124 トーリの後悔と夫婦の危機
お待たせした挙句、トーリの回かよと怒られそうです。ごめんなさい。
ちなみに離婚回避した国王陛下は、その後落ち込む弟を慰め、夜会でへとへとに疲れていたのに、結局徹夜で次の日の公務に向かうというミッションをこなしました。弟も同じ条件で学校&公務をこなしています。自業自得です。
今度こそはと勢い込んで参加した夜会で、恋が完全に終わった。
自室に戻った俺、トーリは、着替える事もなくただ呆然とソファに座り込んでいた。
サラナ嬢とバルコニーで過ごした後のことは、あまり覚えていない。ただ役割としてデビュタントを迎える令嬢たちと挨拶を交わし、踊り、別れた。どの令嬢たちも美しく着飾り、嬉しそうに踊っていたが、俺の記憶にはどの令嬢の姿も残っていなかった。ただただ、サラナ嬢の黒く艶やかな髪と白い肌、ひらひらと揺れるドレスだけが鮮明に心を占めている。
「我ながら、未練がましい……」
サラナ嬢の心は得られないと分かっていながらも、会場では気付けば彼女の姿を目が追っていた。あの商人と嬉しそうに、恥ずかしげに踊る姿を。前辺境伯の力強いダンスに、殆ど宙に浮いてしまい慌てていた姿を。友人たちと語り合い、朗らかに笑いあう姿を。
彼女は本当に楽しそうに笑う。家族や友人といった身近な人へ向ける笑みと、自分に向けられていた取り澄ました淑女の笑みの圧倒的な違いに、俺は打ちのめされた。王族に対する敬意は感じられても、彼女は最初から最後まで、全くと言っていいほど俺に対する好意はなかったのだ。
思えば初対面の印象が悪すぎだ。視察の場に同席するサラナ嬢を、他の婚約者狙いの令嬢と同じだと決めつけ、冷淡な態度をとってしまった。視察の最中に彼女がドヤール家の事業の中心人物であると知り、その有能さに感心し、なんとか関係改善を図ろうと動いたが遅かった。サラナ嬢はこちらが近づこうとしても決して一定以上は踏み込ませず、鉄壁のドヤールの守りに囲まれ、何も出来ぬまま別れの時を迎えてしまった。
そこから俺は失態を重ね続けた。サラナ嬢やドヤール家の俺に対する評価は、地に落ちていたのだろう。何とか挽回したくて、今回の夜会が最後の機会だとサラナ嬢に思いを告げたのだが、そもそも、彼女には俺の好意は全く伝わっておらず、それどころか側近たちと恋仲だと思われていたのだ。サラナ嬢は優しいからハッキリと俺を拒絶する言葉は口にしなかったが、彼女の表情を見ていれば、俺に気持ちがない事も、妃になる利点がないと考えている事も、イヤというほど分かった。
「俺には初めから手に入らない宝だったのか……」
俺は胸の内が抉られたように痛むのを感じた。
これが失恋か。焦がれても焦がれても、あの人は絶対に手に入らない。役者の演じる恋や本の中で描かれる恋に心を動かされたことはあったけれど、現実は絵空事ほど美しいものではなく、嫉妬や絶望や哀切が混ざり合って汚泥のように醜いものなのだと思い知った。どうやっても無理だと分かっていても、彼女が欲しくてたまらない。いっそのこと彼女を攫ってしまいたい衝動が身体中を巡っている。
だが実際には、俺は行動出来ずにいた。例えば王命でサラナ嬢を娶っても、サラナ嬢は俺にあの笑みは向けてくれないだろう。俺に向けられるのは、サラナ嬢の完璧な淑女の笑みだけ。そこに彼女の心は伴っていない。
俺が欲しいのはそんなものではなかった。妃に相応しいからではなく、ただ愛しくて、彼女が欲しかった。あの商人に向ける笑みを、自分にも向けて欲しかった。それが叶わないと分かっているから、動く事ができなかったのだ。
「トーリ。入るぞ」
思い悩んでいると、部屋の外からなにやら揉めているような人の声が聞こえた。何事かと念のため、剣を取って身構えていると、やがてノックの音がして、聞きなれた護衛騎士の声で、入室の許可が求められた。戸惑いながら許可をすると、部屋にやって来たのは兄だった。
「あ、兄上?」
俺は慌てて兄を迎え入れる。兄が私室にくるなど、滅多にない事だ。俺と同じく、夜会の時の豪奢な服のままの兄は手にワインボトルを持っていて、護衛の騎士も腹心の者だけの最小限。明らかにお忍びで部屋を抜け出してきている。
「トーリ。飲むぞ」
驚く俺を気にせず、兄はどっかりと向かいのソファに座り、護衛にワインボトルを渡す。長年兄に仕えるその護衛騎士は、呆れた表情を隠しもせずにボトルを開栓して中のワインをグラスに注いだ。手慣れている。いつもやらされているのだろうか。護衛なのに?
