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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
19/112

第19話 死者の影は角を曲がる

「お気をつけください。上ではまだ魔女が暴れているようだ」


 ちりん、と音を立てて刃を鞘に収め、ルドヴィークはにっこり頭上を指し示した。アレシュは壁の穴から出てきたものを見遣り、ぼそりとつぶやく。


「ああ……あれ、まだ使ってるんだ」


「あれ? あれとは……いった、い、なん……だ?」


 ミランが頭上を仰いで限界まで目を見開いた。

 アレシュの言う『あれ』は、穴から出てこようと壁に爪を立てている。

 ここから見える範囲の形状は、巨大な蟹か、海老の足だ。

 太さは大人の男の一抱えほど。長さは複雑怪奇な関節を持っているせいでよくわからない。そんな巨大で硬質な何かの足に、人間の人差し指ほどの長さの棘がびっしり生えそろっている。

 一度突き刺されば体がズタズタにされるであろうそれが、どすどすと壁を突き崩していく。壮絶な光景を見上げつつ、アレシュは投げやりに言った。


「カルラの使い魔だよ。元は猫だったんだけど、年々進化してああなった」


「猫!? よりにもよって、猫だと? カルラ姉さんは全世界の猫好きを敵に回す気か!」


「カルラはそれでも勝つだろうけど、なんならお前がカルラの代わりに猫好きに謝って回れば? ……ごめん、みんな。ちょっと通して」


 超特大で強力な使い魔を見に集まってきた見物人を掻き分けて、アレシュはとりあえず劇場から距離を取る。カルラの復讐を邪魔するなんて命がいくつあっても足りないし、何より無粋だ。


(彼女に占ってもらえば色々簡単だと思ったんだけど、カルラが落ち着くまではどうにもならないな。さて、次はどうするか)


 方策を考えているうちに、アレシュはふと、懐かしい香りをかぎ取った気がして顔を上げた。

 視界の端を、ちらと赤い髪がかすめる。


「――え?」


 あまりに思いがけない事態に、我知らず声が出た。

 目をこらしてみても間違いない。

 赤い髪の青年がやじうまたちの間をすり抜け、緩やかに歩いて行く。

 骨張って痩せた身体を黒い革できっちりと覆い、そのうえにばさばさの赤い髪を揺らしている若者。百塔街にはやまほどいる、ひねて不健康そうな悪人の典型といった姿。いくら視線で追っても消えない、その姿は――。


「カルラさんのためとなればやぶさかではないが、全世界の猫好きが何人いるかわかっているのか? なお、俺はよくわかっていない。わかっていないがおそらく俺がいちいち謝るのでは、日が暮れるどころか七門教のいうところの終わりの日が三回くらいはくるだろう。そこでまずは猫好きを集めて鍋に入れ――」


「サーシャだ」


「……何? 今なんと言った、アレシュ」


 ミランの声がやけに遠くに聞こえる。

 アレシュは振り返る暇も惜しんで、足を速めながら叫んだ。


「サーシャだ! サーシャが居たんだ。普段見えるような透けてるやつじゃなくて、もっとはっきり、生きてるみたいな姿だ……おい、サーシャ! 僕だ、アレシュだ!」


「ばか、アレシュ! サーシャは死んだと、何度言ったらわかるのだ!? 他人のそら似だ!」


「そっちこそばか言えよ! 見た目はともかく、匂いで僕がだまされるもんか!」


 つかんできたミランの手を振り払い、アレシュはついに駆け出した。

 ぐねぐねと蛇行する石畳の角を、サーシャが曲がっていくのが見える。あの先は古式ゆかしい、実力派の呪術師たちが軒を連ねる魔法小路だ。小路ではそこここで誰かの魔法が発動していて、不用意に入りこむと幻が見えたり、どうしても先へ進めなかったり、うっかり魔界へ出てしまったりする。

 あそこへ入りこまれたら、またサーシャを見失ってしまう。

 そう思うとますます気が急く。洒落た靴で石畳を力一杯蹴りつけ、先へ先へと急ぐ。あのサーシャが何者でもいい。とにかく見失うことが怖かった。

 アレシュはサーシャを追い、全力で道の角を曲がる。


「サーシャ!」


 声を限りに叫んだ、その叫びがわんわんと響き渡る。

 不自然な響きだった。

 露天でこんなふうに声はこもらない。

 そう思った途端、暗転。


「……っ!」


 視界が真っ黒に塗りつぶされると同時に、異様な浮遊感がアレシュを襲う。

 足下に石畳の感覚がない。手を伸ばしても何にも触れられない。

 続いて、急速な落下感!

 落ちる。

 落ちる。

 巨大な穴を落ちて行く感覚。

 耳元で風が鳴り、上着の裾がばたばたとはためく。

 しかし現実の魔法小路には、こんな穴などありはしない。

 おそらく誰かの魔法に取りこまれたのだ。落ちているというのは錯覚。それでも術中にいれば、身体も心も『自分は落下中だ』と思いこむ。

 早く術中から脱しなければ、心臓がもたないかもしれない。


(香水……!)


 アレシュはとっさに胸のハンカチを探る。

 あそこにしみこませた『樹海の底にて』の鎮静作用なら、多少の幻術は破れるはず。だが、指はなめらかな上着の生地に触れるだけ。

 飾り編みのハンカチはない。


(しまった、ハンカチ、カルラに渡したままだ!)


 ひやりと全身が冷える。

 死の予感。

 やっと、やっとサーシャに手が届きそうだったのに。

 あともう少し生きていられたら、彼に訊けたのに。


 どうしてお前は死んだんだ? と。


「サーシャ……!!」


「はい」


 不意に澄んだ声がアレシュに答えた。

 わずかに遅れて落下が止まり、アレシュはふんわりと日向めいた匂いに包まれる。そして、温かな人間の体温にも。


「……?」


 知らない匂いに顔を上げると、辺りの闇がすっと消え去った。

 まるで黒い幕が引き上げられたかのよう。

 真っ赤な百塔街の空が頭上に現れ、続いて見慣れた魔法小路の景色が広がった。色とりどりに塗られた小さな家々の軒先には呪術に使う道具が看板代わりにかかり、屋根瓦は揃って黒く、家々の壁は思い思いの色に塗られている。

 そんな景色の中、唯一見慣れないのは眼前にせまる男の顔だ。

 長い金髪はどこまでもなめらかで、ひとすじたりともからんでいない。瞳はうるさいくらいに輝き続ける青で、どこか少女的と言いたいほどに柔らかな容貌をしている。

 そんな男が白の紳士装束に身を包み、アレシュをお姫さまみたいに抱いていた。


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