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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
60/112

第60話 『六使徒』ふたたび

「そうか、それはよかった。僕の頭が美以外のことについてまったく働かないのは同意だが、君と言葉で交流できなくなったら、この館のお客にお茶を出す人間がいなくなる。人間……というのが正確な表現かどうかは、別としてね」


 わずかに引きつった笑顔で言いながら、アレシュは途中で言葉を濁した。

 その原因はハナの容姿を見ればすぐわかる。

 彼女は他のところはどこからどう見ても人間なのだが、きちんと結った髪の両側で美しい渦を巻いている角だけが、山羊か何かのそれにしか見えない。

 多種の生物の特徴が入り交じって現れるのは魔界の住人の徴である。

 ならば彼女も魔界からの旅人なのであろうとは、その唐突な出現時から知れている。


 ところがアレシュは今まで、彼女の出生について問いただしたことがなかった。

 なぜか、と訊かれれば、特に訊く必要なかったから、としか言いようがない。

 そもそもこの百塔街はかつて大魔法使いの呪いを受けて堕ちた街。

 全世界の呪われた者と器物が集まり、それらを封じる者が闊歩し、王を持たず、法を持たず、人間界でもっとも魔界に近い場所だ。

 魔界の者が歩き回るのも珍しい光景ではなく、人間だとて誰しも訊かれたくない事情をかかえてやってくる。相手が特に自分に敵意を向けてくるわけでなければ、許して受け入れるのが百塔街の――少なくともアレシュのやり方だ。


(とはいえ、形ばかりでもメイドをやるなら、それなりに守るべき態度があるだろう)


 アレシュは眉根を寄せたまま、サルーンに集っている客人たちのほうをこっそり見やる。

 ミランも入れて三人の見知った客の前には、もちろんお茶ひとつありはしなかった。


「――ありえない……」


 苦悩のうめきを上げるアレシュを見た客人たちは、それぞれ顔を合わせて視線を交わし、結局ひとりが音もなく立ち上がる。


「そう落ちこまれることもありますまい。我々のほうが予告もせずに勝手にお伺いしたのです。むしろ無礼はわたしたちのほう。お目覚めまで待たせていただこうと思ったのですが、結果としてあなたの眠りを妨げてしまったようですな。大変失礼いたしました」


 低く深く歌うような声で言った漆黒の影はひょろりと長く、まるで夕方の道に伸びる影のよう。年中着こんだ漆黒の喪服の上に、生気とは一切無縁の白い老紳士の顔が載っかっている。

 仮面のような笑みは見た者すべてに得体の知れない不快感を与えるものではあったが、アレシュはこんな彼の雰囲気にもずいぶん慣れた。


「おはよう、ルドヴィーク。こちらこそ気を遣わせたうえ、こんな格好で出てきて申し訳ないね。しかし――その、まさかとは思うけれど、君がハナにこの演奏を頼んだのかい?」


 アレシュがいささかためらいがちに問いを投げると、ルドヴィークは仮面じみた笑顔のまま妙にゆっくり首を横に振った。


「いえいえ、あなたはいかなるときにも完璧に美しい。わたしがこちらへ来たのは別件だったのですが、ハナさんがヴァイオリンの練習をせねばならない、と真剣におっしゃるものですから。あなたが目覚めるまで、お相手を務めさせていただいていた次第です。

 ……失礼ですが、彼女はいつもこのような、独創的な演奏を?」


「初めてだよ。そうじゃなきゃ、僕はとっくに睡眠不足で死んでる」


 げっそりと言ったアレシュに、今度は少しばかり離れた場所から、甘い声がかかった。


「本当かしら。あなた、いったん寝入ると滅多なことじゃ起きないじゃない。つまんない女と眠れない夜を過ごした後には堂々と遅起きするし、昨日のあれで目が醒めなかったなんて! 鈍感にもほどがあるわ」


「……カルラ。鈍感な男は嫌い?」


 アレシュが振り向きざまに声をかけると、十歩ほど向こうの寝椅子に優雅に寝そべるひとがかすかに笑った。

 彼女の手が猫を呼ぶように手招いているのを見て、アレシュは美しい客人のほうへと歩み寄る。彼が無造作に彼女の長い黒髪を一筋すくって口づけると、彼女は白い頬をほんのわずかに紅潮させて囁いた。


「あなただけは許してあげてもいいわよ。ね、謝って」


「いきなりだね。許すって、何について? カルラ。僕が時に逆らわず、育ってしまったことについてかな」


 アレシュがカルラの髪の毛を手にしたまま寝椅子の肘掛けに腰掛けると、カルラはわずかに身体を起こして熱心に主張した。


「違う! あなたは今だって筋肉つきすぎてないし、背も高すぎないし、ギリギリ、『あり』なの! あなたが謝るのは野放図な遊びっぷりについてよ。最近はいつもに増して遊び歩いてるみたいだし、さっきだってここへ来るなりつまんない女とすれ違ったし。私の気持ちもちょっとは考えてよね」


 そう言ってむくれる少女らしさと女らしさのせめぎ合う美貌は優しく、甘やかで、隙のある頼りなさが絶妙に男心をくすぐってくるのだが、アレシュは彼女の実年齢を知っていた。


「もう千歳も越えたっていうのに、相変わらずほしがるひとだね。遊びのお誘いがあったら断らないのは、僕の唯一の誠実であり甲斐性だよ。最近ちょっとお誘いが多いのは本当だけど、ほら。今はこうして、君のことだけ考えている。君が何を感じて、何を見ているか。君の目に僕がどう映っているかが、一番気になる」


 少し悪戯っぽく言って彼女の白い額にそうっとくちづける。魔女の額は陶器みたいに滑らかで、どことなく甘く感じた。


「……嘘つき」


 やんわり潤んだ瞳で言われれば、このまま彼女と戯れていたいような気持ちにもなる。

 が、多分そうはいかない事態の予感がした。


「嘘じゃないさ。本当に、嘘じゃない。だけど」


 アレシュは赤い瞳に睫毛の影を落としてつぶやくと、のろりとカルラから身体を引き離す。


「――それで? この顔ぶれが集まったということは……あれなのか?」


「そう! すなわち、深淵の使徒の出番だ!」


 甘く重い雰囲気を一気に吹き飛ばすミランの叫びを背後に聞いて、アレシュは軽く自分の頭を引っ掻いた。

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