突然の兄の訪問に戸惑ったが、兄のマイペースな振る舞いに、仕方なしに俺は腰を下ろした。今はあまり、人と話す気分ではなかったのだが、こういう時の兄は何を言ったって聞きはしないのだ。
護衛たちも隣の部屋に下がらせて、兄と2人きりになる。
兄はしばらく机の上のワインを見つめていたが、やがてポツリと告げた。
「このワインは、父上が残したワインだ」
「……父上が?」
俺は驚きと共に、羨ましさを感じた。父は俺が幼い時に亡くなり、その思い出は殆どない。父が亡くなる頃、兄は既に成人していたので、俺の知らない父の記憶が沢山ある。父の死と同時に兄は王位を継ぎ、忙しい最中まだ小さかった俺の親代わりまで務めてくれたので、父がいない寂しさを感じることはなかったが、父との思い出がある兄を時折羨ましくなるのだ。
「そうだ。このワインは、トーリが失敗した時に開けろと厳命されていたのを思い出してな」
「は? 祝いではなく、失敗した時ですか?」
「祝いの時用はまた別にあるんだ。あっちは華やかで軽めのワイン。こいつは、渋みが強くて大人向けのワインだな」
父がワイン好きだったと兄に聞いてはいたが、用途の違いで飲むワインが違うのか。
残念ながらそれほど酒は好きではないので、違いが良く分からないが。
「失敗して、一つ大人になった男に相応しいワインだそうだ。『俺は付き合ってやれんから、兄であるお前がやけ酒に付き合ってやれ』と言われてな」
グラスの中の深い赤が、とろりと揺れる。
肖像画が残っているので、父の顔は知っている。それ以外は、兄や昔から仕える者たちに聞いた、父の言葉やエピソードしか知らない。
そんな遠い幻のような父が、急に身近に感じて。俺は何も言えず、じっとワインを見つめた。
もしも父が生きていたら、今日の事を叱責され、この苦しい想いを黙って聞いてくれたのだろうか。
「お前が大人になるのを楽しみにしていたよ。俺に『一緒に飲んでやれ』といいながら、悔しそうにしていたな」
兄が、懐かしむように目を細めて言うのに、ぐっと、胸に何かがせり上がって来た。恋を失って空虚になっていた胸に、温かな何かが。思わず潤みそうになる目元にギュッと力を入れて耐える。
「父上の代わりでは足りんかもしれんが、いくらでも胸の裡を吐き出せ」
兄の姿に、覚えていない筈の父の姿が、重なった様な気がした。
◇◇◇◇
言葉は少なく、だが途切れる事もなく。兄との小さな酒宴は始まった。
初めの一杯を飲み干したころ、再び、俺の部屋の前で騒ぐ声が聞こえた。
「トーリ殿下。王妃様からの至急の知らせが……。陛下、こちらにいらしたのですね、お探ししていました」
部屋にやってきたのは、兄の侍従だった。顔色が良くなく、慌てていたのか髪が乱れている。兄の姿を認めると、呆れたような、諦めたような、残念な視線を向けている。
「おう、どうした。王妃からの知らせだと?」
ほろ酔いの兄が気安げに手を上げるのに、侍従が引きつった笑いを浮かべる。散々探し回った相手が楽しそうに酒を飲んでいたら、そりゃあ腹が立つだろう。
「陛下にも、王妃様より至急の知らせが届いております」
侍従の固い言葉と表情に、兄の顔色が僅かに変わる。
「至急の……? 兄上、何でしょうか」
「マズいぞ、トーリ。水を飲んで酔いを醒ませ! 」
王妃からの言伝を読んだ兄は、そう言うなり、水をがぶがぶと飲み始めた。その鬼気迫った様子に、俺は驚いていたのだが。
「トーリ。夜会の前の、王妃との約束を覚えているだろう。サラナ嬢とのダンスは、王妃の判断で決めると」
「……は、はい」
「ダンスは判断に従ったがな。俺がワインを溢したのは、あきらかに王妃の判断に背いている。ドヤールの心証もあれで格段に悪くなった」
