第37話 なくしたものは取り戻せるから
「……ルドヴィーク?」
見たこともない彼の動揺に、アレシュの視線が持っていかれた。
直後、ルドヴィークはいきなり剣を振り捨て、自分の外套の心臓の位置をつかむ。
「アマリエ……! アマリエ?」
彼が呼ぶのは愛しい人形の名だ。
アマリエがどうした。彼はどんな戦いのときにも、アマリエをけして離さない。まさか、大立ち回りの間にアマリエが壊れた、もとい、負傷でもしたのか?
アレシュが彼の名を呼ぼうと欄干から身を乗り出したとき、祭壇の隙間からひときわ強い光が零れた。
同時に、ルドヴィークから甲高い悲鳴があがる。
(そうか、そういうことか!)
アレシュの脳裏にひとつの考えがひらめく。
その瞬間、アレシュは空中回廊を走り、欄干を乗り越えてルドヴィークのもとへ飛び降りた。急激に貯水槽の底が近づきいてきたかと思うと、衝撃が身体を突き抜ける。
うまいこと堪えられずに、無様に床に転がった。
「これだから、肉体労働は嫌いなんだ……!」
悪態を吐きながら床に手をつくと、そこは血でぬめっていた。
だが幸い、五体満足で戦える教会兵は今のところひとりもいない。アレシュは何度か滑りながらモザイクタイルの床を踏みしめ、ルドヴィークの腕をつかんで声をかけた。
「ルドヴィーク! アマリエに何かあったのか。あの子は……ひょっとして、《《呪われた人形》》だったのか?」
「…………」
ルドヴィークは答えない。
ただ、黒眼鏡の奥で限界まで瞠った目をアレシュのほうへと向ける。
彼の外套の隙間で、筋張った手が震えているのがわかった。
彼の手の中を見つめて、アレシュもまた目を見開く。
「これは――」
今、ルドヴィークの手の中にあるのは、アマリエの三分の一ほどだった。
人形は、顔も、体も、衣装ごと縦に裂け、三分の二を失っている。
斬られたわけではない。
人形の断面は腐食したかのようにぼろぼろで、まばゆい金色に光っている。
粘土細工の人形は砂金に変わりつつあるのだ。こぼれた砂金は風に乗り、残らず祭壇の隙間へと吸いこまれていく。
簡単な話だった。アマリエはあらかじめ強く呪われていた。
もしくは、人形のふりをした魔界の生き物だったのかもしれない。
ルドヴィークですらそれを知らなかったせいで、彼は神界の力が満ちたここへ下りてきてしまった。
「ルドヴィーク、少しでも祭壇から離れろ!!」
とっさにアレシュは叫んだ。
「ばかを言うな。わたしに命令だと? この、わたしに? は、はは、あはははは、ははははは……わたしに! 命令を!!」
ルドヴィークはすっかり正気を失っている。
高さの安定しない叫びは不気味そのものだが、いまさらそんなことでひるんでいる暇はない。こうしている間にも、アマリエはどんどんと祭壇に吸いこまれて行く。
アレシュは赤い瞳をきらめかせて怒鳴った。
「ああ、命令だ!! 僕はただの人間だ。親の遺産を食い潰すしか能も無い。だが、ただの人間だからこそ、神気を浴びても死にはしない! この僕があなたのアマリエを取り戻して、祭壇を閉じてやる。だから、どいていろ!」
彼の声は不思議な迫力を持って響き、辺りの大気がかすかに震える。
ルドヴィークはわずかに震え、のろのろと顔を上げた。
気味の悪い瞳と、アレシュの赤い瞳がかち合う。
いつもはただ妖艶なだけのアレシュの瞳。その奥にぽっちりと灯った赤い光を見たルドヴィークは、どこか操られるようにふらふらと祭壇から離れた。
「それでいい。僕の火事場の馬鹿力に期待してくれ」
アレシュは微笑んで言い、光を零し続ける祭壇の隙間へ己の腕を突っこんだ。
「アレシュ! 何やってるの! それは駄目よ、やめて、アレシュ!」
カルラの悲鳴みたいな声が聞こえる。
みっともない、それが千歳にもなる魔女の声か。
アレシュはほんの少しだけ笑ってしまう。彼女はいつだって大げさで、悲観的だ。
「大丈夫!! 僕、こういうことには慣れてるからね!」
叫び返してから、アレシュは少しだけ不思議に思った。
こういうことって、なんだ?
