第49話 時を騙す香水
「僕はあなたの説教を聞きに来たわけじゃない。夕食がまだなんだが、あいにく僕に料理の腕はなくてね。ハナを、返してもらうよ」
アレシュが低く囁くと、クレメンテの頬はふわりと赤くなった。
彼はやけに嬉しそうに身を乗り出して言う。
「素敵だ……! 今、あなたからものすごい愛を感じましたよ、アレシュ! あなたは邪悪な存在ですが、ハナさんを愛する心はちゃんと持っているのですね。人界にも魔界にも拒否されるような化物でも、誰かを愛することはできる、素晴らしい! やはり愛こそすべてだ。愛こそが最強だ。愛はいい、何かを愛するひとを見るのは快楽だ、愛することなしでは生きていけない、わたしは全人類を、いや、この世界にある万物、万象を心の底から、力一杯愛しています。もちろん、あなたも!!」
「あなたは狂ってる、クレメンテ。僕はあなたを愛さないよ。永遠に」
アレシュが冷徹に切り捨てると、クレメンテはかすかに眼球を震わせて歪んだ笑を浮かべた。
「そう、ですか。それは、寂しいな。教会兵たちも、あなたとあなたのお仲間にみんな殺されてしまったし。……愛するべき相手が減るのは、悲しい」
「だったら生き返らせたらいいじゃないか。あなたが最初に、聖ミクラーシュで死んだ教会兵の死体にしたように」
思えばあれがすべての発端だった。
あざ笑うアレシュに、クレメンテは驚いたように目を瞠った。
「聖ミクラーシュで……? アレシュ、あなたは何か勘違いしていらっしゃる。神界へ旅立った者を引き戻すなんて神への冒涜に等しい! そのようなことをしたら神のご加護が消えてしまいます。死者を歩かせるのは、古来死体を扱う呪術師のみですよ。聖ミクラーシュで死んだ同胞の死体は、わたしがくるころにはすっかり気配が消えていました」
(……何?)
どきり、と心臓が高い音を立て、アレシュはわずかに息を呑む。
嘘を吐いているのではないか、とじっと見つめ返してみるが、クレメンテの瞳は透明なままだ。
そもそも彼には、嘘を言うという発想自体が欠けているような気もする。
だとしたら、あの死体を歩かせたのは、誰だ?
様々なひとの態度や言葉が高速でアレシュの頭の中を巡る。
何度も何度も繰り返される記憶の中から、泡のようにいくつかの違和感が浮かび上がってくる感触がある。
《《そもそも本当に死体は歩いたのか》》?
誰かが決定的な嘘を吐いていたのでは?
自分はずっと異形と化したサーシャを見ないようにしていた。
同様に、他にも見えていないものがあったのでは?
ひょっとして――
「クレメンテ。ひょっとして、あなたは」
アレシュが言いかけたとき、クレメンテは小さくため息を吐き、自分の籠手をした手に軽く口づけた。
籠手が神の祝福で淡い光を帯びると、彼は片手の拳をアレシュのほうへと伸べる。
「アレシュ。浄水槽で言ったように、あなたに救いは訪れません。わたしとあなたでは、あまりにも立っている場所が違う。だからこうしてすべてがすれ違うのです。いくら言葉を交わしても寂しくなるだけだ。――戦いましょう」
祈るような彼の言葉に、アレシュはきゅっと唇を噛む。
そうだ、今は話し合いの時間ではない。まずは一対一で戦って、勝者のみが相手のこれ以上の言葉をかけることができる。
一対一。
『無能』のアレシュと、『万能』のクレメンテでは、あまりにもアレシュが不利。
……しかし。
「そうだね。……だけど、僕の戦い方は、あなたほど単純じゃない。そろそろ、あなたにも見えるはずだ」
「何がです?」
律儀に聞き返すクレメンテに、アレシュはかすかに笑って告げる。
「あなたの好みの匂いだといいんだけど。僕は長らく自分のことを『無能』だと思いこんできた。だけどあなたが親切心で、僕の能力と、僕の怒りを思い出させてくれたからね。ここに来る前に父さんの調香部屋にこもってきたんだよ」
「なるほど、素晴らしいことです。ですが、あなたが優雅に香水を撒く前に、わたしの拳はあなたに到達する」
「だろうと思ったから、あらかじめ撒いておいた」
にいっと笑みを深め、アレシュは優美に腰を折って一礼する。
「ではご堪能ください。父さんと僕の久しぶりの合作。パルファン・ヴェツェラ十三番、改め『額縁の中の人生』。過去を呼び寄せる香り!」
「過去を。わたしがあなたの記憶を呼び戻したのに対抗したのですか? それ本当ならば素晴らしいですが、わたしの過去にやましいところなど……」
「そうじゃない。僕の香水は時間をだまして、巻き戻すのさ」
「時間を……だます?」
クレメンテは目をまん丸にしてアレシュの言うことを聞いていた。あまりにも不思議な話で、殴りかかって中断するのをためらってしまう。
そんな間にも、アレシュは音楽的な声で続ける。
「可能だよ。魔界と神界、ひとの世界はそれぞれに時の流れ方が少しずつ違う。これを複雑に行き来することで時間をずらし、君と僕は実際に君の過去を訪れるんだ。君の、記憶を甦らせる術よりすごいだろ?」
「……本当ならば凄まじい技ではありますが、やはり無駄としか思えません。あなたは何がしたいんです?」
途方に暮れて問うクレメンテに、アレシュは笑みを果てしなく甘くした。
「君が信仰を得る前の世界に行って、君の信仰を打ち砕くのさ」
糖蜜みたいに声が滴る。
あっけにとられたクレメンテは、反射的に拳を作って叫んだ。
「愚かな! わたしは生まれたときから常に神の傍らにおります! わたしの信仰は永遠です!」
叫んでいるうちに、いつの間にやら空気に充満していた香水の効果が発動する。
ひとにはまったく感知できないところで、世界がずるりと地すべりを起こす。
同時に、クレメンテとアレシュの視界が真っ白になった。
何もない。何も見えない。
ただの真っ白。
ぽかんとした空間の中に、今度はいきなりものすごい風が吹き荒れ始める。
音もなく吹き荒れる猛烈な風に抗い、クレメンテは必死にその場に立ち続ける。
負けない。負けるわけがない。こんなものは下劣な幻術だ。
そうやって自分に言い聞かせながら、クレメンテは心の端っこに疑念が引っかかっているのにも気づいた。
そういえば、自分はいつから信仰に目覚めたのだろうか。
そのことを、もう随分長く考えていない。
……なぜ?
風の向こうからは誰かの話し声と、懐かしい歌声と――幼い子供の、泣く声がした。




