第35話 使徒、降下する
歌い続けているうちに、不意に新たな旋律が教会兵たちの歌に加わった。
ぞわり、と快楽の気配が兵士たちの背筋を這う。
ああ、なんという、不愉快で愉快なこの感覚!
誰かが歌っている。何かが歌っている。
自分たちの声とけっして和することのない、しかし異様に美しい歌が入り交じってくる。圧倒される。引きずられる。自分たちの輪郭があやふやになっていく。
(繋がった、か? 神はいらしたのか? ああ……どこかから、花の匂いがする)
士官はうっとりと鼻をうごめかせる。
楽園を思わせる花のにおいは、嗅げばかぐほど多幸感に包まれる。
生々しく、みずみずしい甘い香り。その香りの中からくすくすと乙女の声が響いてくる。麗しの乙女たち。彼女たちは腕にかけた籠から、花びらを零して回っている。まん丸な庭園の真ん中に立つ乙女。
その中の一人が士官をしっと見つめる。
彼女の目は艶やかで透明で、まるで飴玉のよう。彼女は囁く。
――私、あなたが好き。
――指の先からかじって、何もかも、食べてしまいたいくらい。
――食べてもいい? あなたを、甘い痛みで満たしてもいい?
小鳥のような囁きに脳髄をじん、と揺さぶられながら、士官はふと妙な気分になった。
(……おかしい。神がもたらす恍惚にしては、あまりに俗っぽい)
「おや、気づきましたか」
「……っ……!」
不意に耳元で囁かれ、士官はとっさに振り返る。
すると、目の前には信じがたい光景が広がっていた。
「これは……!」
二百名に近い教会兵たち、さっきまで直立不動で神を喚ぶ歌を歌っていた者たちのほとんどが、その場にうずくまり、もしくは呆然と突っ立ち、あらぬ方を眺めてぶるぶると震えている。
歌はとうに途絶え、神の気配はすっかりと薄まってしまっていた。
(祭壇は!!)
絶望的な思いで浄水槽の底を見下ろすと、ふたつに割れた水と、うっすらと開いた祭壇はそのままだ。ほっとしたのもつかの間、大気に漂う甘い香りに、士官は顔をゆがめる。
「……呪術師だな?」
押し殺した声で囁いて士官が振り返ると、うずくまって泣き続ける教会兵たちをかきわけて立つ、見知らぬ男女の姿があった。
背丈も性別も格好もばらばらの五人の真ん中で、漆黒の男が告げる。
「ごきげんよう、紳士のみなさん。
パルファン・ヴェツェラ七十五番。『七乙女の円環庭園』は、お気に召しましたでしょうか? この香水が司るもの、それは快楽。快楽とはそもそも凶暴なものです。その凶暴さに恐れをなしたあなた方の心の奥でひそやかに惨殺され、墓の下に埋葬された快楽を呼び覚ますのがこの香水の役目。
……とはいえ、あなたは快楽にひたりきれなかったようですね。臆病な方だ、もったいない」
喜劇役者のような派手な抑揚をつけて語る、世にも美しい男。
これは果たして、現実だろうか?
それとも、快楽の幻想の続きなのだろうか。
士官はしばらくぽかんと男を見つめていたが、やがて全身を怒りに震わせた。
「貴様、よりによって、神職である我々に快楽の夢を見せるとは!! 実に、実に呪術師らしいやり口だな! んっ……!?」
怒声を放ちながら歩み寄ろうとするものの、上手く体が動かない。かろうじて動くのは顔面と舌のみ、という硬直ぶりだ。
これも香水の力なのだろうか。だとしたら、すさまじすぎる。
彼は必死に舌だけを動かし、叫んだ。
「貴様……! 貴様は、一体、何者だ……!」
血を吐くような声に、アレシュは思わず破顔した。
「いいね。僕らの登場にふさわしい、端役の台詞だ。いいかい、じゃあ、始めるよ?」
気さくに言い置いたのち、アレシュは美しい指をそっと自分の心臓の位置へと載せて囁いた。
「偉大なる神に仕えるお方に覚えていただくほどではありませんが、わざわざ訊ねられれば名乗らないわけにもいきますまい。
僕の名は、アレシュ・フォン・ヴェツェラ。この街の優しい悪夢。
こちらは千年を渡る魔女、カルラ・クロム=ガラス。
魔界の司書、ハナ。
微笑みの埋葬者、ルドヴィーク・ザトペック。
そしておまけの僕の下僕、氷結の道化、ミラン・マハティ。
――我々はこの街の闇を守る者。『深淵の使徒』ですよ」
「使徒……だと……?」
深淵の使徒。
三百年前の悪夢の名を、士官は呆然と囁いた。
一方アレシュの横ではミランが難しい顔で文句をつけている。
「おい、アレシュ。なんだ今の『氷結の道化』というのは。他と比べてひどくないか?」
「的確このうえないじゃないか。大体下僕の札はろくに役に立たないんだから、他に前面に押し出すところがないんだよ」
「わたしは気に入りましたよ、アレシュの言葉選びはまさに宝石のごとく、です。
それはさておき、作業を急ぎましょう。教会兵たちは戦闘不能とはいえ、祭壇は開きかけですぞ。あれが開けば神界への門が開く。神の力を利用するエーアール派の力は強化され、我々の戦いには支障が出ましょう。
特に、体に受けた呪いを利用して戦っておる者にとっては致命的です。力の源が、まるごと浄化されてしまう可能性もある」
ルドヴィークの言うとおり、香水を風に乗せるためにぎりぎりまで待ったせいもあって、祭壇の蓋はもう拳が入るくらいに開いている。
門を開かせないためには、あの蓋を閉じてしまうことが急務だった。




