第44話 そして、何も変わらない日々
懐かしい夢をみた。
棺桶からこぼれ落ちる、枯れた白薔薇みたいな匂いの夢。
誰かが優しい声で歌っている。
――歌っているのは、誰?
つんと澄ました父親を引き裂いて笑う母さんなのか、溶け崩れてしまったサーシャなのか、それとも、寂しく死んでいった歌うたいの女なのか。
高く、低く、不安なくらいに不安定で、浴場で歌っているみたいにわんわん響く。誰の声かはわからないが、歌っているのは『愛こそすべて』だ。
愛こそすべて。
愛がなりゃ、生きていけない。
そうやって歌いながら、結局みんなひとりで死んだ。
悲しいな。
みんな弱くて、みんな悲しい。
僕と同じだ。
そう思ったとき、アレシュは泥のような眠りから覚醒した。
(……僕の部屋)
重たい瞼で瞬きながら、徐々に鮮明になってくる視界を確かめる。
赤地に金糸でびっしり刺繍を施した壁紙、そこにかかった装飾過多な鏡や細密画の数々。埃かぶった安楽椅子や円卓、三つの衣装箪笥と二つの帽子掛け、曇った硝子がはまった陳列ケースには山ほどの時計と装飾品。
それらの家具の上に、くまなく脱ぎ散らかされた衣装が引っかかっている。
重い緑のカーテンを引いた窓からは、真っ赤な空が垣間見えた。
すっかり見飽きた、寝台から見る自分の部屋の光景。
いきなり返ってきた日常に、今がいつで、気絶する前何をしていたのかがよくわからなくなりそうだ。アレシュはおそるおそる寝台から体を起こした。
「い、て、いててて……」
震え上がるような痛みが全身を襲い、アレシュは小さくうめいて縮こまる。
短い息を重ねて痛みをやりすごし、おそるおそるシャツの胸を開けてみると、クレメンテに蹴られて出来た傷の上に包帯らしきものが巻かれていた。
音からして、多分肋骨が折れたのだろう。
だとしたら包帯なんか気休めだ。カルラが色んな禁制品を鍋で煮て、あらゆる痛みをふっとばす魔女薬を作ってくれないかな……と思ったところで、気絶する前のもろもろがどっと生々しく蘇ってきた。
(みんなはどうなった? 上水施設は? クレメンテは、ちゃんと死んだのか)
焦りとも恐怖ともつかないものに背を押され、飛び起きかけて痛みにうめく。
「あいたたたた……本当に、勘弁してほしいよ……。僕は痛みに弱いんだ」
情けないことを言いながらどうにか寝台から降り、椅子の背に引っかかっていた上着を肩にかけて廊下に出た。もどかしいほどのろい歩調で広い屋敷を抜け、サルーンにやってくる。
そこでは見慣れた家具たちが、いつもと変わらず埃をかぶって沈黙している。
数だけある椅子やソファは、すべて空っぽ。
ひどく静かだ。
「……みんな、帰った? それとも……」
小さくつぶやき、アレシュはどさりとひとりがけのソファに身を沈めた。
稲妻のように全身を痛みが突き抜け、どっと汗がにじむ。
悲鳴をあげたいと思ったが、聞いている人間もいないと思うと声を出すのが面倒だった。黙って痛みをやり過ごしていると、辺りの静寂が身にしみる。
(僕が無事だっていうことは、百塔街の平和は守られたんだろう。カルラやルドヴィークは殺しても死ぬような人間じゃない。きっとみんな、家に帰ったんだ。元々、クレメンテを倒すために集まっただけだったから。ミランとハナは……)
ミランとハナが顔を出さないのはちょっと納得がいかないな、と思いかけて、アレシュは思わず吹きだしてしまった。
「あ……いたたた、た、は、ははは……ばかみたいだ……。なんでまだ、あいつらがそばに居て当然みたいな顔してるんだ。とんだ、化け物なのに。ねえ……サーシャ」
その名を呼ぶと、ますます笑えた。
彼を、サーシャを殺したのは自分なのに。
苦痛に弱く、寂しさに弱く、気づくと誰かを頼っている自分。
異形の能力を持つ自分に、そんな資格はない。
もっと厳しくあるべきだった。力ある者ならばもっと背筋を正し、己を律し、理性的に力のふるい所を考えるべきだった。なのに自分は心で泣きわめいて、表で笑って、ただ怠惰に過ごすばかりで。
仲間だと思っていた『使徒』たちは、本当は何を考えていたのだろう?
誰もがアレシュの本当の力を知っていた。知って、黙っていた。
一体なんのためだ?
監視か?
力を探るためか?
もしくは、ただの哀れみか?
出来れば哀れみ以外だったならよかったな、と思い、アレシュは深くため息を吐く。ソファの背もたれに頬を預けて薄いまぶたを閉じると、体が泥のように感じられた。小さい頃はよくこんな気分になったものだ。
どこまでも疲れていて、心も体も全部溶かして、消えていきたかった。
(本当に消えられたら、誰にも迷惑なんかかけなかったのに)
ぼんやりと考えるアレシュの耳に、遠くで開く扉の音が響く。
――まさか、エーアール派か。
ぎょっとして耳を澄ますと、聞き間違えようのない威勢のいい声が聞こえてくる。
「アレシュ! いるか、アレシュ!」
「……? ミラン……?」




