第100話 あなたが「助けて」を教えてくれた
アレシュが自問している間に、過去のハナが細い声を出す。
「……ずっと、こうしているわけにはいきませんか」
「こうして? 抱き合っているということかね?」
まだ揺れる地面を警戒しながら、グリフィスは精一杯の優しい声を出している。
過去のハナはそんな彼を見上げて必死に言う。
「はい。私、やっぱり、どうしても食べられなきゃいけませんか?」
胸をえぐる言葉。
言葉の裏で彼女が泣いているのがわかる。相手の答えはわかっているのに、祈るように問いを投げる彼女。
そんなハナに、グリフィスは真剣に囁く。
「君にはまだわからないかもしれない。しかし、抱き合っているだけでは愛はいずれ醒めてしまう。だからわたしは食べるのだよ。
愛の絶頂で相手を食べて、愛を愛のまま保存し、君はわたしになって、わたしは君になる。それがわたしの、君に与えられる精一杯の誠実だ」
「でも、私」
過去のハナの表情が崩れそうになる。
その前にグリフィスはそっとハナの両の頬を手のひらで包みこみ、彼女が泣き出すのを止めようとする。
「聞きなさい。君は幸福なのだよ、ハナ。とてもとても、幸福だ」
優しい、優しい言葉。
ハナのあえぐ声。
アレシュの喉の奥に、何か熱くて重いものがつっこまれる。
「でも、私……!」
泣き声同然の彼女の声に、アレシュはほとんど我知らず何かを言おうとした。
そのとき、辺りに場違いな声が轟いた。
『サーシャ! サーシャ、消えないで!』
悲痛すぎる少年の声に、過去のハナとグリフィスが視線を上げる。
アレシュの手のひらの下で、今のハナもびくりと震えた。
そしてアレシュは、ひとり呆然と目を瞠る。
(これは……僕の声、だ)
この声には聞き覚えがある――というより、自分は確かにこんなふうに叫んだことがある。
それは自分が少年のころ、自分の力でサーシャの姿をゆがめてしまったときのこと。
やめて、サーシャ、死なないで、そんなふうにならないで、母さん、母さん、そこから、サーシャから出て行って!
懸命に叫んで、崩れていく友達の中に腕を突っこんだ、あのとき。
古い記憶がアレシュの頭の中をかき回す。目眩がどんどん酷くなる。
ざらつく視界の中で、白い部屋の景色が大きく揺らぐ。階段の一番下、今のアレシュとハナから十歩ほどしか離れていない場所に、ぽつりと赤い染みができた。
それは徐々に大きくなったかと思うと、花でも開くかのようにめくるめく赤黒さを辺りに広げる。
まるで新鮮な内臓みたいにてらてらと光る、美しくも醜い『何か』。
じっと見ているとおかしくなってしまいそうな、何にも似ていない、名状しがたい『何か』の中に、ひとりの少年がいるのが見て取れた。
白い肌、黒い髪、ほっそりとした美しい身体。
綺麗な首筋を見せてうつむいて、必死に赤黒い何かを混ぜている彼。
あれは確かに、アレシュだ。
少年時代のアレシュ。
(あのとき、僕は自分の力で魔界と人間界の境界を混ぜてしまって――多分、境界に穴が開いたようになって。そのせいで、魔界側からも姿が見えてた、ってことなのか?)
そうとしか考えられない。
だとしたら、ハナはあらかじめ自分を知っていたのだ。
グリフィスに監視を命じられる前から、知っていた。
「あれは……」
過去のハナが震えて囁くと、グリフィスが柄にもない緊迫した声をあげた。
「ここにいなさい、ハナ。あれは……ひと、ではない。幻影でもない……あり得ん。とにかく動いてはいけない。すぐに排除してこよう」
彼は言い、過去のハナを置いて階段を駆け下りようとした。
その腕に、過去のハナがすがりつく。
「待って! 待って、あのひとを殺さないで、だって、あのひと、助けてって言ってる!」
「やめなさい、ハナ!」
グリフィスは乱暴にハナをふりほどこうとはしない。むしろ困ったような顔で、彼女を押し離そうとする。
そんなグリフィスに、過去のハナは今までの様子からは考えられない勢いですがりつき、反抗した。
「だって、助けてって! 助けてって、叫んでるの、あのひと! 本当に、私には聞こえるの、あのひとの声なの!」
「ハナ、君は優しすぎる。だが、優しさを万人に振りまいてはいけないよ。それは君を不幸にするだけだ。君はわたしにだけ愛を感じていればいいのだ」
諭す口調のグリフィスを見上げ、過去のハナは瞳に絶望の色を濃くした。
かと思うと、一目散に階段を下りていこうとする。彼女の足は、石の上にぶちまけられた内臓で見事に滑った。
「ハナ!」
グリフィスが素早く転びかけたハナの腕を取る。抱き寄せる。
「やめて! やめて!」
「何を嫌がるのだ、君は! あの人間の力にやられているのか。あの、奇妙な力――」
グリフィスは低くつぶやき、階段の下をにらむ。
そこでは相変わらず、過去のアレシュが泣いていた。
『――サーシャ……サーシャ? ねえ、何か言ってよ。何でもいいからさ。黙ってるなよ、怖いだろ? いっつもそうやって、意地悪ばっかり』
細い肩を震わせ、目を閉じることもできず、アレシュは涙をこぼしながら囁いていた。
指はまだ、元はサーシャであった赤黒いものの中から、何かを探しだそうとしていた。
そこからは失われてしまっているであろう何かを、見つかるはずのない何かを探して、ひたすらにかき回していた。
平素ならば美しいはずの顔はすっかり青ざめ、こわばって、まるで死人のよう。
顔から零れ落ちてしまいそうな赤い瞳には、もう何も映っていない。
――醜いな、と、アレシュは思った。
このときの自分は、醜い。
とても弱くて、とても絶望していて、その絶望から逃げる方法だけ探している。
ないものねだりの、醜いこども。
こんな姿を過去のハナに見られたくなかった。もちろん、今のハナにだって。こんなものを見せられたら、誰だって不快に思うだろう。自分が苦しいときならなおさら、他人の苦しみなんて見たくないだろう。
(初対面がこれじゃ、尊敬なんてされるわけないか)
アレシュはどこか納得して、過去のハナを見た。
彼女は、じっと過去のアレシュを見つめていた。
虚ろで暗い、青緑の瞳。
そこから、つるり、と涙が零れる。
惜しげもない大粒の涙が、次から次へと落ちてきて誰かの血と入り交じる。
ハナの視線は、けしてアレシュから離れない。唇は、何かを懸命につぶやこうとしている。もしくは、声に出さないまま、つぶやいている。
そのつぶやきは。
「たすけて、たすけて」
ぽつり、と今のハナがつぶやく。
アレシュがぎょっとして傍らの彼女を見ると、ハナは過去のアレシュを見つめたまま言った。
「……あのとき、私、そう繰り返してました。でも、あれは、本当はあなたが言っていた言葉です。……声にはなっていなかったのに、聞こえたの」
不思議ね、とハナがつぶやく。
たすけて、たすけて。
いざというときは、口に出せないその言葉。ずっと口に出せなかったから、誰も知らないと思ったその言葉。
届いていたのか。
彼女だけには。
アレシュは緩やかに瞬いて言う。
「そうか。僕は昔から、本物のばかだったんだな」




