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カルテ665 怪球カマグ(前編) その53

(……)


 クラリスは前方を見据えたまま沈黙する。漆黒の濁流は眼下に迫り、その絶望の牙から逃れる術は無いかと思われた。だがしかし、彼女はそれでも動揺する気配は微塵も無く、凛とした立ち姿からは何故か余裕らしきものさえ感じられた。


(どういうことだ……俺の最強の護符に対する秘策が何かあるとでもいうのか……?)


 冷静沈着な彼女に対し、逆に安全領域にいるセフゾンの方の額に汗がにじんだ。よもや自分のようにアリ避けの機能が施された特殊な服でもまとっているのかと一瞬疑ったが、アリの様子から察するに、どうやらそんなバカげた奇跡が起こった可能性は微塵も無さそうだった。


(となると、まさか俺がこの期に及んで助けるとでも思っているのか? 確かに俺は女性に優しい紳士的な男だが、ここまでコケにされたら堪忍袋の緒が切れるってもんだぜ、ケッ)


 セフゾンはあまり自分を客観視できないタイプの人間だった。


(後は、どこからともなくこいつの仲間が颯爽と登場してヒーローよろしく窮地から助け出すって線もあるが……って、ないないない。外からは誰も来る気配がないし、もし万が一本当に助けが現れたとしても、今更袋のネズミをどうすることも出来ずに万事休す、だ。所詮すべてはやつのハッタリで、最後の悪あがきみてえなもんよ)


 ようやくセフゾンが相手の逆転の可能性を全部消し去り内心安堵した時、それは起こった。突如、クラリスが前を見つめた状態のまま、右手を背中のリュックのポケットに伸ばし、中から何かをそっと取り出したのだ。


「袋……?」


 彼が思わず口にした通り、それは何の変哲もない、口元を紅い紐で結ばれている布製の茶色い小袋だった。彼女はその紐を引いて開封すると、なんとその中身を自らに浴びせかけた。


「な、何をしてやがるんだ、てめえ!?」


 前のめりになって怒鳴るセフゾンの鼻先に、とても香しい匂いが流れ込んできたので、つい大きく吸い込んでしまった。


「こ、これは……コピ豆の香り!?」


 想像の斜め上の展開にセフゾンは混乱を来した。

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