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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
39/112

第39話 愛しのサーシャと死の香り

 飢えた少女の声で、サーシャが歌を歌っている。


 ――それ、なんて曲。


 ためらいがちにアレシュが訊くと、サーシャはぼんやりと笑って答えてくれる。


 ――『愛はひとときの夢』。

 昔、ちょっと有名だった酔っ払い女が歌って、この街でだけ流行った曲。その女は歌で金持ちになったけど、クズ男に捨てられて死んだよ。


 ――そうか。よくある話だけど、歌は綺麗だ。


 アレシュはつぶやき、膝を抱えて考えた。

 その女はなんで捨てられたんだろう。

 やっぱり、愛は夢だから?

 永遠に続くものではないから?

 だとしても、彼女はこんなに綺麗な歌を作れるひとだったんだから、誰かが『生きていてくれ』と願っただろうに。


 考えこむアレシュに、サーシャが声をかける。


 ――アレシュ、お前、もうこんなところに来るのはよせよ。


 ――また、その話。


 ――また、その話だ。お前には立派な家と、才能があるんだから。帰れよ。


 柔らかに言って、サーシャは古い衣装櫃を改造した寝台に横たわる。

 錆びた装飾のついた巨大な櫃は、どこからどう見たって棺桶だ。

 それが彼の唯一の持ち物なのだ。


 サーシャの母親は魔女だったらしい。でも、彼女は男に生まれついたサーシャには魔法のひとつも教えずに、十歳にならないうちに捨ててしまった。

 サーシャには行くところがない。住むところは『隅っこ』だ。せこい犯罪行為で手に入れたわずかな持ち物を衣装櫃に放りこみ、そいつを引きずって百塔街のあらゆる隅っこに忍びこむ。

 彼のすみかはくるくる変わる。屋根が半分しかない腐りかけの廃屋。偏屈な老人呪術師がひとりで住んでいる館の屋根裏。暗渠の横穴の、さらに隅っこ。

 どこにいても、結局いつかは誰かに追い出される。彼のいるところはいつも仮。

 永遠に続く引っ越しみたいだろ、と笑う彼の横が、幼いアレシュにとっては一番安心できる居場所だった。


 綺麗なアレシュ。

 綺麗なだけの、アレシュ。

 

 サーシャだけは、そんなふうにアレシュのことを揶揄しない。


 ――僕には才能なんかない。ちっとも父さんに敵わない僕なんか、跡取りにはなれないよ。家に居ると、いつも思う。僕は要らないものなんだ、って。


 アレシュが膝を抱えて愚痴っても、しらっと笑って返す。

 

 ――ガキの理屈だなぁ、赤ちゃん。


 彼の戯れ言は馬鹿にするようではなくて、ただただ優しい。

 優しいだけで、下心もない言葉が、美しすぎるアレシュには得がたいもので。彼の前だけが、屈託なく子どもっぽくいられる場所で。


 ――サーシャが思うほどガキじゃない! ねえ、僕をあなたの仲間にしてよ。ずっと連れて歩いてよ。僕はあなたの横にいる間は安心なんだ。あなたを守るためになら、もっと強くなれる気がしてる。


 ――嬉しいこと言ってくれるじゃないの。でもまあ、とにかく帰れ。帰って、一人前の調香師になってこいよ。俺を守りたいんなら、一人前になってから。


 彼の声はいつだって眠そうだった。櫃の縁から零れる長い赤毛は、棺桶についた血の跡みたいに見えた。ぎくしゃくと痩せた体からしても、いつも青白い顔色からしても、嫌な咳をすることからしても、彼が不健康な人間なのはよくわかった。

 予感があった。

 このひとは、自分が一人前になるまでなんて待っていてくれない。

 もどかしかった。苦しかった。別れたくはなかった。そのためにはどうしたらいいのか、幼いアレシュは懸命に考えた。


 アレシュはいつしか、街をふらつく時間を減らした。

 ぼんやりしてる暇があったら、父の館の中にある《《自分にしか見えない扉》》を開けて、中の本を読むようになった。

 集中すれば本の内容はするすると頭に入ってきたが、我に返ると、本に書かれている文字が意味不明な絵文字に変わるのが不思議だった。

 

 ――一刻も早く、一人前の調香師になる。そうして、サーシャを長生きさせる。


 それが、アレシュの出した結論だった。

 一人前の調香師がなんたるか、そのころのアレシュにはよくわからなかった。 

 一体どんな香水を作ればサーシャが『一人前』と呼んでくれるのかについて考えに考えて、結論は出た。


 父が作れなかった、母を呼び戻す香水を作る。


 これさえ出来れば、父を超えたことにもなろう。

 今まで『そんなことは出来ない』と思いこんでいたけれど、サーシャのためなら出来る気がしていた。とにかく、やらねばサーシャが死ぬのだ。あの、優しい居場所が永遠に失われるのだ。


 夢中になったアレシュは魔界の本から様々な毒と魔法の使い方を学び、父の調香室に忍びこむようになる。父の不在を狙っては何度も実験、失敗を繰り返し、間違って呼び出してしまったものは《《扉の向こうに》》押しこんだ。

 延々と、気が狂いそうな細かな作業を続けて、うまい発想が出ない頭を小さな拳で必死に叩いて、部屋を歩き回って……そうして、ある日唐突に確信を得る。


 これだ。

 自分が求めていたものは、これに違いない。

 出来たのだ。

 望むところに到達した。


 ――サーシャ。お願い、見てくれよ。できたんだ。ずっと作りたかったもの。父さんにも作れなかったものを、僕が作ったんだ。これで一人前だろう?


