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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
32/112

第32話 未練と女装と甘い罠

 それからしばらく後、昼近い百塔街の繁華街にて。


「ね、起きて? ほら。……今日は大事な用があるんじゃなかったの」


 ふんわりと耳を撫でるような優しい声に、教会兵は低くうめいて寝返りを打った。頭がもうろうとしていて、思考がまとまらない。


 ――自分はどこにいるんだっけ?


 今聞こえた声はきれいなアルトで、あまり聞き覚えがない。

 娼館だろうか、とうっすら目を開けると、とんでもない美形と目があった。

 まぶしすぎて何度か瞬き、おそるおそる声をかける。


「君は……誰だ?」


「化け物でも見たような目で見ないでよ。昨日のこと覚えてないの?」


 どこまでも甘く言う相手は、おそろしいほど白くきめ細かな肌をしていた。

 紫と黒のちゃちな生地にフリルをたっぷりよせた夜着をまとい、あまり質の良くない金髪を長く伸ばしているが、そんなものは大した問題ではない。

 とにかく造形と肌の美しさがすさまじい。

 それだけでふるいつきたくなるし、忠誠を誓いたくなる。

 女の彫像じみて完璧な唇から顎にかけてを凝視しながら、教会兵はどうにか身体を起こした。途端に、ずきん、と鋭い痛みが頭を突き抜ける。


「い、つ、いててててて……」


「大丈夫? 飲み過ぎかしら。水か薬草酒か何か、用意しましょうか?」


 少しも心配していない声音で女が言い、教会兵の額に手を当てた。

 その手のあまりの冷たさに、教会兵の喉からはヒェッと情けない声が出る。彼はどうにか女の手を振り払い、かすれ声を絞り出した。


「何もいらん。それより――今は、何日の、何時だ? ここは、どこだ」


「ふぅん、全部忘れちゃったの? 色々効きすぎたかな。お仕事、大変なことになってないといいね?」


 女は目を細めて笑い、現在の日時を口にする。

 その唇の動きが、赤くなまめかしい虫みたいに教会兵の網膜に焼き付いてくる。集中出来ない頭で、教会兵は必死に今告げられた日時を復唱した。

 そして、ぎょっとする。


「……! ばかな、俺は、どうして今こんなところにいるんだ……! 服はどこだ。いや、それより、ここは中央広場の時計塔からどれだけ離れてる!?」


 やっと我に返った教会兵を見上げ、女はにんまりと笑みをゆがめた。


「服は枕元。時計塔は歩いて二十分くらいかかるけど――やっぱり地下水道へ入る道は、あそこにあるんだね」


「!? 貴様……」


 今、こいつは何を言った?

 教会兵は改めて女を見つめた。

 女はどこまでも妖艶に微笑んで、安っぽい寝台脇にあった花瓶から薔薇を一輪つまみ出す。ひらりと手首を返して教会兵の眼前に突きつけられた薔薇からは、異様な匂いがした。

 薔薇とはまったく違う――これは、夜の匂い。

 そう認識した次の瞬間、教会兵の意識は恐ろしく深い眠りへと落ちこんでいく。

 勢いよく寝台に昏倒した教会兵を見下ろし、女はふと笑みをなくした。


「やーれやれ。ほんとに不用心な奴に当たったな。もっと危ない駆け引きが楽しめるかと思ったのに」


 そう言って、彼女は頭から金髪のかつらを引きずり下ろす。

 かつらの下から現れたのは少し伸びすぎの黒い癖毛だ。白い肌に映える黒髪は不吉な鳥の羽の色、もしくは奈落の底の色。赤い瞳と相まって、金髪のときよりもはるかにその美貌を引き立ている。

 ただし、かつらを取った途端に、その美は女性のものから男性のものへと変じていた。


「……で、終わったの?」


 娼館の個室の隅から、今度は紛れもない女の声がする。

 アレシュはぞんざいな女装姿のまま、軽やかな笑顔になって彼女のほうを振り返った。


「ああ。確かめたいことは確かめられたから満点さ。こいつは僕が適当にどこかに放りこんでおくよ。部屋と衣装を貸してくれてありがとう、ヴィエラ」


「いや、まあ、貸すのはいいんだけどさ。……てか、あんたが女装して男引きこむ意味がどこにもなくない? 誘惑して引きこんで薬盛ってって、それだけならあたしがやりゃよかったんじゃない?」


 文句たらたらで一面に小花の刺繍が入ったカーテンを開けて出てきたのは、アレシュより少し年上であろう女だ。格好からして娼婦なのは間違いなかろうが、ただ単純な造形美ならアレシュのほうがより美しいのが皮肉というか、なんというか。

 不機嫌な彼女に、アレシュは優美に寝台から立ち上がって笑いかける。


「ごめんね。でも、このほうが面白いだろ? 僕、見た目には自信あるんだ」


「面白がってるのはあんただけよ、この変態!!」


「変態かなあ。異性装は古来から紳士淑女の高尚なる趣味なんだよ。つまり紳士淑女は変態なのかもしれないね。それよりヴィエラ、さっき頼んだ件だけど――」


 アレシュが続けようとすると、ヴィエラは怖い顔で彼を見上げてきた。


「ええ、覚えてるわよ。あんたは何ヶ月も完全放置してたあたしと《《より》》を戻そうとかなんとかそういう事情で押しかけてきたわけじゃなくって、ただ単にお願い《《だけ》》聞いて欲しいわけなのよね。もちろん理解してるわよぉ。

 一発殴っていい?」


「……悩むな。殴られるのは、あんまり好きじゃな……!」


 アレシュが言い終える前に、問答無用で女の拳が風を切った。

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