カルテ549 記憶の宮殿と琵琶法師(前編) その12
「なるほどなるほど、ようするに三日後の呪文の詠唱の追試に受からないと、あなたは問答無用で留年の憂き目にあってしまう、と……」
「ええ、そうなんです。それで今夜もここでこっそり練習していたんですが、上手くいかず、行き詰ってしまって……お恥ずかしい……」
「ううううううう……泣かせる話ですねぇ……ズビズバズビビー」
「そ、そんな!先生が泣く必要なんてないですよ」
本多が先ほど大量に引きずり出したペーパータオルの山で鼻を盛大にかみだしたので、オダインの方が火傷の痛みも忘れて焦ってしまった。
「いえいえ、僕も何回も留年のピンチに直面しましたし、留年した友達や知人の惨状を色々目の当たりにしてきたので、正直言って毎日生きた心地がしませんでした。あなたの辛く悲しくやり切れない気持ちはよーっくわかります。ちなみに僕の世界には、今いる同じ場所に留まるためには全力で走らなければならないという、『赤の女王仮説』なるものがありますが、これはまさに進学や留年のことを指し示していると僕は思います。必死で勉強し続けない者はどんどん同級生や後輩に追い抜かされ、奈落の底まで転がり落ちていくんですよ。くわばらくわばら」
オダインは、それがなぜどこぞの女王なんぞと関係があるのか気になったが、また話の腰を折るのも悪いと思って口を閉ざした。
「ちょっと聞いて下さいよー。僕の出身大学には毎年30人くらい留年生を生み出す鬼のようなクソ教授がゴロゴロいまして、哀れな学生たちが泣こうが喚こうが縋り付こうが慈悲の欠片もなく虫けらのように叩き落し、毎年必ず退学者と自殺者を出すため蛇蝎のように忌み嫌われ、かつ魔王のごとく恐れられていました。あまりにも苛烈な教授の悪政のため、僕たちには恋愛どころか青春を謳歌する余裕すらなく、日々罪人よろしく死刑判決が下されないように神に祈る有様でした」
「……!」
自殺者と聞いた途端、オダインの胸中に白亜の建物に入る前まで彼を護符師の塔に追い立てようとしていた希死念慮が思い起こされたため、反射的に胸に右手を当ててしまった。まだ地獄の炎は心臓部で燃え盛っていたのだ。いっそこのまま席を立ってこの場を逃げだしたくなってくるほどだったが、彼は話の先に何が待っているのかが気になり、危うく踏みとどまった。探し求めていたものを見つけるために。




