32 シュート
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いまだに、夢を見ているみたいだ。
ここ数か月の間に起こった事は、本当に、夢みたいな出来事だった。数か月前の俺に、こんな事が起きるぞ、なんて言っても、絶対に信じないと確信出来るぐらい、奇跡が起こったのだ。
数か月前までの俺は、ちっぽけで何も持っていないガキで。
病気で働けなくなった父さんの代わりに、港で下働きをしていた。平均より身体が小さな俺を雇ってくれるところはどこもなくて、探して頼み込んで、ようやくありついた仕事だった。
「ごほっ、ごほっ」
「父ちゃん、大丈夫?」
肺を悪くした父ちゃんは、すっかりやせ細って、血混じりの苦しそうな咳をする。俺も母ちゃんも妹も、父ちゃんの発作が起こると背中を摩ってやることしか出来なくて、悔しかった。父ちゃんの薬は高価で、俺や母ちゃんの稼ぎでは買う事が出来なかった。
国一番の船職人で、丸太みたいなぶっとい腕だった父ちゃんは、あっという間にガリガリになった。大きな工房で、沢山の弟子に囲まれていたのに、その工房も潰れてしまった。
日に日に弱っていく父ちゃんが、いつか病に連れていかれるんじゃないかと、俺は怖かった。すまない、すまないって、小さな声で謝る父ちゃんが、悲しかった。俺は父ちゃんの代わりになるべく、必死に働いて、働いているけど、稼げる金はたかが知れていた。
あの日も、どうしようもない思いばかり抱えて、海辺に立っていた。友だちのルイカーたちが、呑気に遊びに誘ってきていたけど、そんな気になれなくて、ぼんやり海を見ていた。そしたら、ルイカーたちの中でも、特に悪戯好きのチビが、あろう事かお貴族様専用ビーチに入ってしまったのだ。
俺は慌てた。今はまだ夏前だから、お貴族様はまだシャンジャにいらしてはいないだろうけど、お貴族様専用ビーチは、普段から平民が入るのを禁止されている。そんなところに魔物が入り込んだら、あっという間に討伐されてしまう。
「チビ、待て!」
慌てて俺が追いかけると、他のルイカーたちまで、追いかけっこだと思って俺の後を付いてきた。まずいまずい、どうしよう!しかも、最悪な事に、お貴族様専用ビーチに、人影があった。お貴族様が、利用されている!
俺はあっという間に警備の人に捕まった。どうしよう、どうしよう。殺される。俺が死んだら、ただでさえ稼ぎの少ない俺の家は、飢え死にするかもしれない。
そこに、シャンジャ街の代官、ドレリック様がいらっしゃって、お貴族様にとりなして下さった。街で一番偉いドレリック様が、こんなに頭を下げるだなんて、どれほど偉いお貴族様なんだろう。俺はやっぱり、死ぬのかもしれない。
『小僧』と、背筋が凍るようなおっかない声で呼ばれ、恐る恐る顔を上げれば。そこには、熊の様な大男が、ボタボタ水を滴らせて立っていた。その両肩には、凶悪高級魚グロマを二匹も抱えている。
俺は恐ろしさで気が遠くなった。『漁師殺し』と言われるグロマは、海の深い所にしかいない。シャンジャでも、何年かに一回、偶に浅瀬に迷い出たヤツが獲れるぐらいだ。鋭い歯と、頑丈な皮膚を持ち、視界に入ったものを狂った様に攻撃してくる。味は天にも昇るほど美味いらしいが、そもそもそんな凶悪魚を仕留めるなんて、並の漁師では無理だ。だから、滅多に市場には出ない魚なんだけど。そのグロマが二匹、この世の地獄でも味わった様な、白目を剥いた苦悶の表情で息絶えている。何があったんだろう。
そんなグロマを抱えたお貴族様に、射殺されそうな恐ろしい眼で睨まれ、叱責されたが、意外にも殴られる事も殺される事もなく、俺は許された。良かった、助かった。俺はまだ生きていられるんだ。安心してへたり込んでいたら、俺の視界に、信じられないぐらい美しい女神が現れた。
「ふふふ。気を付けなくては駄目よ?」
黒く艶々した髪と、海の深いとこみたいな綺麗な青の瞳。白くすべすべの頬に、ピンク色の唇。
女神だ。伝説の、海の女神。
