第38話 奇跡が暴くアレシュの記憶
銀色の祭壇の上で、男は姿勢を正す。
きびきびとした動きにつれて長い金髪が宙に躍り、長靴のかかとがかつんと音を立てた。アレシュの無様な着地ぶりが際立つような、どこまでも完璧な着地。
髪も、衣装の襟や裾も、何ひとつ乱さず、クレメンテ・デ・ラウレンティスはそこにいた。
彼の髪にきら、きらと光が落ちているのを見て、アレシュは天井を仰ぐ。
天蓋形の天井に、ぽっちりと赤。
あれは、空の色だ。
「……さすが奇跡の男。地上からここまで飛び降りて無傷か。あげくこの花はなんだい? わざわざ演出のために抱えてきたんじゃないとしたら、神界から降ってきたとでもいうのかな」
アレシュが甘やかに言うと、クレメンテは静かに口を開いた。
「アレシュ・フォン・ヴェツェラ」
柔らかな唇がつむぐ名には、震えるような悲哀が載っている。
心臓を直接撫でられたような気になって、アレシュはわずかに顔をゆがめた。
怖気上がるこの感覚。直感的にわかる。
こいつは今、アレシュに同情している。
「――なんだい? そういえば君、《《何者かに》》捕まった部下たちは見捨てて来たのか? 何人もいただろう?」
少々無様なほどけんか腰になってしまうのは、こいつに同情されるのがあまりにも不愉快だからだ。アレシュのことも、百塔街のこともろくに知らないくせに。
ここにどんな人生があって、どんな幸と不幸があるのかも知らないくせに、一方的に同情の押し売りだけはする!
いらだちと怒りがアレシュの赤い瞳をじんわり燃やす。
クレメンテはそんなアレシュを見下ろし、緩やかに瞬いたかと思うと、片眼から不意につうっと涙を零した。
ぎょっとしたアレシュの目の前で、クレメンテの涙はとめどなく流れ続ける。流れた涙はすぐさま真珠の粒に変わり、祭壇に落ちるたびに、ころん、かろん、と軽やかな音を立てた。
奇跡が織りなす美しい音の中で、彼は言う。
「やはり、あちこちで教会兵相手に騒ぎを起こし、それを『使徒』の仕業だと吹聴して回ったのはあなたなのですね。あなたの偽りだらけの言葉の裏で、真実がまがまがしい音楽を奏でているのが聞こえます。その音楽は混沌を生む。三百年前の『使徒』の名は百塔街の人々を蛮勇に駆り立て、あちこちで蜂起が起きている。このままでは無駄ないさかいが増えるばかりです」
「無駄か。君にとってはそう思えるんだね。だけど、僕はこう考える。『だったら、なにひとつ無駄にならないようにしよう』」
アレシュは獰猛に笑って言い、ポケットに指をつっこむ。
次の瞬間、クレメンテの姿が消えた。
「――!?」
見失った、と思ったときには、アレシュの体は宙に浮いている。
背中に猛烈な衝撃が来て、息が止まった。
次に痛みが突き抜けて、アレシュは声もなくうめく。
襟首をつかまれ、祭壇に仰向けに押しつけられたのだ、と気づいたのは、クレメンテが顔をのぞきこんできた時だった。
「い……いててて。あなたはどうして、そんなに肉体派なんだ……」
どうにか呼吸を取り戻したアレシュが囁くと、クレメンテは籠手をした手を放さないまま悲しげな瞳になった。
アレシュの問いには答えず、クレメンテは顔を上げて周囲に叫ぶ。
「みなさん、動かないでください! 彼がどうなってもいいのでなければ!」
「はっ! はは、僕が人質? これはまた傑作だ! 君には僕らの街の流儀がちっともわかっちゃいない。ここに本当の信頼関係なんかないし、情のために命を捨てる人間だっていやしないよ。一見そう見えても、いざとなったら裏切るさ。そもそも僕はただの発起人で、役立たず。人質にするなら、せめて他を選ぶべきだったね」
本気で笑えてきたので、アレシュは痛みを押して軽やかに言い切った。
だが、なぜだろう。
辺りは妙に静かだ。
