表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
38/112

第38話 奇跡が暴くアレシュの記憶

 銀色の祭壇の上で、男は姿勢を正す。

 きびきびとした動きにつれて長い金髪が宙に躍り、長靴のかかとがかつんと音を立てた。アレシュの無様な着地ぶりが際立つような、どこまでも完璧な着地。

 髪も、衣装の襟や裾も、何ひとつ乱さず、クレメンテ・デ・ラウレンティスはそこにいた。

 彼の髪にきら、きらと光が落ちているのを見て、アレシュは天井を仰ぐ。

 天蓋形の天井に、ぽっちりと赤。

 あれは、空の色だ。


「……さすが奇跡の男。地上からここまで飛び降りて無傷か。あげくこの花はなんだい? わざわざ演出のために抱えてきたんじゃないとしたら、神界から降ってきたとでもいうのかな」


 アレシュが甘やかに言うと、クレメンテは静かに口を開いた。


「アレシュ・フォン・ヴェツェラ」


 柔らかな唇がつむぐ名には、震えるような悲哀が載っている。

 心臓を直接撫でられたような気になって、アレシュはわずかに顔をゆがめた。

 怖気上がるこの感覚。直感的にわかる。


 こいつは今、アレシュに同情している。


「――なんだい? そういえば君、《《何者かに》》捕まった部下たちは見捨てて来たのか? 何人もいただろう?」


 少々無様なほどけんか腰になってしまうのは、こいつに同情されるのがあまりにも不愉快だからだ。アレシュのことも、百塔街のこともろくに知らないくせに。

 ここにどんな人生があって、どんな幸と不幸があるのかも知らないくせに、一方的に同情の押し売りだけはする!

 いらだちと怒りがアレシュの赤い瞳をじんわり燃やす。

 クレメンテはそんなアレシュを見下ろし、緩やかに瞬いたかと思うと、片眼から不意につうっと涙を零した。

 ぎょっとしたアレシュの目の前で、クレメンテの涙はとめどなく流れ続ける。流れた涙はすぐさま真珠の粒に変わり、祭壇に落ちるたびに、ころん、かろん、と軽やかな音を立てた。

 奇跡が織りなす美しい音の中で、彼は言う。


「やはり、あちこちで教会兵相手に騒ぎを起こし、それを『使徒』の仕業だと吹聴して回ったのはあなたなのですね。あなたの偽りだらけの言葉の裏で、真実がまがまがしい音楽を奏でているのが聞こえます。その音楽は混沌を生む。三百年前の『使徒』の名は百塔街の人々を蛮勇に駆り立て、あちこちで蜂起が起きている。このままでは無駄ないさかいが増えるばかりです」


「無駄か。君にとってはそう思えるんだね。だけど、僕はこう考える。『だったら、なにひとつ無駄にならないようにしよう』」


 アレシュは獰猛に笑って言い、ポケットに指をつっこむ。

 次の瞬間、クレメンテの姿が消えた。


「――!?」


 見失った、と思ったときには、アレシュの体は宙に浮いている。

 背中に猛烈な衝撃が来て、息が止まった。

 次に痛みが突き抜けて、アレシュは声もなくうめく。

 襟首をつかまれ、祭壇に仰向けに押しつけられたのだ、と気づいたのは、クレメンテが顔をのぞきこんできた時だった。


「い……いててて。あなたはどうして、そんなに肉体派なんだ……」


 どうにか呼吸を取り戻したアレシュが囁くと、クレメンテは籠手をした手を放さないまま悲しげな瞳になった。

 アレシュの問いには答えず、クレメンテは顔を上げて周囲に叫ぶ。


「みなさん、動かないでください! 彼がどうなってもいいのでなければ!」


「はっ! はは、僕が人質? これはまた傑作だ! 君には僕らの街の流儀がちっともわかっちゃいない。ここに本当の信頼関係なんかないし、情のために命を捨てる人間だっていやしないよ。一見そう見えても、いざとなったら裏切るさ。そもそも僕はただの発起人で、役立たず。人質にするなら、せめて他を選ぶべきだったね」


