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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
48/112

第48話 逆さ聖堂での邂逅

 百塔街の中央広場から延びる道をまっすぐに歩いて行くと、その奇妙な坂に出る。

 進むにつれて徐々に傾斜がきつくなり、ついには地面に対して直角になり、さらにそれ以上の角度にもなる石畳。

 呪いでひっくり返りかけた百塔街の、先端部分へ向かう坂だ。

 坂の両側にはしっかり根でも張ったかのような建築物がはりついているが、いくら百塔街でも真横や逆さになった家に住む者は居ない。

 坂を進めば進むほど、街は廃墟の様相を呈し始める。


『逆さ聖堂』とは、その坂の行き止まり、三角形をした百塔街の突端にある、完全にひっくりかえった聖堂のことである。


「……悲しい場所ですね。かつては温かな信仰の気持ちで満ちていた場所が、今はその信仰を辱める気持ちの象徴として残されているとは」


 がらんとした聖堂に、悲しげな声がかすかに尾を引いて響いた。

 逆さ聖堂の中はすべてが逆さまだ。

 はるか頭上にはモザイクで迷路を描いた床があり、壁には逆さまになった色硝子窓や半ば欠落した壁画、頭を下に壁に磔になった使徒の像などが見てとれる。

 今は床となった天井はすり鉢状になっており、天井画が少しも見えないほどのがらくたで埋まっていた。


 クレメンテはただひとり、そのがらくたの上に座っている。


 彼の姿は浄水施設に現れたときとほとんど変わらない。

 白い衣服は洗われなくとも汚れを知らず、金色の髪にも荒れた様子はない。

 確かに一度ミランの氷に閉じこめられたというのに、どこか怪我をした様子もない。これもまた、彼をとりまく奇跡のおかげだ。

 世界には、氷に閉じこめられても奇跡的に生を長らえる生物が居る。

 もちろんそれらの生物は人間よりもよほど単純な構造を持っていることがほとんどなのだが、クレメンテは細胞ひとつひとつに起こる奇跡でもって老いることすらやめた男である。今回も気が遠くなるような奇跡が重なって、彼の体はミランの冷気が緩むまで超低温に耐えきったのだ。


「神がある限りわたしは生き、生き続ける限り奇跡と信仰の道は続く」


 クレメンテは囁き、色硝子ごしの光に髪をきらめかせて首をもたげた。

 その顔の半分は以前のまま柔らかな美しさを保っているが、残りの半分はぞっとするような形状にねじ曲がり、焼けただれている。

 アレシュが投げつけたアマリエのせいだ。

 クレメンテを包む奇跡も、アレシュの「魔界と人間界」「人間界と神界」を混ぜる力には対抗する術をもたなかった。ゆがみが全身に広がるのを途中で止めるので、精一杯だったというところか。


 異形のものとなった顔で、それでも真摯にクレメンテは逆さ聖堂の一角を見つめる。

 彼の視線の先の薄闇からは、さっきから細い紫煙があがっていた。

 煙草の明かりがちかりと光り、薄闇に立つひとの襟飾りに反射する。

 漆黒の紳士装束に、悪趣味なまでの過剰装飾。

 アレシュ・フォン・ヴェツェラ。

 先ほどここへ到着した彼は、クレメンテと視線があうと目を細めて笑った。


「ごきげんよう、クレメンテ。ここに神はいないけど、深い夜の気配がするね。物憂く湿った夜の匂い――僕の好きな匂いだ」


「アレシュ。本当に来たんですね。ひとりですか?」


 問うたクレメンテの声は、どことなく以前と違う。

 青くきらめく瞳に宿る光も、以前のような純粋なきらめきとはどこか違って見える。以前の光がぽかんとした太陽の光なら、今の光は強い酒の表面に灯った炎のよう。信仰心と闘争心がないまぜになって、陶然とした光であった。


(随分とまあ、人間らしくなって。僕らに儀式をぶち壊されて、さすがの聖者も怒りを覚えたのかな?)


 いささか小気味よくは感じるものの、怒りの温度ではアレシュのほうも負けてはいない。こんな怒りは一体いつぶりだろう? そもそも自分は、今までまともな怒りを覚えたことなどなかったのかもしれない。

 それを、この男が目覚めさせた。

 あの、赤と黒の伝言で。

 アレシュは淡い興奮と共に足を進める。

 白い顔には妖艶な笑みを浮かべ、少しばかり度を越して優しい声で囁きかける。


「ひとりだよ。普段はあまりつるまないんだ。そのほうが気楽だし、分け前を払わなくてすむし、僕の思うところの美を完成させやすい。『使徒』結成前はずっとそんなふうにやってきた」


「わたしは逆です。教会に入ってからずっとみんなと一緒にいたので、ひとりで居る気分、というのを最近すっかり忘れていました。……孤独というのは、なんとも心細く、自由なものですね。こんなものに浸っていては、危うい方向へ流れるのもいかにもたやすいことでしょう」


 深く考えこむ風情で言いながら、クレメンテはぎこちなく立ち上がる。


「……さて。話し合いで改心していただければいいのですが、もうわたしたちは互いに言葉を尽くした。これ以上、わたしの話を聞いてくださる気もないのでしょうね?」


 この期に及んで平和ぶったクレメンテの言いように、アレシュの瞳が鮮やかな殺気を含む。

 台所で見た赤と黒が、目の前でチカチカする。

 ハナ。可愛いハナ。アレシュを愛してわざわざやってきたハナ。あのよどんだ瞳と、くるりと巻いたかわいい角。まずい料理と、まずいピアノ。あの子の血なんか見たことがない。見たいと思ったこともない。あの子は好き勝手下僕を踏みつけて、自分の後をくっついて回って、飽きたら全部を捨てて去るのが似合っていた。


 よりによってあの子に手を出したあげくに、何が改心だ。


 魔界の客任せなんかではなく、自分で相手の喉に食らいついてかみ殺してやりたい。死の間際でも同じことが言えるのかどうか、見ていてやりたい。

 そんなふうに思って、アレシュはほんのすかに笑った。

 今、自分は、自分以外の誰かのために、誰かを殺したいと思っている。


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