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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
63/112

第63話 失礼な男

「魔界か」


 アレシュは小さく繰り返し、改めて穴のほうを見やった。

 言われてみれば穴を吹きわたってきた風はどこか生臭いような気もしたが、もとより百塔街はどこも魔界の気配が濃厚な街だ。

 カルラは甘く続ける。


「そうよ。ここって、ちょうど魔界と人間界が近くなってる場所――私たち魔女は『扉』と呼ぶけれど――その、『扉』のすぐ近くなの。ちょっとしたひょうしで、魔界とこっちが繋がってもおかしくないところ。そこで空いた大穴ってことは、ひょっとして、この一角が魔界に消えちゃったりしたのかもって思ってるのよ」


「街の一角が魔界に……って、それ、どういうことだい?」


「そのまんま。この街には元々、強大な魔法使いの呪いがかかってるじゃない? そのうえ全国各地から集まる呪いの物件やら呪われたひとたちやらのせいで、街は常に歪んでいく。それを私たち、街の住人がぎりぎり押しとどめてる状態なのね。

 そんな均衡がちょーっと崩れちゃって、魔界への扉が開いちゃって、ずるずるーっと魔界にこの街が吸いこまれ始めた結果がこの穴だったら、まずいなって」


 カルラは困ったように言って、美しく整えた爪で自分の目尻を押さえて見せた。その様子は少女じみて愛らしかったが、言っていることはかなりとんでもない。


「放っておいたら、街全体が魔界に吸いこまれるかもしれないってことか」


 アレシュが眉をひそめて言うと、カルラはふと目を細めた。


「うん。ひょっとしたら、街中であなたの親戚に会えるようになるかもね」

 

 戯れたような囁きに、ミランがぎょっとしたふうな視線を投げてくる。

 アレシュもまた、帽子の作る影の中で赤い瞳をほんのわずかに光らせた。


 ――アレシュ。お前の母さんは、天使だ。


 幼いころに繰り返された父の言葉が、耳の奥にじわりと蘇る。

 父は魔香水で呼び出した魔界の住人にアレシュを産ませ、母かどうかも明らかではない魔界の住人に喰い殺されて死んだ。

 ゆえにアレシュは母の顔を知らない。

 その名も、容貌さえも。

 ただ、母が魔界生まれと知ってからは、そのことが頭を離れたことはない。

 身だしなみを整えようと鏡をのぞきこんだその瞬間に、街中で飾り窓をのぞきこんだそのときに、ふと、自分の顔の中に見知らぬ女の顔がちらつくような気持ちになった。


 ――自分は母に似ているのだろうか?


 その問いかけに答えるように、鏡の奥底から、自分を見つめてやんわりと笑う女の幻影が見えたような気分になる。

 あなたはそんなふうにして、父を誘惑したのか?

 あなたは父を愛していたのか、それともただの玩具か、食べ物と思っていたのか。


 アレシュが真剣に問えば問うほど、鏡の奥の幻影は曖昧にゆがんではねじれ、鏡の裏の水銀を巻きこんだかのように渦を巻いて消えていく。

 そうしてアレシュの眼前に残されるのは、彼女の血がもたらしたもの。


 装飾品じみた魅了の美貌と、『魔界と人間界の境界を破壊する力』という、強大ながら未だ扱いに困る力なのだ。


(そういえば……ハナは魔界出身だよな)


 この穴について何か訊けるだろうか、と背後を見やると、ハナは半壊した黒い木の勘定台の陰でじっとたたずんでいた。そっぽを向いていて、アレシュのことなど視界にも入っていないようだ。

 今朝のことで機嫌を悪くしているのかどうなのか。とにかく話しかけづらい雰囲気に、アレシュはまたカルラに向き直った。


「君の予測が正しいとしたら、何か対処法はあるのかい? それと、百塔街全体が魔界に引きずり込まれると具体的にどうなる? 僕は、魔界の紳士たちが血を好む、ってことくらいしかわからないんだが」


「対処法としては、均衡がとれるまで街中にある魔界への扉を片っ端から封印、とかかしらねえ。とはいえ色んな利権もからむし、私ひとりじゃむつかしいわ。

 で、いざ街全体が魔界に引きずり込まれちゃうとどうなるかっていうと……色々大混乱でしょうねえ。魔界は人間界とは全然世界の法則が違うのよ。ちゃんと個別に調整しないであっちの世界に行くと、あらゆるものがそのままの形のままじゃいられなくなるかも。人間が泥人形になるくらいなら運がいいって感じ」


「泥人形か。それは確かに愉快な話じゃないな。……あ、そういえば、下僕のねぐらもつぶされたんだっけ?」


 やっと思い出したアレシュの横から、ミランは勢いこんで顔を出す。


「そのとおり! 夜中に異様な気配で目が醒めてな。無傷で逃げ出せたのは貴様の兄貴分の面目躍如と言ったところだ。そのまま貴様の館に直行して客間に泊まろうと思ったのだが、すかさず出てきたハナさんが、廊下へと案内してくれた。あんな明け方近くだというのに丁寧かつ力強い対応、俺は感動したぞ、アレシュ!」


「そこで素直に廊下に野営するのがお前の頭のおかしいところだ。ちなみに、この騒ぎで死んだ奴はいたのかい、ルドヴィーク?」


 ミランをさっさと片づけたアレシュが問いを投げると、ルドヴィークが仮面のような笑みのまま自分の顎をゆっくりと撫でる。


「幸いと申しましょうか、わたしたちの商売的には残念と申しましょうか、わたしのところには死体回収の報告は来ておりません。『葬儀屋』が死体を回収していないということは、九割九分は死体はなかったということです」


「なるほど。行方不明者がいる可能性はないでもないけど、調べるのは難しそうだな。――よし、やっぱり帰ろう」


 アレシュはきっぱりと言って踵を返した。

 カルラは軽くため息を吐いて肩をすくめたが、ミランはすかさず顔をしかめて追いすがってきて、熱心に言う。


「帰るだと? まさか本気で言っているのではあるまいな! 世間は我々に期待しているのだ!」


「期待は勝手にしていてもらおう。僕はこういう魔法的なことに関しては未だに無能そのものなんだよ。ここにいても見世物になるだけだから、帰る」


 アレシュは手の中の杖を弄びながら言い、輪切りになった家の玄関に辿り着く。

 穴が空いた衝撃のせいで建物はすっかり歪んでいたが、一応玄関には扉が無理やりはめこんであった。もちろんその他の穴から出ることは可能だったのだが、扉があるなら扉から退出するのが紳士というものだろう。

 そう思ったアレシュは、少々紳士的とは言いかねる所作で、玄関扉を蹴り開けた。


「ひっ!」


 すると、外にいた見知らぬ男が妙な声をあげて、わずか後方へ飛び退る。

 アレシュは杖の握りで帽子のつばを少し持ち上げ、一度瞬いた。


「おや、失礼。そこに誰かおられたとは夢にも思わず。お怪我はありませんでしたか?」


「――ええ、ええ。もちろん大丈夫ですよ。あたしもこれで、危ないことには慣れてますんで。で、どちらへ行かれるところなんですか、アレシュ・フォン・ヴェツェラさん?」


 からかうような声だった。明るいが、上っ面の抑揚しかないぞんざいな言いようである。

 アレシュは淡い不快感を覚えて目を細め、素っ気なく言った。


「帰るんですよ。僕の家にね」


 すると、見知らぬ男はひょろ長い長身を猫背に丸め、無精髭の口元でにやりと笑った。


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