 本気で笑えてきたので、アレシュは痛みを押して軽やかに言い切った。

 だが、なぜだろう。

 辺りは妙に静かだ。

 ルドヴィークやカルラ、ハナ、ミランですら何も言わない。

 せっかく啖呵を切ったのだから、もう少し盛り上げてくれてもいいじゃないかと、むくれているアレシュに、クレメンテは苦みのこもった声で囁いた。


「あなたを本当に『役立たず』だと信じているのなら――あなたも、周りの方も本当に哀れだ。アレシュ。あなたは、自分がその手に何を持っているかわかりますか?」


「何って。自由と、むなしさと。あと、今はルドヴィークの麗しのアマリエさ」


 アレシュは優しい嘲笑含みで答え、クレメンテはなおも苦しげな顔で続ける。


「アレシュ、わたしはもっと早く気づくべきでした。初めて会ったときに、あなたに魔界の住人の血が混じっていることだけはわかりました。けれど、まさか、こんな力の持ち主だとは」


 魔界の住人の血が、混じっている。


 いきなりなげつけられた言葉に、横っ面をはたかれたような気分になる。


 ――アレシュ。お前の母さんは、神の使徒だ。


 何度も繰り返しみる夢の中で聞いた、父親の台詞を思い出す。

 アレシュの母親は、父親の香水に恋をしてやってきて、香水がなくなったら立ち去ってしまった。それは随分ロマンチックな話だな、と思っていた。

 でも、心のどこかではおかしいな、と思っていたんじゃないのか?

 気づいていたんじゃないのか?


 父の香水は、魔界の住人を呼び出すことが出来る。

 そして父は、魔界の住人に喰い殺されて、死んだ。


 簡単な話じゃないか、と、頭の隅っこで誰かが囁く。

 実に簡単な話だ。

 アレシュの母親は魔界の住人だったのだ。

 父は魔界の住人を呼び出して、よりによって恋をした。

 子どもまで産ませた。

 けれど母は魔界へ帰り、父親は取り残され、母を取り戻そうと魔香水を作り続けて――最終的には、呼び出したものに食い殺された。


 もしかしたら、アレシュの母に、殺されたのかも知れない。


 全身から力が抜けそうになるのを感じたが、アレシュは懸命に気力をかき集めてぐっとこらえた。それくらいなんだ。

 それくらい、大したことはない。

 この街では起こりうる、ありふれた悲劇じゃないか。


「……なるほど、この美貌は魔界の母譲りなんだね。……それで? だったらどうなんだ。僕は顔がいいだけで、他の異能なんか少しもないよ」


 挑発する口調で言ってやると、クレメンテは瞳を戸惑いに揺らして囁いた。


「そうか。今やっとわかりました。あなたはしらばっくれているんじゃない、衝撃のあまり忘れているんだ。自分の力についても、あなたが追っていた『サーシャ』さんについても。そのうえ……真実が見えてすら、いない」


「サーシャ? どうしてサーシャが関係あるんだ。お前、あいつについて何か、」


 何か知っているのか、と言い終える前に、クレメンテの手のひらが顔を覆った。


「かわいそうに、アレシュ! あなたの周囲でこんがらがった運命の糸を、今、この手でほどいて差し上げましょう。記憶の奥へと沈むのです、アレシュ。そうして思い出してください。自分がどれだけ、呪わしい存在だったかを!」


 善意に裏付けられた力強い宣言と共に、アレシュの眼前は真っ白な光に覆われた。


「よせ、やめろ!! 僕は過去なんか要らない、何も、思い出したくなんかないんだ!!」


 アレシュは必死に叫び、腕を振り回す。

 その腕は、クレメンテがいるであろう位置をなんの抵抗もなく素通りした。

 ぎょっとした直後、真っ白だった視界が、ぶつん、と真っ黒に変わる。

 黒い。どこまでも黒い。いや……これは、暗いのか。

 濃密な夜の気配がする。アレシュの香水が呼ぶ、かぐわしい夜ではない。

 腐った魚と吐き捨てた唾の入り交じった、路地裏の夜。

 そんな夜の真ん中で、誰かが歌っている。

 

 愛こそすべてよ。わたしのすべて。


 甘く、優しく、かすれた歌声。

 あえぐような息継ぎ。


 これは、サーシャの声だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