第50話 クレメンテの生家
(子供の声……どこかで、聞いたことがあるような)
ともすれば吹き飛ばされてしまいそうな風に抗いながら、クレメンテはうっすらと目を開けた。
泣いている者がいれば手を差し伸べる、それがクレメンテの正義。
しかし今はそれ以上に、聞こえてくる声の主が気になる。
自分はきっとこの相手を知っているからだ。知っているのに思い出せない。こんなことは滅多にないのに、と不思議な思いで開いたクレメンテの目に映ったのは、地面も空も右も左も、果ての見えないのっぺりとした薄茶色の空間である。
形あるものと言えば、目の前にある今にも崩れそうな民家がひとつ、それだけ。
「これは――ひょっとして」
頭のどこかが既視感を訴え、クレメンテは緩やかに目を見開く。
これは、自分の生家ではないだろうか?
幼いころ、教会に身を捧げる前に住んでいた家。
最近はまったく思い出すこともなかった家。
「ということは、この中にわたしの家族が居るのですね」
改めてつぶやいてみると、胸からどっと愛があふれてきた。
ここがアレシュの言うとおりの自分の過去であるのなら、とっくに神の国へ旅立ってしまったであろう家族に会うことができるのかもしれない。
自分を生んでくれたひと。育ててくれたひと。
共にあってくれたひと。関わってくれたひと。
そのひとたちともう一度会える!
アレシュの思惑はともあれ、再会は喜び以外のなにものでもない。クレメンテは優しげな美貌を輝かんばかりの笑みで満たして、生家の扉を力いっぱい内側へと押し開いた。
「みなさん……」
にこやかに言いった瞬間、嫌な臭いの煙が肺に入りこんでくる。
あまりの刺激臭に何度か咳きこみ、少々涙目になってクレメンテは室内を見やった。
辺りはひどく暗い。
平炉で燃える小さな火以外には明かりもない、空気の澱んだ狭い家であった。
家の中には汚れと悪徳がぎゅっと凝縮されている。
食べかすと埃と何とも知れぬ液体が泥と化して堆積する土間。湿った藁にボロ布をかけただけの寝台。
一部屋に大家族のすべてが住んでいるせいで、獣のような悪臭がする。
粗末な平炉では、胸元の緩みきった服を着た女が、長柄の匙で鍋の中身を混ぜていた。女の目は死んだ魚のそれで、頬も服も土で汚れているせいで元の肌の色がわからない。
土間の泥の上にはさらに汚れた子供たちが何人も土間に転がって、もぞもぞと虫みたいに蠢いている。
彼らは誰も、扉を開けたクレメンテに反応しなかった。
見えていないのか、反応する元気もないのか。両方かもしれない。
反射的に吐き気を覚える者も多いであろう光景に、クレメンテは少し困ったように目を細める。
そういえば、こんなふうだった。
忘れていたけれど、これが自分の家。亡国の都会の貧困層。
そして自分は――そう。この、足下で転がっている子供のひとりだ。
「……君、立ちなさい」
クレメンテは大きさから自分らしき子どもを見つけ、静かに声をかける。
しばらくすると、幼いクレメンテ少年はのろのろと顔をあげた。ぎょっとするほどに痩せた顔の中で、瞳ばかりがきらきらと大きく青い。トカゲみたいな顔だ。
彼は、長身のクレメンテの顔をじっと見つめて訊ねた。
「どうして、立つの?」
「それは」
わずかにためらってから、クレメンテは囁く。
「――歩いて、逃げるためです。ここにいると、危ないから」
クレメンテの言葉に少年が応えようとしたとき、その襟首を父親らしき男がつかんだ。
「……おい。うるせぇ。独り言は、駄目だ」
寝ぼけているような、くぐもった声。
あらゆる感情が死んだ声に、クレメンテ少年はたちまち悲鳴をあげた。
「ごめんなさいごめんなさいお父さん、もうしません、もうしません、返事しかしません、喋りません、動きません、静かにします、家に居る間は寝てます!」
「何度も言った。何度も言ったのに、お前は聞かねえ。客と喋るな。俺たちとだけ喋れ。返事だけだ。うるせえんだから」
父親はぼそぼそと言いながらクレメンテ少年の襟首を掴み、平炉の熱い灰の中に突っこんであった火箸を取った。
母親が鍋をかき回す片手間に、だるそうにクレメンテ少年の上衣をまくりあげる。
少年の白い背中にはいくつもの、羽をもいだかのような火傷の痕が走っていた。
あー、あー、あー、と、クレメンテ少年が激しく泣きわめき始める。
床に転がった兄弟たちは、うるさそうに耳を塞ぐ。
あー、あー、あー。
さっき聞こえていたのは、この声だ。
自分の、泣く声。
(そういえば、そうでしたね。わたしは、昔、泣いてばかりで)
クレメンテは小さく吐く。
ずっと忘れていたけれど、思い出した。
自分の両親はこういう人間だった。
彼らにとって子供たちは彼らの憂さ晴らしの種でしかなかった。自分はさんざん死ぬような目に遭わされた挙げ句の果てに、はした金で革のなめし業の奉公に出されたのだ。
強い薬品を使うなめし業の奉公人が、無事に成人する率は恐ろしく低い。
あっという間に手からは爪が消え、片目がつぶれた。このままでは死ぬ、と確信した自分は、ある日命からがら教会に逃げこんだのだ。
そこでも死にかけの子どもは歓迎されなかったけれど、クレメンテは生き残るためになんでもやった。信仰心を見せるために自分の体を傷つけるのもいとわなかった。親の仕打ちと奉公先の仕打ちであちこち痛覚が消えていたから、正直軽いものだった。
そうして自分を受け入れさせたあとは、猛烈に祈った。
自分はあんな両親のようにならないように、己から邪悪を追い出すために、あらゆることをした。愛がほしかった。誰もくれなかった愛を、神ならばくれるのだという話だったから、どんなことをしてでもその愛を手に入れようとした。愛だ。愛だ。愛が欲しい。愛する者にのみ愛が与えられるのなら、あらゆるものを愛そうと思った。すべては愛のためだ。愛。自分の体をなるべく大きな袋にして、愛をぱんぱんにつめてやるのだ。
(だから、今のわたしの心には、愛以外の感情がろくにないんだ)
クレメンテは途方に暮れて、小さく笑う。
背中がうずく。
クレメンテには神の愛を得る才能があった。神は惜しみなく与えてくれた。おかげでやけどの痕は消え、爪は生え、信者から献上された目は自分の目のようにものを見るようになった。
だから、ね。
大丈夫ですよ。
ぜーんぶ、いずれ、よくなりますから。
クレメンテは泣きわめく幼い自分を見下ろしてにっこり笑った。そうして、穏やかな笑みを父親のほうへ向ける。
火箸を持った手首を掴むと、過去の父は初めてクレメンテをまともに見つめた。その目が大きく開かれ、彼の体はわずかに震える。
「あんた……どこの司祭さんだ? おかしいな。いつから、ここにいる?」
「ついさっき。もしくは、ずっとあなたの横に居ましたよ」
穏やかに微笑み、クレメンテは内心アレシュの技に舌を巻く。
彼の言う通り、これは過去の記憶ではないようだ。クレメンテは実際に自分の過去におり、過去の家族と相対している。
こんな世界を揺るがすような香水が一個人の持ち物だとは、と戦くのと同時に、クレメンテの心のどこかは希望でわくわくしていた。




