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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
100/112

第100話 あなたが「助けて」を教えてくれた

 アレシュが自問している間に、過去のハナが細い声を出す。


「……ずっと、こうしているわけにはいきませんか」


「こうして? 抱き合っているということかね?」


 まだ揺れる地面を警戒しながら、グリフィスは精一杯の優しい声を出している。

 過去のハナはそんな彼を見上げて必死に言う。


「はい。私、やっぱり、どうしても食べられなきゃいけませんか?」


 胸をえぐる言葉。

 言葉の裏で彼女が泣いているのがわかる。相手の答えはわかっているのに、祈るように問いを投げる彼女。

 そんなハナに、グリフィスは真剣に囁く。


「君にはまだわからないかもしれない。しかし、抱き合っているだけでは愛はいずれ醒めてしまう。だからわたしは食べるのだよ。

 愛の絶頂で相手を食べて、愛を愛のまま保存し、君はわたしになって、わたしは君になる。それがわたしの、君に与えられる精一杯の誠実だ」


「でも、私」

 

 過去のハナの表情が崩れそうになる。

 その前にグリフィスはそっとハナの両の頬を手のひらで包みこみ、彼女が泣き出すのを止めようとする。


「聞きなさい。君は幸福なのだよ、ハナ。とてもとても、幸福だ」


 優しい、優しい言葉。

 ハナのあえぐ声。

 アレシュの喉の奥に、何か熱くて重いものがつっこまれる。


「でも、私……!」


 泣き声同然の彼女の声に、アレシュはほとんど我知らず何かを言おうとした。

 そのとき、辺りに場違いな声が轟いた。


『サーシャ! サーシャ、消えないで!』


 悲痛すぎる少年の声に、過去のハナとグリフィスが視線を上げる。

 アレシュの手のひらの下で、今のハナもびくりと震えた。

 そしてアレシュは、ひとり呆然と目を瞠る。


(これは……僕の声、だ)


 この声には聞き覚えがある――というより、自分は確かにこんなふうに叫んだことがある。

 それは自分が少年のころ、自分の力でサーシャの姿をゆがめてしまったときのこと。


 やめて、サーシャ、死なないで、そんなふうにならないで、母さん、母さん、そこから、サーシャから出て行って!


 懸命に叫んで、崩れていく友達の中に腕を突っこんだ、あのとき。

 古い記憶がアレシュの頭の中をかき回す。目眩がどんどん酷くなる。

 ざらつく視界の中で、白い部屋の景色が大きく揺らぐ。階段の一番下、今のアレシュとハナから十歩ほどしか離れていない場所に、ぽつりと赤い染みができた。

 それは徐々に大きくなったかと思うと、花でも開くかのようにめくるめく赤黒さを辺りに広げる。

 まるで新鮮な内臓みたいにてらてらと光る、美しくも醜い『何か』。

 じっと見ているとおかしくなってしまいそうな、何にも似ていない、名状しがたい『何か』の中に、ひとりの少年がいるのが見て取れた。

 白い肌、黒い髪、ほっそりとした美しい身体。

 綺麗な首筋を見せてうつむいて、必死に赤黒い何かを混ぜている彼。


 あれは確かに、アレシュだ。

 少年時代のアレシュ。


(あのとき、僕は自分の力で魔界と人間界の境界を混ぜてしまって――多分、境界に穴が開いたようになって。そのせいで、魔界側からも姿が見えてた、ってことなのか?)


 そうとしか考えられない。

 だとしたら、ハナはあらかじめ自分を知っていたのだ。

 グリフィスに監視を命じられる前から、知っていた。


「あれは……」


 過去のハナが震えて囁くと、グリフィスが柄にもない緊迫した声をあげた。


「ここにいなさい、ハナ。あれは……ひと、ではない。幻影でもない……あり得ん。とにかく動いてはいけない。すぐに排除してこよう」


 彼は言い、過去のハナを置いて階段を駆け下りようとした。

 その腕に、過去のハナがすがりつく。


「待って! 待って、あのひとを殺さないで、だって、あのひと、助けてって言ってる!」


「やめなさい、ハナ!」


 グリフィスは乱暴にハナをふりほどこうとはしない。むしろ困ったような顔で、彼女を押し離そうとする。

 そんなグリフィスに、過去のハナは今までの様子からは考えられない勢いですがりつき、反抗した。


「だって、助けてって! 助けてって、叫んでるの、あのひと! 本当に、私には聞こえるの、あのひとの声なの!」


「ハナ、君は優しすぎる。だが、優しさを万人に振りまいてはいけないよ。それは君を不幸にするだけだ。君はわたしにだけ愛を感じていればいいのだ」


 諭す口調のグリフィスを見上げ、過去のハナは瞳に絶望の色を濃くした。

 かと思うと、一目散に階段を下りていこうとする。彼女の足は、石の上にぶちまけられた内臓で見事に滑った。


「ハナ!」


 グリフィスが素早く転びかけたハナの腕を取る。抱き寄せる。


「やめて! やめて!」


「何を嫌がるのだ、君は! あの人間の力にやられているのか。あの、奇妙な力――」


 グリフィスは低くつぶやき、階段の下をにらむ。

 そこでは相変わらず、過去のアレシュが泣いていた。


『――サーシャ……サーシャ? ねえ、何か言ってよ。何でもいいからさ。黙ってるなよ、怖いだろ? いっつもそうやって、意地悪ばっかり』


 細い肩を震わせ、目を閉じることもできず、アレシュは涙をこぼしながら囁いていた。

 指はまだ、元はサーシャであった赤黒いものの中から、何かを探しだそうとしていた。

 そこからは失われてしまっているであろう何かを、見つかるはずのない何かを探して、ひたすらにかき回していた。

 平素ならば美しいはずの顔はすっかり青ざめ、こわばって、まるで死人のよう。

 顔から零れ落ちてしまいそうな赤い瞳には、もう何も映っていない。


 ――醜いな、と、アレシュは思った。


 このときの自分は、醜い。

 とても弱くて、とても絶望していて、その絶望から逃げる方法だけ探している。

 ないものねだりの、醜いこども。

 こんな姿を過去のハナに見られたくなかった。もちろん、今のハナにだって。こんなものを見せられたら、誰だって不快に思うだろう。自分が苦しいときならなおさら、他人の苦しみなんて見たくないだろう。


(初対面がこれじゃ、尊敬なんてされるわけないか)


 アレシュはどこか納得して、過去のハナを見た。

 彼女は、じっと過去のアレシュを見つめていた。

 虚ろで暗い、青緑の瞳。

 そこから、つるり、と涙が零れる。

 惜しげもない大粒の涙が、次から次へと落ちてきて誰かの血と入り交じる。

 ハナの視線は、けしてアレシュから離れない。唇は、何かを懸命につぶやこうとしている。もしくは、声に出さないまま、つぶやいている。


 そのつぶやきは。


「たすけて、たすけて」


 ぽつり、と今のハナがつぶやく。

 アレシュがぎょっとして傍らの彼女を見ると、ハナは過去のアレシュを見つめたまま言った。


「……あのとき、私、そう繰り返してました。でも、あれは、本当はあなたが言っていた言葉です。……声にはなっていなかったのに、聞こえたの」


 不思議ね、とハナがつぶやく。

 たすけて、たすけて。

 いざというときは、口に出せないその言葉。ずっと口に出せなかったから、誰も知らないと思ったその言葉。

 

 届いていたのか。

 彼女だけには。


 アレシュは緩やかに瞬いて言う。


「そうか。僕は昔から、本物のばかだったんだな」


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