兄の言わんとしていることを理解して、俺も慌てて水を口に含む。暢気にやけ酒などしている場合ではなかった。義姉は、普段は嫋やかで穏やかな人だが、怒らせるとそれは恐ろしい人なのだ。声を荒げる事なく、穏やかなまま怒るのだ。ハッキリ言って俺は、兄より義姉の方が怖いと思っている。
「残念だが、ワインはまたの機会だ。今はこの嵐を共に乗り切ろう」
本気で嫌そうな兄の顔に、俺は思わず噴き出した。笑うことなど、二度と無理だと思っていたのに。
「お。笑ったな。この国一番の不幸を背負ったような顔をしているより、そっちの方が幾分マシだ」
「……幾分マシとは、どういう意味ですか」
「男前の俺には負けるが、悪くはないという意味だ」
大真面目に言われ、俺は今度は軽く声を上げて笑った。そこに兄の笑い声が重なる。
父の想いに、兄の気遣い。失恋の痛みが無くなるわけではないが、1人ではないということが、大きな支えのように感じた。
「随分と、楽しそうでいらっしゃいますわね」
そんな兄との軽やかで温かなやりとりは、氷のような声にぴたりと止まる。
「まぁ……。陛下も殿下も、まだお着替えもなさらずに、夜会の余韻を楽しんでいらっしゃったのかしら。私とは違って、とても楽しんでいらっしゃったものねぇ」
夜会の煌びやかな装いから寛ぐときの軽いドレスに着替えた義姉は、夜も更けているというのに化粧も髪も完璧で、一分の隙もなく美しい。夜会の豪奢な衣装のままだが、首元を寛げ、髪を崩した俺たちでは、絶対に敵わないと思った。なんとなく。背中を流れる冷や汗が凄い。
「お、おお、王妃。今日の夜会はご苦労だった。君も疲れた事だろう。そろそろ休むとしようか」
兄が義姉を労わるように声を掛ける。さっさと私室に引きこもり、うやむやにしようと企んだのだろうが。
「その前にお話があります」
絶対零度の義姉のぴしゃりとした声に、あえなく兄の目論見は途絶えた。聞いた事のない程小さな声で、兄が『ハイ』と答える。
そのまま家族のサロンに連行され。いつもは身体を包み込むような座り心地のいいソファが何故か落ち着かず。もぞもぞと身体を動かす兄と俺に、義姉は冷ややかな目を向ける。
「それで。申し開きはございまして?」
「う、ない。すまん」
「申し訳ありません」
侍女も護衛たちも次の間に控えさせ、家族しかいないサロンの中。国王だとか王弟だとかの立場は投げ出して、潔く頭を下げた兄と俺だったが、それぐらいで義姉の怒りが治まるはずもなかった。
「今宵のデビュタントは、様々な派閥のご令嬢がいらっしゃったから、入場順一つにしても、苦労いたしましたわ」
ふわりと扇子を広げ、義姉はゆったりと仰ぐ。義姉の付けた香水がふわりと薫るが、その香しさも今はなんの慰めにもならない。
「どの派閥の顔も潰さぬよう、何度も文官たちと調整と審議を重ねて、満足いく形に仕上げましたのよ」
薄い笑みを浮かべたまま、義姉の声はどこまでも穏やかだ。
「多少の手違いには、優秀な侍女や文官たちが揃っていますもの。対応は可能ですわ。陛下の事故にも、迅速に対応できていたでしょう? 」
「そ、そうだな。助かった」
笑顔で追随する兄に、義姉は笑みを浮かべたまま告げる。
「ですが。陛下のようにわざと場を乱すような事をされては、困ります。私や侍女や文官たちが作り上げた夜会を、何だと思っていらっしゃるのかしら」
「すまん!」
再び頭を下げる兄に、義姉は悲しげな顔を向ける。
「陛下。私はこの国の王妃として、陛下の治世が恙なく続くように努力してまいりました。それは偏に、貴方を支えたいという思いからです。それを貴方自ら阻む様な真似をされては、これ以上貴方をお支えする事は出来ません」
「メルダ!」
兄の必死な声も、呆然としていた俺には殆ど聞こえていなかった。何を、義姉は今、何を仰ったのだ?
