第42話 ミランの隠し技、もしくはただの呪い
「こういうときこそ魔女の出番よ。ちょっと下がっててね、みんな」
「カルラ! まだ祭壇が開いてる! 君の使い魔、持って行かれるぞ!」
アレシュが目を瞠って叫ぶと、カルラは軽く片眼を閉じた。
「相変わらず優しい子ねえ、私のアレシュ。私のほうばっかり見てちゃ、自分がおぼれちゃうわよ。気をつけて。水死体は美しくないものね」
優しく言う彼女の下で使い魔の足ががっちりと祭壇の蓋を抱えこみ、万力をしめるように力をかける。
がりがり、ぎぎぎぎぎ――と耳障りな音が立ち、相当な重さであろう蓋がのろのろと動いていくのがわかった。
とはいえ、使い魔の紫色の足のほうもかぎ爪のついた先から真っ黒になってぼろぼろと崩れていく。堅さと質量を失い、燃えた紙くずのように縮れた成れの果てが、祭壇の奥へとふらふらと吸いこまれていく。
それでも、使い魔は力をこめるのをやめなかった。
そのせいだろうか、切り立っていた水の壁がぶるぶると震えだすのがわかった。
「――水が……!」
クレメンテがはっとして顔を上げ、頬の傷を押さえて何か叫ぼうとしたとき。
かちり、と音を立てて、祭壇の蓋が閉まった。
途端にどうっ、と大量の水がなだれ落ち、アレシュの体に降り注いでくる。
あらがいようのない水圧が襲いかかり、繊細な細工の紳士服をまとった体がモザイクタイルに押しつけられたかと思うと、視界がむちゃくちゃに乱れた。
もはや、自分がどこを向いているのかもわからない。
混乱の中で、息苦しさが急に高まる。
目の前が赤くなる。
(まずい、誰か……!)
ほとんど無心に伸ばしたアレシュの腕を、誰かが力強くつかんだ。
アレシュは空気が恋しい一心でその腕にすがり、水面に顔を出し、何度か大きく咳きこむ。すがった腕はやけに服でかさばっていて、ついでに冷たかった。
間違いない、ミランだ。
「お前……泳げたのか……。知らなかった」
力なく咳きこんで言うアレシュに、ミランは適当に怒鳴る。
「ならば、今知ったな! ハナさん、頼む!」
ミランがアレシュを支えたまま頭上に向かって叫ぶと、少しこわばったハナの声がした。
「――ご主人様もいらっしゃるのなら、仕方ありません」
次いで、ふたりの頭上にハナの扉が出現する。
水面と平行に、手を伸ばせばぎりぎり届く位置に出現した古めかしい扉は、内側から勝手に開く。その奥はひたすらの闇だ。
いつもの書庫とは違う場所のようだが、ためらっている暇はない。
乾いた、埃の匂いのする闇に向かって、ミランとアレシュは手を伸ばす。
空中に開いた扉の縁に手をかけ、どうにか濡れた体を引き上げる。
「……は……ぁ……とてもじゃないが……紳士の労働じゃない、な、これは」
「よーし、いつもの調子が戻ってきたな? 扉を閉める。少し離れて――」
アレシュが扉の向こうの薄暗がりに転がってつぶやき、ミランは扉を閉めようと身を乗り出した。
そして、息を呑む。
「どうした……?」
ミランの様子が気になって、アレシュも彼の隣から扉の下をうかがった。
扉の下には、さっきまでふたりがいた二千年前の浄水槽が透明な水を湛えている。大きく波打つ水面は、天井からの陽光を受けて薄赤い。
その水面から、白い腕が生えていた。
土から花が生えるかのように、浮き沈みすることなく指だけをうごめかせているのだ。指は何かを求めるように空を掴んだ後、ぐうっと扉のほうに迫ってきた。
「……っ!? クレメンテか?」
さすがのアレシュも、目の前の異様な光景に悲鳴に近い声をあげる。何しろ浄水槽の水の深さは、クレメンテの身長の三倍近くはあるはずだ。
「泳いでいたらこうはならん。放っておくと奇跡で水面でも歩くかもしれんな! アレシュ、どけ!」
ミランはすかさず扉の縁に手をかけて、足でクレメンテの腕を蹴り戻そうとする。が、クレメンテの腕はあっさりミランの足首をつかみ取った。
アレシュはとっさにミランの腰を抱き、支えながら叫ぶ。
「何をやってるんだ、ミラン! クレメンテにこっちへ上ってこられるぞ!」
「安心しろ、俺が、奴のほうへ落ちる」
「……落ちる?」
あまりにあっさり言われたので、うまく意味がとれずにアレシュは瞬いた。
ミランはそんな彼を見やって不敵に笑い、分厚い外套を脱ぎ捨た。そしてすぐさま、浄水槽の水面へと飛び降りる。
「ミラン――っ!」
アレシュは腕の中に残った外套を振り捨て、思わず彼の腕をつかもうと手を伸ばした。が、恐ろしい冷気に阻まれて息を詰める。
わずかに遅れて、白いもやがどっと扉から湧き上がってきた。
アレシュは本能的に腕で顔をかばってしまってから、ミランのやったことに気づいてぞっとする。
(水に冷気――そうか)
ミランは外套の下に冷気避けの護符を山ほどくっつけている。それを脱ぎ捨てたということは、自分の冷気を全力で放出するということだ。
彼は浄水槽の氷をまるごと凍らせることで、クレメンテを封じこめようとしたのである。
アレシュは扉の枠をつかんで目を凝らし、もやの中にミランの姿を探す。
「下僕! お前、クレメンテと心中しようなんて阿呆なことを考えるなよ! お前はそういう格好いいことには向いていないんだ。万が一そんなことを企てたら、事実をゆがめて言いふらすからな!」
声を限りに叫びながら瞳に意識を集中すると、段々と視界が晴れてきた。
思った通り、水面は見事に凍り付いている。




