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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
23/112

第23話 「扉」の術

 無造作に地面へ放り投げられたペンダントは、石畳とふれあって、ちりん、と音を立てる。

 音の響きが消えぬ間に、ペンダントの周りの空間が真っ青になった。

 石畳が水に変わってしまったかのようだ。ペンダントの周りの青はぐんぐん広がり、手のひら大から水たまり大へ、こぶりな池の大きさへと広がっていく。

 不思議な青がアレシュの足下まで達したとき、彼はぽかんとした浮遊感を覚えた。さっき魔法の穴に落ちたのとよく似た感覚。石畳が消え、ずるん、とその下に引きずりこまれる。

 青はアレシュだけでなく、ミランとルドヴィークも呑みこんでいく。


「ううっ、なんだ、この、その、うーん……いや、案外気持ちいいような感じは……!」


 慌てるミランの声も途中で途切れ、辺りに広がるのは、青、青、青。

 落ちて行くのか、浮き上がっているのかもよくわからない。

 青が口の中から肺まで入ってくる。苦しい。

 息が出来ない。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい……!!

 アレシュが顔をゆがめて己の喉をかきむしろうとした、そのとき。


「急なお帰りですね、ご主人様」


 冷淡なハナの声が近くで聞こえ、アレシュははっとして目を見開いた。

 

 薄暗い虚ろな空間。

 天窓から幾筋も光の帯が落ちている。

 舞い散る埃と、古ぼけた家具。


「ここは……僕の家、か」


 アレシュが無理やりにそう認識すると、身体の下にほこり臭いクッションの感触が生まれた。視界から急速に青が消え、五感が少しずつ落ち着いて来る。

 彼はいつしか、見慣れたサルーンのソファの上にいた。


「扉の術……」


 アレシュはひとりごち、自分の体を見下ろす。

 先ほどカルラが使ったのは、ハナが使う力と原理は同じ術だろう。世界の狭間を通って、別の場所へ近道をする魔法だ。

 ただし人間はハナほど魔法が上手ではないから、狭間を通る間に手足の一本や二本は増えたり減ったりすることも珍しくない。


「――どうやら、今回は大丈夫そうだな」


 アレシュがほっと胸をなで下ろしたところに、ぶっきらぼうな声がかかる。


「扉を開けて帰って来られるなら、あらかじめ言ってください。私が勘づいてこっちの扉を開けておかなければ、無残にはじかれてましたよ」


 見れば、ハナがソファの背もたれからちょこんと顔を覗かせていた。

 彼女の無表情の中にあふれんばかりの真剣さを見てとって、アレシュは淡く笑う。


「ハナ。ありがとう。君は本当に、掃除以外では優秀だね」


 珍しくべた褒めしたつもりだったが、ハナはじいっとアレシュを見つめて黙ったままだ。

 そこへ、遠くのソファから、がば、と起き上がったミランの声が響く。


「ハナさん! いやー、助かった。色々あってな、死ぬかと思ったぞ、正直なところ! 死なずにあなたに会えて幸福の極みです、ハナさん!!」


 ミランはソファから飛び降りてにこやかに歩みよってくるが、ハナはあからさまに彼を避けてアレシュににじりよる。


「本当に死にそうだったんですか? 駄目ご主人様」


「カルラがこんな荒技を使うくらいだ。多分、死にそうだったんだろうな」


「…………」


 カルラの名前が出てきた途端、ハナはくるりと踵を返した。

 そのまま勢いよくサルーンの柱の陰に駆けこみ、ひょこりと顔を出してこちらを監視している。


「どうしたんだい、ハナ? ひとまず僕は生きているから、なんならお茶を淹れてくれるとありがたいけど」


 話しかけてもハナはぴくりとも動かない。

 仕方ないな、とサルーンを見渡せば、柱のそばの椅子にはルドヴィークが人形を抱いて座っている姿があった。

 カルラは、と思って視線を動かすと、さっきまで誰もいなかった背後でため息が響く。


「あーあ。相変わらず私ってハナちゃんに嫌われてるのねえ。悲しいわ……。可愛いのになあ、ハナちゃん。撫でたい。リボン結びたい。着せ替えしたい。短いスカート履かせて、ちょっと不本意そうな顔とかされたい。ねえアレシュ、ご主人様権限でハナちゃんに命令してくれない?」


「ハナに直接頼んでくれ、僕はご婦人にそんな命令を出来る男じゃない。お互い怪我をしないように頼むよ。……それにしても、おかしなことになったな。カルラ、正直、出不精の君が助けてくれるとは思わなかった。――ありがとう」


 アレシュは振り返り、こればかりは本心から言う。

 ソファの後ろにたたずんでいたカルラは、珍しく少しばかり青ざめていた。

 不機嫌なわけではなさそうだから、疲労のためだろう。扉の術はこの偉大なる魔女にとっても大技なのだ。

 彼女は長い指を自分の頬にあて、アレシュを見下ろして眉を寄せる。


「私も思わなかった。でも、よりによって『あいつ』が出てきたんですもの、仕方ないわ」


「『あいつ』って、あのきらきらした新司祭殿のことだね。そういえば、顔見知りのようだったけど」


 アレシュが訊ねると、カルラは薔薇の香りを振りまきながらソファの肘おきに浅く腰掛けてきた。


「そりゃあもう、有名人だもん。それに、これは私の事件でもあるの。聞いて、アレシュ。私、あなたに言われてランドルフの体を調べてみたの。そろそろ犯人に復讐してやろうかなって気になったから。そうしたら……聖痕があったのよ。あの子の胸に、ゼクスト・ヴェルト神の紋章が、焼き印みたいにじゅうっと残ってた」


 カルラの指と体はあいかわらず綺麗だな――と、そちらへ傾きかけたアレシュの意識が、『聖痕』のひとことで元の位置まで戻ってくる。

 アレシュが訊くより前に、ルドヴィークの低い声があがった。


「……聖痕。エーアール派の信者にはごく稀に起こる奇跡とは聞きますが、まさか、ランドルフ殿はエーアール派だったと?」


 いつもにこにこと喋る男が、今は凍えるような殺気を隠さずに振りまいている。それだけの屈辱を味わったということだろう。

 アレシュは軽い寒気を覚え、カルラは真剣な面持ちで背筋を伸ばした。


「もちろん違う。ランドルフは可哀想な子でね、この街で魂を盗まれてしまったの。魂がないものは呪いに対して抵抗力が一切ない。だから私が保護してたのよ。私の防御は呪いに対しては完璧だった……でも、奇跡は、すり抜けた。呪いと奇跡は表裏一体で同種のものよ。ランドルフは、『聖痕』という奇跡によって死んだ」


 語るうちに彼女の瞳はらんらんと光り始める。アレシュですら一度も見たことのないその顔は、完全に獲物を見据える肉食獣のそれだった。

 愛らしい色の口紅を塗った唇が、愛を囁くみたいに告げる。


「遠隔で、信者でもない人間に聖痕を押す。そんな奇跡を起こせるのはこの世界でもひとりだけ。そいつの名は、クレメンテ・デ・ラウレンティス。奇跡の大安売り屋台引き。またの名を、エーアール派の最終無差別破壊兵器」

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