「すまなかった。君の努力を無駄にするような振舞いをした。俺の落ち度だ。すまない」
兄が義姉の隣に移動して、その手を縋るように握っている。
「陛下。あのバルコニーで殿下とサラナ嬢がお会いになっていたのを、幾人かの方が気づいておりました。ですが悪い噂にならなかったのは、バルコニーの入口でサラナ様のお相手だと目されているアルト商会の会長が、控えてくださっていたからです。ドヤール家の皆様も、他の来客たちにサラナ嬢と商会長の慶事が近い事を広め、殿下とはあくまで事業の話があると印象付けてくださっていたから、事なきをえたのです。本来ならば、未婚の令嬢とバルコニーで2人っきりで会うなど、令嬢に非常に不名誉な噂が立つ可能性があるのです。それを何も考えずにバルコニーに誘い出すなど……。貴方たちはこれ以上、ドヤール家の怒りを買ってどうなさるおつもりですか」
義姉の怒りに震える言葉に、俺は青くなった。確かに、これでは謁見の際にサラナ嬢に怪我をさせてしまった時と同じ誤解をさせてしまうではないか。醜聞を盾にサラナ嬢を娶るつもりなのかと、ドヤール側が怒っても仕方がない。
「す、すみません、義姉上。私の、私のせいなのです。兄上は何も」
「トーリ殿下。あのバルコニーでのことは、陛下が衣装にワインを溢した事が発端です。陛下が殿下の後押しをなさったと、皆は見るでしょう。関係ないなどと言い逃れはできません」
義姉は兄の手を振り払い、ぐりぐりと眉間を揉んでいる。兄が義姉の横で、『顔色が悪い。具合が良くないのか? 横になった方がいいのでは?』などと心配していたが、義姉に『お黙りなさい』とピシャリと撥ねつけられ、しょぼくれていた。
「私はもう、疲れました。陛下の妃であり続ける事に、自信がなくなりました。本当に、貴方たちときたら、これからカルドン家との合同茶会も控え、ドヤール家にはその仲立ちで骨を折ってもらっているというのに、ドヤールの掌中の珠であるサラナ嬢を考えなしに貶しめる様な真似をして。なぜそんな、恩を仇で返すような真似を……」
ハラリハラリと、姉の頬に涙が伝う。いつも冷静な義姉が泣くなんて、衝撃に俺は息が詰まった。義姉には、幼い頃からまるで本当の弟のように気に掛けてもらっていた。そんな義姉を俺の愚かな振る舞いで泣かせ、挙句に、兄との関係にまでヒビを入れてしまった。国王と王妃が離婚など、我が国の長い歴史の中でも例のないことだ。そんな国を揺るがしかねない元凶が自分だなんて。途轍もない罪悪感に、目の前が真っ暗になる。
そこからはひたすら兄と共に義姉に謝り倒し。義姉がようやく離婚の意志を撤回してくれたのは、もう空が白みかけた頃だった。
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