ、何か問題があれば排除いたしましょう」
ルドヴィークがさらっと言って、仕立てのよい手袋をした手で自分の胸あたりを撫でさする。かつて彼はそこに美しい少女人形を抱えていたものだが、今あるのは上等な上着の感触だけだろう。
人形はアレシュの力によって、魔界のものと入り交じってしまった。
アレシュは深く細いため息を吐くと、繊細な指を懐に入れて銀の煙草入れを取り出した。
(……もう、とっとと決着をつけよう。長々ここにいると、色んな意味で頭がおかしくなりそうだ)
ひっそりと心を決めていると、ヤルミルの嫌らしい声が耳に飛びこんでくる。
「どうです? あたしゃここは、アレシュさんがクレメンテさんをたたきのめして『僕らがこの穴の事件を解決する』って宣言するとこだと思うんですよお。劇的じゃないですか? 格好よく書いて差し上げますから、ここは是非ともあたしの言うこと聞いといたほうがいいです。一緒に面白いこと、しましょうや。ねえ。
あ、こりゃいい煙草ですねえ。一本失敬しますよ」
ヤルミルは言い、アレシュの煙草入れから紙巻きを一本取って燐寸を擦った。
アレシュは自分も一本くわえ、不意にヤルミルのタイをつかんで引き寄せる。
「あ?」
隙だらけのヤルミルは、そのまま大きくよろめいた。
アレシュにぶつかるぎりぎりのところで踏みとどまると、目の前にアレシュの毒々しいまでの美貌が広がった。
どこを見ても装飾品じみた美しさの、その顔。
一瞬、心臓に酷い圧迫感を感じ、ヤルミルは息を詰めた。
――不吉だ。
ただ、そう感じた。
最初から美しいとは思っていた。でも、今は何かが違う。信じられないほどきめ細やかな白い肌の、どこに視線を据えていいのかわからない。
逃げるようにヤルミルの視線がさまよっている間に、アレシュの長い睫毛が伏せられて、唇がきゅっと笑みの形に引き上げられる。
まるで仮面だ。
美しいだけの、ただそれだけの、なんの感情も伴わない笑いだ。
笑うアレシュの口元で煙草が揺れる。
その先が、ひそやかに近づいてくる。
近づいてくる。
そして、触れる。
ヤルミルの煙草の先に。
じじ、と、紙巻きの燃える匂いがする。アレシュはゆっくりと紫煙を吸いこみながら煙草に火を移すと、至近距離でヤルミルを見つめて、からめとるように笑った。
「ヤルミル。君はいくつかのことについて、大いに誤解しているようだ。
ひとつ。六使徒は、けして誰かの娯楽のために動いたりはしない。ふたつ。百塔街の住人は、君みたいなただの人間に操られるほど甘くない。みっつ。もしも僕がクレメンテよりお前を愛すると思うなら……お前はなーんにも見えていない、大ばかだよ」
そうしてふっと彼の顔に薫り高い紫煙を吹きかけ、アレシュは身を翻す。
アレシュの顔が視界から消えた瞬間、呪縛じみた美貌の効果も薄れて、ヤルミルは盛大に咳きこみながら叫んだ。
「あっ……あんた……ちょっと、待ってください! あたしはあんたのためを思って色々言ってあげてんですよ! いいですか、あたしにゃペンの力がある。怒らせたら勝手な記事を書きますよ? それこそ、あんたたちはクズのろくでなしだって書いたっていいんだ!!」
置いて行かれてなるものか、とばかりにヤルミルは叫ぶが、アレシュの姿はどんどん遠くなる。しなやかな背をヤルミルに向け、小さく笑って歩いて行く。
ヤルミルはまだアレシュの色香で朦朧としていたが、力の抜けた足をどうにか引きずって後を追った。よろめき、蹴躓きながら戸をくぐって石畳の上に出て、そこで大きく目を見開く。
彼の目に映るのは、赤い空。
そして――何かを求めて、彼の両腕が泳ぐ。
しかし彼は何をつかむこともできず、そのままその場に両膝をついた。