夢みたいに綺麗な人に微笑まれて、俺の頭は一瞬で茹で上がったように熱くなった。俺の事を小さいとか男らしくないとか、散々馬鹿にしてきた近所の女の子たちとは全然違う。なんかもう、全然違う。
ぼうっと見惚れていたら、熊みたいなお貴族様に舌打ちされて、すぐに我に返った。恐ろしすぎる。
俺は女神……サラナ様と同じテーブルについて、何故か一緒にお茶をいただいていた。マナーなんか気にしないでいいわよと優しく言われ、花の香りのするお茶と、宝石みたいにキラキラしているお菓子をいただく。凄く高そうな菓子なのに、全く味は分からなかった。
サラナ様は俺が緊張のあまりどもりながら話す事に熱心に耳を傾けてくれて、うなずいたり時折質問を挟みながら、夢みたいな時間は過ぎて行った。
話の途中で、サラナ様がルイカーに乗りたいと仰ったとき、俺はサラナ様をルイカーの後ろに乗っけて、海を走り回る事を想像してしまった。やばい、乗せてあげたい。だが、熊の貴族様に即却下されて、俺の妄想はすぐに砕け散った。当たり前にダメだった。
それでもサラナ様は諦められないようで、熊の貴族様と何やら交渉していたが、突然、突拍子もない事を言い出した。ルイカーに、船を曳かせるだって?確かにルイカーは力も強いし、楽しい事大好きだからやってくれそうだけど……。お貴族様のお嬢様が、そんなものに乗りたがるのか?
そう思っていたが、翌日、サラナお嬢様の元には、厳つい顔の男が増えていた。明らかに職人ぽい、ダッドさんとボリスさん。
そして、シャンジャの街にも支店を作るって噂の、アルト商会の商会長。近所のちょっと裕福な家の女の子が、アルト商会の何とかっていう化粧品が欲しいって騒いでいた。その、アルト商会だ。厳つい顔の職人達とは対照的な、綺麗な顔。
でも、ちっともナヨっぽくなく、迫力のある人だった。そんな王子様みたいな男が、サラナお嬢様を大切な宝物みたいに扱っていて、見ていてこっちが恥ずかしくなった。
そんな、一癖も二癖もありそうな男たちが、サラナお嬢様の忠実な部下みたいに、きびきび指示に従っている。
ダッドさんと俺の父さんは、知り合いだったようだ。俺の父さんが肺の病気で働けなくなったって聞いて、驚いていた。
「嘘だろう。この国一番の船職人のロダスが、病気だとぅ?」
ダッドさんはすぐに行動を起こした。サラナお嬢さまに俺の父さんの事を話すと、瞬く間に街一番の医者が呼ばれ、高い魔法薬を準備してくれた。
「こ、こんな高い薬、代金を払うなんて無理ですっ」
値段を聞いて心臓が止まるかと思った。俺たちの生活費の何年分だよ?貧乏人の俺たちには、どう頑張ったって払えやしない。
「あら。私、船が必要なの。それを作る職人さんを確保するための、必要経費だもの。心配いらないわ」
サラナ様はあっさりそう言って、俺の父さんに薬を飲ませた。父さんの症状に合わせて調合されたというバカ高い薬は、小瓶の半分ほどの量しかなかったが、あんなに父さんを苦しめた病を、あっさりと消してしまった。
薬を飲んで一晩眠った父さんは、胸の苦しさも咳もなくなり、ここ何年か見た中で一番顔色が良くなっていた。お椀の半分も食えなかった飯をバクバクと何杯もお代わりして、ガーガーと元気なイビキをかいて寝て、みるみる元気になっていった。
「サラナお嬢さま!ありがとうございますっ!」
俺は涙ながらに礼を言ったが、サラナ様は照れくさそうな顔をして、微笑んだ。
「うふふ。お礼は労働で返してもらうわよ」
元気になった父さんは、サラナ様の『ぷろじぇくと』の『せんぞくりーだー』とやらに抜擢された。秘密は洩らさないという魔法契約を結び、ダッドさんとボリスさんと、生き生き楽しそうに船を作っている。俺はルイカーたちの調教(といっても、言う事を利かせるのは簡単なので、実質は殆ど遊んでいるだけだ)と、船作りを手伝った。底がガラス張りって、サラナ様はなんてすごい事を考えているんだ。これなら、まだ幼い俺の妹も、楽しんで遊べそうだと思った。
