第40話 「あなたに安らかな眠りはありません」
「アレシュ! そいつの言うことを聞くな! 目を覚ませ、アレシュ!」
「……っ……ミラン」
はじかれたように目を開け、息を吸いこむ。
おかしなところに空気が入って、盛大に咳きこんだ。ひどいめまいと頭痛がする。
でも、意識は戻った。
過去の幻影は目の前から消え、アレシュは二千年前に作られた浄水槽の底で、クレメンテによって祭壇の上に押しつけられている自分に気づく。
「――すべて、思い出したのですね?」
すぐ近くに、まだクレメンテの顔がある。彼はまだ悲しい目をしている。
アレシュは改めて、彼の目を見つめ返した。
一瞬まぶたが痙攣したが、それ以上の異常はなかった。心は衝撃でぼうっとしているが、多分、正気だ。
さっきみた――みさせられた、生々しい夢の中身も覚えている。
「思い出したよ。……どうやら、僕は『無能』じゃないらしいね」
心とは少し遠いところで、アレシュの口は勝手にいつもの調子で減らず口をたたいていた。
そんなアレシュに、クレメンテが泣きそうな顔で囁く。
「神は、わたしにもあなたの記憶を見せてくださいました。あなたのお父さまは、本来人間と交わる可能性などない高位の魔物と交わったのでしょう。本来ならばそのような組み合わせでは子など生まれない。ですが、お母さまはどうにかしてあなたを生みたかった。そのためにあなたに禁忌の力を与えたのです。
それは、人間界と魔界を混ぜ合わせる力。それぞれの世界に満ちる力そのものを騙して、入り交じらせる力。
あなたのその力が、サーシャさんをとてつもない化け物に変えたんだ」
悲しみに満ちた声が、アレシュの心をどすん、と突き刺す。
愛こそすべて。
サーシャはよくそう歌っていた。アレシュの母はアレシュの父を愛していたのだ。そして、アレシュのことも。
その愛が、アレシュに異形の力を背負わせた。
そして、その力が、サーシャを、ひとではないものにした。
「アレシュ・フォン・ヴェツェラ。あなたの力は世界を原初の混沌に戻しかねない。人間にも、神々にも、そして――魔界の住人にとっても、害悪でしかあり得ない。わたしにもあなたは救えない。あなたに安らかな眠りはありません。……あるのは消滅のみ」
まだアレシュの心が自分の衝撃の大きさすら認識できないうちに、クレメンテは己の拳に口づけた。
敬虔な祈りの気配と共に、拳は淡い光を帯びる。
これも神の奇跡なのだろう。彼の神はいつでも彼の傍らに居る。
アレシュは、どうだろう?
彼に異形の力を与えた母は魔界へ帰り、追い求めていた昔の友達は、もういない。
『混ざってしまった』サーシャの成れの果ては――そうだった、多分、カルラが処理してくれたのではなかったか。
アレシュはずっとずっと夢をみていた。自分は無能なんだ、誰も傷つけられないんだという夢を。穏やかな幽霊なんて、アレシュが作り出した都合のいい幻だった。本当にサーシャの幽霊なんてものが存在するなら、きっともっと凶悪なものだったろう。アレシュを恨んで、憎んで、引き裂こうとしてきただろう。
……悲しい。
「何が消滅だ、ばかめ! 俺を見ろ、クレメンテ・デ・ラウレンティス!」
アレシュが強大な悲しみに襟首をつかまれているところへ、思わぬところから思わぬ人間の声がかかった。
ミラン、とアレシュがぼんやり思ったのと前後して、ミランが空中回廊から飛び降りてくる。そして、勢いを殺せずに床に転がった。
「つぅ……いたたたた……っ!」
苦鳴をかみ殺しながら、ミランは一回転して起き上がる。
あいかわらず、いまひとつ体捌きが甘い男だ。
「去りなさい、悪しき呪いを負った符術師よ」
一方のクレメンテは、アレシュの襟を引きずったまま、奇跡のように鋭い蹴りを放った。鈍重い装備などものともしない速度に、ミランは見事、こめかみに重い打撃を食らって横へすっとぶ。
ミランはそのまま盛大に床を転がり、ぱしゃん、と水音を立てて水の壁へ顔をつっこんだ。
「ミラン……! お前、何しに来た……!」
あまりにいつも通りのミランの様子に、アレシュは思わず叫んだ。
クレメンテがミランから視線を外し、アレシュのほうを向く。
次の瞬間、アレシュの目の前で派手に星が散った。
「……!」
息が止まりそうになり、あっという間に膝が崩れる。
額にクレメンテの頭突きを食らったのだ、と気づく前に、アレシュの体はモザイクタイルの床に転がった。
続いて、脇腹に装飾過多の長靴のつま先が食いこむ。
ぱきん、といやに乾いた音が体中に響き、どっと冷たい汗が噴き出す。