ルドヴィークやカルラ、ハナ、ミランですら何も言わない。
せっかく啖呵を切ったのだから、もう少し盛り上げてくれてもいいじゃないかと、むくれているアレシュに、クレメンテは苦みのこもった声で囁いた。
「あなたを本当に『役立たず』だと信じているのなら――あなたも、周りの方も本当に哀れだ。アレシュ。あなたは、自分がその手に何を持っているかわかりますか?」
「何って。自由と、むなしさと。あと、今はルドヴィークの麗しのアマリエさ」
アレシュは優しい嘲笑含みで答え、クレメンテはなおも苦しげな顔で続ける。
「アレシュ、わたしはもっと早く気づくべきでした。初めて会ったときに、あなたに魔界の住人の血が混じっていることだけはわかりました。けれど、まさか、こんな力の持ち主だとは」
魔界の住人の血が、混じっている。
いきなりなげつけられた言葉に、横っ面をはたかれたような気分になる。
――アレシュ。お前の母さんは、神の使徒だ。
何度も繰り返しみる夢の中で聞いた、父親の台詞を思い出す。
アレシュの母親は、父親の香水に恋をしてやってきて、香水がなくなったら立ち去ってしまった。それは随分ロマンチックな話だな、と思っていた。
でも、心のどこかではおかしいな、と思っていたんじゃないのか?
気づいていたんじゃないのか?
父の香水は、魔界の住人を呼び出すことが出来る。
そして父は、魔界の住人に喰い殺されて、死んだ。
簡単な話じゃないか、と、頭の隅っこで誰かが囁く。
実に簡単な話だ。
アレシュの母親は魔界の住人だったのだ。
父は魔界の住人を呼び出して、よりによって恋をした。
子どもまで産ませた。
けれど母は魔界へ帰り、父親は取り残され、母を取り戻そうと魔香水を作り続けて――最終的には、呼び出したものに食い殺された。
もしかしたら、アレシュの母に、殺されたのかも知れない。
全身から力が抜けそうになるのを感じたが、アレシュは懸命に気力をかき集めてぐっとこらえた。それくらいなんだ。
それくらい、大したことはない。
この街では起こりうる、ありふれた悲劇じゃないか。
「……なるほど、この美貌は魔界の母譲りなんだね。……それで? だったらどうなんだ。僕は顔がいいだけで、他の異能なんか少しもないよ」
挑発する口調で言ってやると、クレメンテは瞳を戸惑いに揺らして囁いた。
「そうか。今やっとわかりました。あなたはしらばっくれているんじゃない、衝撃のあまり忘れているんだ。自分の力についても、あなたが追っていた『サーシャ』さんについても。そのうえ……真実が見えてすら、いない」
「サーシャ? どうしてサーシャが関係あるんだ。お前、あいつについて何か、」
何か知っているのか、と言い終える前に、クレメンテの手のひらが顔を覆った。
「かわいそうに、アレシュ! あなたの周囲でこんがらがった運命の糸を、今、この手でほどいて差し上げましょう。記憶の奥へと沈むのです、アレシュ。そうして思い出してください。自分がどれだけ、呪わしい存在だったかを!」
善意に裏付けられた力強い宣言と共に、アレシュの眼前は真っ白な光に覆われた。
「よせ、やめろ!! 僕は過去なんか要らない、何も、思い出したくなんかないんだ!!」
アレシュは必死に叫び、腕を振り回す。
その腕は、クレメンテがいるであろう位置をなんの抵抗もなく素通りした。
ぎょっとした直後、真っ白だった視界が、ぶつん、と真っ黒に変わる。
黒い。どこまでも黒い。いや……これは、暗いのか。
濃密な夜の気配がする。アレシュの香水が呼ぶ、かぐわしい夜ではない。
腐った魚と吐き捨てた唾の入り交じった、路地裏の夜。
そんな夜の真ん中で、誰かが歌っている。
愛こそすべてよ。わたしのすべて。
甘く、優しく、かすれた歌声。
あえぐような息継ぎ。
これは、サーシャの声だ。