実際、船の試乗の『もにたー』とやらで、妹と母さんを船に乗せたら、妹は船底のガラスにずっとへばり付いて、キャーキャー騒いでいた。母さんも、目尻の涙を何度も拭いながら、幸せそうに父さんに寄り添って海底の景色を楽しんでいた。父さんが倒れてから、母さんは愚痴一つ言わず、ずっと働き詰めだった。母さんが幸せそうにしている姿を見ると、俺も嬉しくなった。父さんは、そんな母さんの肩を大事そうに抱いて、誇らしげに笑っていた。
そうしてようやく出来上がった船に、サラナ様と熊、いや、バッシュ様を乗せてルイカー船を走らせた。サラナ様は目をキラキラさせて、凄く楽しそうだった。自分で考えた船なのに、凄いわ!シュート君凄いわ!と褒められて、胸が熱くなって、嬉しかった。
でも途中で、バッシュ様にスピードを出せと命じられ、ルイカーたちに全力で走らせたら、サラナ様の腰が抜けてしまった。涙目のサラナ様、スゲェ可愛かった。やばい、こんな事考えているのがばれたら、バッシュ様に殺される。
そして。サラナ様はやっぱり、只者ではなかった。このルイカー船を、大型船への荷運びに利用しようと考えられたのだ。大型船の事は、港中で問題になっていた。シャンジャの港の拡張工事が終わるまで、どうやって大型船との商売をするのか。港で働く奴らはみんな、この問題に頭を悩ませていたのだ。大型船まで荷を運ぶのに、金と手間が掛かり過ぎるのは、子どもでも分かる事だったから。それが、ルイカー船で、問題が解決出来るのだ。
俺たち一家はルイカー船ぷろじぇくとの責任者として、代官邸の敷地内の家に移り住む事になった。いずれは警備のシッカリした家を準備するから、それまでは窮屈だろうが我慢してくれと、ドレリック様に謝られたが、俺たちが住んでいたあばら家の10倍広くて立派な屋敷で、綺麗な花が咲いた広い庭があって、しかも通いのお手伝いさんや護衛までいるのだ。何が窮屈と言うのだろうか。天国みたいだ。俺はそこで、ルイカー船の操縦の仕方を、俺より身体のデカい弟子たちに教える事になった。俺より年上のおっさん弟子ばかりだが、みんな真剣に、俺の事を師匠などと呼ぶ。めちゃくちゃ恥ずかしい。
俺たち貧乏一家が大出世を遂げると、周りの目が変わった。身体も小さく、貧乏だと馬鹿にされていた俺が、皆からちやほやされるようになった。俺を馬鹿にして、悪し様に罵っていた街の女の子たちも、俺にすり寄ってきた。
でも俺は騙されない。こいつら、俺たちが困っているときは嗤っていたような奴らなのだ。
本当に信頼出来るのは、夕食を作りすぎたからとか言って差し入れしてくれた隣のおばちゃんや、余りものだから持って行けとぶっきらぼうに小魚や貝を持たせてくれた港のおっちゃん達の様な人だ。困ったときに手を貸してくれるような人こそ、信頼に値するのだと、ボリスさんも言っていた。俺も、仲良くするなら、そんな人たちと仲良くしたい。恩返しをしたい。
いくら貧乏じゃなくなったからって、俺の中身は何も変わっちゃいないんだ。本物を見極めろと、バッシュ様が怖い顔で言っていたのを思い出し、俺たち家族は気を引き締めて、時にはドレリック様に相談しながら、身の丈にあった生活を続けている。
それに俺は、サラナ様の信頼と恩に、絶対に背きたくないのだ。父ちゃんの命を救ってくれて、俺の家族を笑顔にしてくれたあの人に。
「シュート君のお陰よ。あの時、シュート君がルイカーを心配して貴族専用ビーチに入ってきてくれたから、ルイカー船の事を思いつく事が出来たわ」
いつだったか。サラナ様が俺の手を握り、そう言ってくれた。その一言で、俺は自分に誇りを持てた。
サラナ様の手は、小っちゃくて細かった。この小さな手が、俺たちの家族に、なんて大きな変化をもたらしてくれたのだろう。
初めて会った時から、分かってはいたけど。
やっぱりサラナ様は、シャンジャの街に降り立ち、希望を齎した、海の女神様なのだ。
書籍化作品
「追放聖女の勝ち上がりライフ」も連載しております。ご一緒にいかがでしょうか。




