第20話 嘘の匂いのない人間
「こんにちは、初めまして。最初に謝罪をしていいですか?」
相手が切ない調子で言ったので、アレシュはためらいがちにうなずいた。
この街にはいきなり謝罪を始める奴なんかいないので、虚を突かれてしまったのだ。
「うん……まあ、どうぞ。なんで謝るのかは知らないけれど、それであなたの気が済むのなら」
「あなたは優しい方ですね、わたしの謝罪を赦してくださるとは……。では、あらためて。本当に、申し訳ありませんでした。……怪訝な顔をしてらっしゃいますね。ひょっとして、この街で謝るときは金品を差し出すのが常識でしたか? ごめんなさい、あいにく自由にできる金品は持っていなくて」
「はあ。まあ、幸い金には困ってないから、いらないけどね。それより、どうして謝ってるのかの理由を訊いても?」
「はい、もちろんです! 実はわたし、さっきのあなたの『サーシャ』という呼び声に、『はい』と答えてしまいました。あれは嘘なのです。意外かと思いますが、わたし、実はサーシャではありません……」
「それは、見ればわかるよ」
アレシュは言い、あらためて至近距離にある男の顔を見上げた。
年齢不詳のつるりとした肌に、金糸そのもののような光沢を持った長い髪。妙に純粋な表情を浮かべた少女みたいにみずみずしい美貌と、アレシュを抱っこしても微動だにしない立派な体格。
この男はサーシャとは何もかもが違う。むしろ真逆だ。
サーシャはいかにも不健康そうな男で、実際不健康だった。彼の容貌もアンバランスと言えばアンバランスだが、この街にはどこまでも似合っていた。
この男は逆に、この街にひどくそぐわない。どこかが不自然だ。
一見隙が無い出で立ちなのに、なにが不自然なのだろう。
そこまで考えて、アレシュはぴんときた。
(そうか。こいつ、嘘の匂いが全然しない。完全に、本心で喋っている)
理解した途端にぞっとする。
嘘を吐いている人間は常に緊張しており、独特の匂いを発するものだ。それは多かれ少なかれ、百塔街に生きる人間が共通して持つ匂いのひとつだ。
なのにこいつからは、その匂いがしない。
完全に嘘のない人間。
それは、人間か?
男はアレシュの気持ちなど知りもせず、表情を輝かせて続ける。
「わかりますか、頭がいいですね。あなたはさっき、この小路に仕掛けられた魔法にかかっていました。かかってしまった魔法を穏便に解くには、わたしと会話していただくのが一番です。さっきのあなたは『サーシャ』さん以外のお声は聞く気がなさそうでしたので、ひとまず彼のふりをさせていただきました。本当にすみません」
「いや、それは構わない、というか、僕が礼を言う方だろう。ありがとう。今さら魔法小路の魔法に引っかかるなんて、油断したよ。それはともかく……下ろしてもらえるか?」
「いいですが、ちゃんと立てますか? よろめくようなら、ちゃんとわたしにすがってくださいね。わたし、すがられるのは好きなんです」
……こいつは、アレシュを足腰立たない老人だとでも思っているのだろうか。
アレシュがおかしなものを見る目で見上げると、相手は少し不思議そうに笑いかけてきた。
幼児みたいな表情に戸惑っていると、背後からルドヴィークの声が響く。
「アレシュ。ご無事で何よりですが、早めにこちらへいらしたほうがよいですよ」
「ああ……ルドヴィーク。大丈夫、このひとが魔法を解いてくれたから。君たち、サーシャを見なかったか? 確かにこの道に入ったと思ったんだけど」
言いながら振り返ると、小路の入り口に立ったミランとルドヴィークの姿が見えた。彼らが何か言う前に、小路に面した民家の扉がばたんと開く。
何かの魔法か、とアレシュは身構えたが、扉からはふらふらとひとりの男が出てきただけだ。彼は古風な長衣をまとい、苦悶の表情を浮かべて己の喉を両手でつかんでいる。
「おい、君」
アレシュが声をかけると、彼はそのままよたよたと数歩進んで、アレシュのほうへ必死に手を伸べ――ざらっと地面に崩れ落ちた。
ざらっと。
そう、男は崩れ落ちた瞬間、一山の砂に姿を変えたのだ。
しかも、ただの砂ではない。
まばゆくきらめく砂金であった。
アレシュはゆるゆると目を瞠る。これも魔法小路が見せる幻覚か、と思いたいが、目の前の砂金からはきちんと金の匂いがする。親譲りの嗅覚が、今目の前で人間が金に変わったと告げている。
アレシュは細く息を吐き、傍らに立つ白服の男を見あげて問うた。
「これは、君の仕業か?」
「おや。なぜそう思ったのですか?」
「こんなことがあったのに、君からは相変わらず緊張の匂いがしないからさ。緊張だけじゃない、悪気の匂いも、恐怖の匂いも、驚きの匂いもしない。……異常だよ」