僕は、何に慣れてるんだろう?
なんだかよくわからない。ただ、妙な確信だけがある。
この、瞳を焼く白い神の光。その中に消えていったもの。
《《それを無理やりに取り戻す方法を、僕は知ってる》》。
どこでやったんだっけ、こんなこと。
うまく思い出せないけど、とにかく慣れている。
一度失ったものは取り戻せるんだ。信じてさえ居ればもどってくる。
大丈夫だ。とにかく今は集中しよう。こういうときは、相手の姿形をはっきりと思い出すのが大事なんだ。
えーっと、アマリエはどんな姿だったっけ。
粘土細工とは思えない、綺麗な子だったよな。
陶器も同然に磨き上げられた白い肌。髪の毛はまっすぐで、さらさらで、いつだって丁寧に整えられていた。指は少女らしくふっくらで、桜貝みたいな爪が生えていたっけ。
アレシュは、祭壇からこぼれる白い光の中に、アマリエの姿を思い描く。
――と、その輪郭は徐々に実体を持ち始めた。
アレシュの記憶をよすがに、ぱらぱらと『何か』が寄り集まってくる感覚。
祭壇の中で生暖かさだけを感じていたアレシュの指に、段々と堅い感触が戻ってくる。これはアマリエの感覚だ。そうだ、アマリエ。
(帰ってきて、アマリエ。ルドヴィークの大事な、アマリエ)
最後に強く呼ぶと、祭壇の蓋の隙間から零れていた光がわずかに薄らいだ。
今だ、とばかりにアレシュは力をこめ、掴んだものを祭壇から引っこ抜く。
「……ほら、できた。ルドヴィーク、アマリエだよ」
引っこ抜かれたものは、確かに見覚えのある少女人形だ。吸いこまれる前と、髪の毛一本だって違っては居ないだろう。
アレシュはほっと安堵して笑い、人形を抱いて振り返る。
ルドヴィークはこちらを見ていた。
「アレシュ。……あなたは……」
なんでだろう。彼はいつもより人間的な顔で、アレシュを見ている。
アマリエではなく、アレシュを。
「ルドヴィーク? どうしたんだ?
こんなときだ、僕じゃなくてアマリエを見ろよ。おかえりって言って抱いてやってくれ。……ああ、ひょっとして、僕がアマリエを抱いているのが気に食わない? ごめん、こんなときだから無作法をした。もう返すよ。さあ、手を出して」
せっせと話しかけても、ルドヴィークは歩みよって来ないし、アマリエに手を伸ばすこともしない。
ただ、アレシュを見ている。
驚いたような、哀れむような、懐かしむような……そうだ、これは、親しい人間の死体を見るような目だ。
「ルドヴィーク……? あなた、変な目をしているよ」
途方に暮れたアレシュが囁いたとき、頭上で美しい音が響いた。
全身が緊張し、意識が上へ向く。
円蓋形の屋根があるだけの、頭上。
そこから、ひらひらと花びらが落ちてきた。
辺りがかぐわしい花の香りで満たされる。香水ではなく、生の花の。
(さっきまでこんな匂いは少しもなかった。まるで、何もない空間から花が生まれたような……)
そんなの、ただ奇跡だ。
とっさに誰かの顔を思い出し、アレシュが身を翻そうとした、が、間に合わない。
すとん、と、目の前にひとりの男が着地した。




