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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
43/112

第43話 「お帰りなさい、ご主人様」

「ミラン、どこだ、ミラン! おい、答えろ! ……カルラ、ミランがいない!! クレメンテと一緒に氷漬けになったかも!!」


 喉から血が出そうな勢いで叫んでいると、不意に扉の陰からミランの顔が現れた。彼は瞳を野性的な光で輝かせ、にやりと笑って見せる。


「俺がそんなへまをすると思うか?」


「思う!! ミラン、無事だったのか!」


「即答するな、即答!! 俺の実力は信じなくとも、俺の冷気は信じろ! 俺が扉から水面に到達するまでに、すべての水はすっかり凍っていた。教会兵とクレメンテは一網打尽だ! ルドヴィークとカルラは、なんとかして巻きこまれていないと信じている!」


 自信たっぷりに胸をはるミランを見て、アレシュは深く息を吐く。

 この男が無事なだけで、こんなにほっとするのが腹が立つ。

 だが、まだ心から安心するには早かった。


「……僕もカルラとルドヴィークと、この扉を開けてくれた女の子を信じてるよ。ミラン、上がってこい。仕上げをする」


 アレシュは囁き、外套をミランに放り投げた。

 ミランが受け取った外套を肩にかけたのを確認してから、ポケットから出した香水瓶のポンプ部分を外し、力一杯氷の表面へたたきつける。

 軽やかな音を立てて瓶が転がったかと思うと、どっと辺りに闇の匂いが漂う。

 昼と夜とが逆転したような錯覚と共に、香水瓶が落ちた場所がぽつりと黒くなった。

 黒。

 もしくは、闇のかけら。

 湿った黒はまるで生きているかのようにふるふると震えたかと思うと、四方八方へと広がった。数秒のうちに、扉から見える範囲すべてがビロウドのような黒に染め上げられる。

 土と、水と、猛禽の潜む森の囁きを感じさせる、夜の匂いが深くなる。

 アレシュの香水が繰り広げる芳醇な夜に惹かれて、遠くで何かがうなる声がする。がちがちと歯を鳴らし、獲物で満ちた夜をかぎつけた、何か。

 アレシュはそのうなりが聞こえる先を見通すような気持ちで、囁いた。

 

「パルファン・ヴェツェラ九十九番。魔界の客人よ、来たれ……!」


 彼の言葉の最後に、猛り狂った獣のうなりと、人間じみたすさまじい哄笑が覆い被さってくる。闇の匂いと入り交じり、猛烈な血の匂いが押し寄せる。

 あちこちでめきめきと氷が軋み、土砂降りの雨のようなばらばら、ばらばら、という音が響うた。アレシュはとっさにこれが何の音か判断できなかったが、どうやら天井の石のかけらが砂と共に落下して、氷の上で躍っているらしい。


「――特別、大柄な方がいらしたみたいだな。上水施設ごと崩れるぞ」


 アレシュは脂汗を垂らして言う。

 傍らから、ハナの切羽詰まった声がした。


「ご主人様、ミランが死にます。回収してください!」


「わかってる。おい、ミラン!」


 アレシュは叫び、扉の向こうに手を伸ばした。

 その手をミランが掴む。


「……っっ……!」


 ミランの指にはまだ冷気が残っていて、アレシュの肌をじりりと焼いた。

 それでも、アレシュはさらに彼の手を強く握った。もう片方の手でミランの外套をつかまえ、渾身の力で引き上げる。

 クレメンテに蹴られた傷と、冷気による火傷の痛みが全身を駆け巡り、脆弱な精神が泣きじゃくる。苦しい。きつい。やめてしまいたい。

 僕なんか、どうせ無能なんだから。

 脳裏に、泣きじゃくる幼いころの自分の姿がよぎる。


(黙れ。黙れ、黙れ!)


 己の幻影をひたすらに叱咤していると、不意に体が楽になった。

 ミランの体がこちら側へと転がりこんだのだ。

 アレシュはその場で、ばたんと床にくずおれる。

 即座に扉が閉まる音がして、辺りからすべての音が消える。


 ――静かだ。


 恐ろしいほどの静寂の中、かち、かち、とほんの小さな時計の音が聞こえてくる。

 アレシュはぎこちない呼吸を繰り返し、床に転がったまま、辺りを見渡した。

 ほこりっぽい分厚い絨毯。

 すり切れかけた椅子。

 黒塗りの円卓。

 大理石の柱。

 吹き抜けの天井には、細い天窓。

 ここは、見慣れた場所だ。ヴェツェラ邸のサルーン。

 ミランはアレシュの傍らに転がっており、反対隣には陰気な目をしたハナがいつもの服装で立っている。


「……お帰りなさい、ご主人様」


 淡々と言われると、体からすべての力が解けていった。


「うん。ハナ……ただいま」


 囁くように言った後、アレシュの視界は真っ暗になる。


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