 息せき切ってサーシャのねぐらに駆けこんだアレシュに、友人は浅く笑って見せた。


 ――そう。よかったな。じゃあ、今度お祝いでもしよう。今日は俺は、眠いから。


 囁いた彼からは、死の匂いがした。

 彼の生まれつき鋭い嗅覚が告げていた。

 これは確かに、死にゆく獣の発する匂いだった。枯れゆく植物の匂いだった。

 病か。怪我か。心の渇きか。とにかく、彼は死の淵にいた。

 放っておくことはできなかった。

 今度、なんてない。

 アレシュは大急ぎで、ポケットから小さな香水瓶を取り出した。


 ――少しなら大丈夫だろ。見ろよ。母さんの愛した香水だ。これで、母さんが帰ってくる。


 サーシャはもう笑うこともせずに、ぼんやりアレシュを見ていた。

 アレシュはそんなサーシャから目をそらし、香水をハンカチにしみこませ、偉大なる父の仕草を真似て懸命にハンカチを振る。


 ――さあ、ご堪能ください。これがパルファン・ヴェツェラ〇番。《《魔界の扉を開ける香り》》。


 ――なんだ、そのふざけた言い方。


 サーシャは面倒くさそうに笑った。痩せたその姿がぼやけて見えた。

 そして、不意に、彼の姿は二重写しになった。

 サーシャの灰色の瞳と、誰かの赤い瞳が重なる。

 赤い瞳。

 ……アレシュと同じ。


 ――母さん? 来てくれたの?


 アレシュが喜びに瞳を輝かせて叫んだ、次の瞬間にサーシャの形が崩れた。

 彼の赤い髪が、蒼白いまでの肌が、まるで乾いていない粘土細工のように、ぐにゃりとゆがんで渦を巻く。蝋燭みたいにとろけて崩れて、あっという間にひとの姿でなくなっていく。


 ――やめて。


 やっと声が出たのは、サーシャがすっかりぐしゃぐしゃになったころだった。


 ――やめて。やめて。やめて。


 ばかみたいに繰り返した。それしか言えない、物言う鳥のようだ。

 やめて。駄目。サーシャの《《中》》に入ってこないで。

 僕の友達なんだ。サーシャだけなんだ。

 アレシュはサーシャに腕を伸ばす。

 もはや何がなんだかよくわからなくなった友達をつかむ。元へ戻そうと、必死に力をこめてこねまわす。

 その間も、アレシュの喉は勝手に叫び続けている。


 ――やめて。やめて。やめて、殺さないで。壊さないで。お願いだ、《《母さん》》!


 誰かがころころと笑っている。

 優しげな声で笑っている。

 なんて甘い薔薇の香り。

 いや、違う? これは石けんの匂い?

 それとも、血?

 ああ、一番確かだと思っていた、匂いの記憶がゆらぐ。

 匂いがゆらぐと同時に、視界も大きくゆらいだ。

 もう、何が現実で何が夢なのかもわからない。目の前の光景はあまりにも奇妙で、不自然で、悪夢そのもの。知っていたものが知らない形になって、必死の努力は最悪の結果をもたらして、こんなのが現実だなんて、そんなの酷い酷い酷い、酷すぎる、おかしい、駄目だ、くるう。いやだ。ちがう。ちがう。ちがう……そうだ、きっと、違うんだ。うそだ。だってそのほうがしっくりくる。

 サーシャがわけのわからない形になって溶けちゃうとか、そのきっかけを作ったのは自分だとか、そんなの変だ。

 変なことは修正しないと、正しくしないと、本当の、あるべき形にしないと。

 そう思うよね。そうだよね。それが正しいよね、サーシャ。


 ほら、おいでよ。


 サーシャ、すねてるの?

 そんな変な形になってないで、こっちにおいで。

 僕が君を直してあげる。

 ね? 怖くない。僕はね、君のこと、覚えてるよ。

 君の表情も髪も姿も仕草も覚えてるから、君を組み立て直すことなんて簡単なんだ。

 そう、こうやって――ああ、ちゃんと元の色に戻ったね。

 赤は君の髪の色。

 白は君の青ざめた肌の色。

 そうら、すっかり元通り。おかえり、サーシャ。

 あっという間だったねえ。

 なんだかあなた、前よりちょっとぼうっとしてる?

 僕がいくら話しかけても、ちっとも喋ってくれないし。

 疲れてるのかなあ。まあいいよ、それでも。


 あなたがそうしてぼうっとしている間は、僕が守ってあげるから。


 うちにおいで、サーシャ。

 僕の部屋には父さんは絶対来ない。

 誰も入ってこないから、そこにいるといいよ。


 ……そうして、何も喋らない、何も食べない『サーシャ』を、アレシュは家にかくまった。

 蜜月が続いたのは、今から五年前まで。


 ――なんだ、家まで来たのか、お前。しょうがないな。来たからには僕の友達を紹介するよ。彼は少しぼうっとしてるけど、大事なひとで。ずっと一緒にいるんだ。


 ミランと知り合って間もないころ、アレシュは館にかくまっていたサーシャを彼に紹介した。

 そのときのミランの顔は、今も忘れられない。


 忘れられない?

 ……違う。


 ――それすら忘れていたんじゃないか、今の今まで。


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