第51話 まともな人間への第一歩
(またとない機会をいただいてしまいました。両親はわたしが奉公に行っている間に死んだはず。まともに感謝の言葉も伝えられなかった。もちろん、神の教えも)
「さあ、お母さん。あなたもわたしの手を取ってください」
「ひっ!!」
クレメンテが空いた手で母の手首をつかむと、母は跳び上がりそうに驚いた。
クレメンテは気にせず、体中にあふれる愛を感じて集中する。
さあ、祈ろう。神と共に祈ろう。
今、自分が過去の両親に伝えたい言葉。伝えたい気持ち。
全部残らず届きますように!
心の底から祈りながら、クレメンテは両親に向かって笑いかける。
「わたしは、あなたたちを許します」
両親はびくりと震えてクレメンテを見た。
ふたりとも、邪悪で、ひねていて、いじけきった顔だった。
昔は怖いだけだったが、今ならこのひとたちを受け入れられる。
神の後ろ盾を得た今、自分に恐ろしいものなどひとつもない。だから大丈夫だ。
彼らに同情できる。
彼らを愛せる。
彼らはきっと善良さを学ぶ機会がなかったのだ。
ならば百塔街の連中よりよほどたちがいいではないか。
自分は今こそ本当にこのひとたちを許そう。
愛そう。感謝しよう。大好きだ。わたしの命。わたしの両親。
わたしの――
「ラウレンティス様」
かすれ声に名を呼ばれ、クレメンテは優しく父の顔を見た。
そして、思いがけない光景にぎょっとした。
(なんだ、これは。これは……)
さっきまで醜悪そのものだった父の顔が、急にすっきりしてしまっている。
しかもその変化はクレメンテの眼前でまだ続いていた。
顔の皺がぬるぬると伸びていき、不摂生で土気色だった顔色は徐々に白くなっていく。澱んだ瞳は情熱と信仰に輝き始め、表情は一度も見たこともないほど凛々しくなってクレメンテを見つめる。
(まさか――奇跡!?)
慌てて母のほうを見ると、まったく見覚えのない、いかにもつましく美しい女がクレメンテに尊敬のまなざしを向けてきた。
「ラウレンティス様――ありがとうございます。ありがとうございます。今、私たちにも神の声が届きました。あなたは神の使いなのですね? 私たちを改心させるために遣わされたのですね。なんでしょう……この、感じたことのない温かな気持ち」
「愛というのはこういうものなんですな。なんか、一度も感じたことのない感じです。でも、今あなたに手を握られてわかりました。これが、奇跡ってやつなんですな」
繰り返される感謝の言葉。親が言うはずのない言葉。
激しい混乱を覚えつつも、クレメンテはどうにか落ち着こうとする。
何が両親に起こったのかは、冷静になれば大体検討はつく。奇跡だ。クレメンテの猛烈な愛の心が紙のもとへと届き、奇跡が起こったのだ。
愛と善を知らない両親の心に、信仰が芽吹いた。
それだけではおさまらず、奇跡はあふれて両親の姿をも輝かしく変えてしまった。百年に一度、千年に一度の奇跡。神の大盤振る舞い。すごいことだ。素晴らしいことだ。これは――
「あなた、父さんと母さんに何、したの」
いきなり暗い声に思考を邪魔され、クレメンテは息を呑む。
見下ろすと、幼いクレメンテ少年と目があった。少年の燃えるような暗い瞳には、明らかな敵意がぎらついている。
殺してやる。
そう言われている気がする。
クレメンテは笑おうとして、自分の顔がこわばっていることに気づく。
反射的に両親の手を放し、数歩後ろへさがった。
両親は残念そうに声を上げ、敬虔に手を組み合わせてクレメンテに祈りを捧げ始めた。
それを見たクレメンテ少年は、大きな目に涙をいっぱいに溜めて叫ぶ。
「こんなの父さんと母さんじゃない! ふたりを返してよ! 《《人殺し》》!」
昔の自分の叫びに横っ面を張り飛ばされ、クレメンテは大きくよろめいた。
息が苦しい。どうなっているんだ。
自分は間違ったことなどしなかった。だから奇跡が起こった。なのに、どうして昔の自分はこんなに怒っているんだ。
この、美しい男女は、確かに自分の両親で――
「ちがう」
ぽつり、と勝手に言葉が唇から零れる。
クレメンテは軽く目を瞠ってその場に突っ立った。
違う。違う。
これはただの強制的な改造だ。
アレシュが異界とこちらの世界を混ぜて変な人形を作り出したのと、ほとんど同じだ。相手の頭に無理やりあり得ない信仰を植え付けて、すべて組み替えてしまった。こんなのは自分の両親ではない。自分の両親は人間のクズだった。ほんとうにどうしようもない人間だった。
だが、それが本物の両親だったのだ。
クレメンテは彼らを最後まで愛していて、愛されたいと望んでいて、死にそうな目に遭いながらも本気で彼らを憎もうとはしなかった。
好きだったから。どうしても、好きだったから。
(母上。父上)
……本物の両親は、もうどこにもいない。
わたしは両親を殺した。
今までだってそうだ。素晴らしいことと信じて、強制的な奇跡で人々を洗脳し続けてきた自分は、生きた聖者などではない。
ただのひと殺しだ。
クレメンテが真実を悟ったとき、硝子が割れるような高い音が辺りに響く。
急に全身が寒く、重くなって、クレメンテはついにその場にくずおれた。
まるで冷たい夜を千夜も歩き通してきたかのようで、気力も体力も萎えきっていた。もう、すべてがどうでもいい。
しかし、汚い土間に転がる前に、闇のような腕が彼を抱き留める。
誰だ、と問う必要はなかった。
のろのろと顔をあおのけると、真っ赤な瞳と視線があう。
どんなところにあってもぞっとするほど美しい、アレシュの顔が微笑んでいる。
「真実を見てきた顔をしているね」
美しい顔で、彼が囁く。
美しい。彼の美しさは、夜の美しさ。
豊潤な、夜の。光に惑わされぬ、命の香りをまとって、彼は言う。
「おめでとう。これで、ただの人間に一歩近づいた」
クレメンテは何も返せなかった。
ただの人間。
その、砂を噛むような響き。
悲しいのか苦しいのかもわからないまま、憔悴しきったクレメンテの瞳から、ほろりと涙が落ちる。
床に落ちた涙は、金剛石にも真珠にも変わらなかった。
――クレメンテの信仰心が揺らぎ、神の意志が彼から遠ざかった証拠であった。




