第29話 赤は鉄錆の赤
カルラは楽な姿勢で扉に寄りかかり、白い指を羊皮紙の紙面に這わせる。
「では、行くわ。竜……すなわち、『退治されるべきもの』。それは『魔』。竜は財宝をためこみ、ひとや獣を呑みこむ。退治にやってきた勇者は腹の中で溶け、ときに腹に住み続ける――」
彼女が告げる竜の伝説を聞きながら、アレシュは感じたことを適当に語った。
「単純な竜退治の構図はクレメンテにはよく似合うね。彼は見るからに聖なるものを感じさせる。そして、力尽くで悪を倒そうとする。彼は魔を倒す勇者だ。そして壁に残された伝言は、『わたしは蘇り、竜を殺す』――彼は聖職者の死体に『蘇り』を与え、『竜』、すなわち百塔街を殺そうとしている?」
「そこはそのまま、クレメンテの宣戦布告に重なるわね。でも、単純過ぎる気もする。もっと広げなくちゃ。……地方によっては、竜は『あがめられるべきもの』でもあるわ。水に関わる神。川や湖に住み、雨を降らせ、人々の願いを叶えるの。風穴から聞こえる声は竜の声と言われ、川そのものが竜だとも言われる」
カルラの声が導くように囁く。
声につられるようにアレシュの心はざわめき、彼はそれに従った。
「そちらの意味ならば、クレメンテは水を殺し、風を殺すことになるのか。彼なら――ありうる」
と、そこまで言って、アレシュは、はた、と気づいた。
赤い眼を瞠り、カルラを見る。
カルラもまた、探るようにアレシュを見ていた。
きらきらと光る金の瞳に軽いめまいを感じながら、アレシュは囁く。
「……カルラ。今、僕はクレメンテの思惑がわかったような気がする。七日で、街を滅ぼす計画。それを本当に成功させるなら、直接祝福してまわっていては駄目だ。可能性があるとしたら――街の住人、《《誰もが触れるものを祝福しなくては》》。触れずに生きてはいけないもの、それはおそらく……大気か水だ」
彼の言葉に、カルラは笑みを浮かべた。
しかし、その瞳だけはひどく冷たくきらめいている。
「なるほど、あの男は、この街の竜――すなわち、『水』か、『風』を殺そうとしている、というのね。面白いわ。その線で占ってみましょう」
カルラは宣言し、うきうきとサルーンを歩き回り始めた。
ポケットから出した磁石で方位を確かめ、風向きを読み、光の加減を調べて、さらに細かな占いをする用意を調える。
アレシュは自分が役に立てたらしいことに満足し、ほう、と息を吐いた。
新たな『使徒』となった客人たちも緊張を緩め、それぞれに自分の商売道具を広げたり、お茶を飲み直したりし始めている。
いつもののんびりしたサルーンの風景ではあるが、辺りの雰囲気はどこか浮かれていた。まるで夜会の始まる前のよう。
誰もが新しく始まることにわくわくしている。
そのきっかけを作ったのが自分だと思うと、アレシュの気持ちも浮き立った。
あのとんでもない司祭相手に、このとんでもない魔人たちと戦える。
そのとき不意に、サルーンの隅の暗闇に赤い色がにじんだ。
(サーシャ)
自然に頬が緩み、アレシュは彼の方へ数歩近づく。
魔法小路で見たようなはっきりとした姿ではないが、確かにサーシャだ。
いつもどおり、ぎりぎり見えるか見えないかのぼんやりとした幽霊。
昔なじみの幽霊は、アレシュのほうを見ると優しく笑った――ように思えた。
実際は頭の赤い色くらいしかよく見えないのだけれど、生前のサーシャはいつだってアレシュに笑顔を向けてくれたから。きっと、今日のサーシャも笑っているのだろう。
(よかった。あの魔法小路のサーシャは、きっとクレメンテの術だったんだ。君は相変わらず、ここにいるんだ)
サーシャのことを思うと、アレシュはいつもほっとする。
彼はアレシュの心が帰る場所だ。
――どうした? 死んだような顔してるぜ、お前。
初めて彼と会ったとき、アレシュは百塔街の裏路地に座りこんでいた。
母さんを返してくれとかなんとか言って父と口論をやらかして、苦しくて、悲しくて、魂が縮んで、縮んで、溶けて消えてしまったような気がして、ならばいっそ体も溶かしてしまいたくて、雨に打たれていた。
百塔街でそんなことをしていたら、あっというまにさらわれてバラされるのは知っていた。むしろそうして欲しかったのに、来たのはサーシャだった。
アレシュを見下ろし、彼は、自分こそ死にそうな顔で笑った。
――なんだ。ほっそくて、ろくな力もなさそうだな。おまけに喋れないのか?
喋れる。
そう返したら、そうか、と言ってサーシャは手を伸べてくれた。
――だったら生きられるかもな。行き場所ないなら、俺のねぐらに来るか。
今晩だけは、守ってやるよ。
彼は笑って言った。ついていったら殺されるのかもしれない、とは思ったが、アレシュは思いきって彼についていくことにした。
死んでもいいと思っていたし、ひとこともアレシュを『綺麗だ』と言わない相手は珍しかったから。
そして翌日、アレシュはまだ生きていて、サーシャはアレシュの唯一の友達になった。
――大丈夫。お前はお前の足で歩いてくりゃいい。持ってるもんを使え。顔が綺麗なのは恥ずかしいことじゃない。あしらってやれよ。
――ひとが言ったことなんざ気にするな、死ぬわけじゃなし。逆に死ぬ気になりゃあなんでも出来る。尊敬もされる。自分で自分の舵を持ちな。
大したことを言ってもらったわけでもないけれど、ただ普通の友達としてそこにいてくれた。そんなサーシャの存在そのものが、アレシュの救いだった。
(あなたは友達だった。ただの、友達。ふらりと仲良くなって、ふらりと消えた)
回想からゆるゆると現実に戻ってきて、アレシュは戯れにサーシャの幽霊に手を伸べてみる。けれど、薄闇の中の人影は動かない。
ミランの言う通り、しょせんは幽霊。死んだ者は取り返せないのだ。
(でもね、サーシャ。あなたが死んでから、僕はちょっと強くなったよ。やっとあなたの言う通りに生きられるようになった。この綺麗な顔でにっこり笑えるようになった。こうして『使徒』再編なんかもできた。
あなたがいなければ何も始まらなかった。……僕は、あなたを消しはしないよ)
胸の内で、これだけは真摯に語りかける。
これから始まる戦いは、サーシャを守るための戦いでもあるのだ。
そう思うと、さっきの子供みたいな浮かれた気持ちとは別の、震えるような切なさが胸をせり上がってくる。
(サーシャ。ねえ、サーシャ。あなたに、この声は届いているのか? 僕は死んだら、あなたとまた一緒になれるのか?)
――せめて。
せめて、彼から少しの返事でももらえたのなら。
自分はもっと走れるのだろうに。
アレシュがかすかに唇を動かした直後、サーシャの姿は薄闇の中にじわりと広がり、にじむように消えていった。




