カルテ410 幸運のカルフィーナ・オーブの災難(前編) その1
目路の限りに綿のように柔らかそうな雲海が星空の下に広がっていた。雲の平野は果てしなく、所々に雪上のクレバスのごとき真っ黒な亀裂が走り、その真下には森が静かに眠っていた。まこと生ある人間の存在せぬ領域を、一頭の銀色の大きな竜が息もつかせぬ速度で滑るように進んでいた。その顔は醜い爬虫類のそれではなく、巨大だが花のように玲瓏とした美しい女性のものだった。
また、その流星のような細く長い銀髪が渦巻く首筋には、黒いローブを纏った人影が、大樹にとまる夏の蝉のように、控えめに、だがしっかりとつかまっていた。その小さな手は興奮と緊張でいささか震えていた。
「す……凄い! こんな不思議な光景は生まれて初めて見たわ! 空が澄み渡って星がとってもきれい! 地上では曇天模様でも雲の上では曇っていないのね、エミレース姉さん!」
フードを捲って金髪をちらつかせながら、少しばかり銀竜に似た顔立ちの女性が驚きの声を上げた。言わずと知れた元符学院の女教師のエリザス・ラブグッドである。その正体は全ての生物を石化する恐るべき魔眼の能力を持つメデューサであった……どちらかというと駄メデューサと言った方が正確だが。
「あら、そりゃ上に雲が無いんだから当り前じゃない、エリザス。ていうかあなた、初飛行で衝撃を受けたせいかちょっとおつむがおろそかになっているわよ。前は教鞭をとって学生たちをしごいていたくせに」
彼女の真下の雪のごとく白いかんばせがいたずらっぽく微笑む。その額には判で押したような赤い傷痕が光っていた。
「なななな何言ってるのよ姉さんったら! この頭脳明晰で容姿端麗でつまりは才色兼備の末妹に対して失礼極まりないでしょ!? そんなことよりも、もっとスピードを出さないと!」
「そうね、風も出てきたようだし、下界を雲が覆っているうちに急がなきゃいけないわね……」
確かにエミレースの言う通り、いつの間にか雲海の動きが活発化し。急速に形が変わっていた。エミレースの燐光を纏うがごとき銀髪も強風になびき、夜に溶けていく。その銀細工よりも繊細な見惚れるほどの髪の毛は、先端から毒を発しありとあらゆる生命を死に至らしめるなどにわかには信じがたいくらいの神々しさだった。
かつて死神よりも恐れられた辛子の魔竜は、今、たった一人の命の為に夜空を駆けているのであった。




