カルテ308 牡牛の刑(前編) その1
その最果ての地では、あまりにも寒くなると雪すらろくに降らなかった。三方を高い崖に囲まれた谷底に流れる細い川はとっくに凍り付き、生あるものは皆川底に避難していた。
鎌のように細い月の浮かぶ四角く切り取られた夜空にも飛ぶ生物の影はなく、たまに仲間とはぐれたもの知らずの鳥が上空を縦断しようとしても、死神の吐息の如き冷気に生命を吸い取られ、無残に落下してくるありさまだった。
そんな、地獄ですら生ぬるい、生物が存在する限界とも言える白銀の世界に、一軒の木造の小屋が忘れ去られた古代の石碑のごとくぽつねんと建っていた。一応家畜小屋はついているものの、母屋も小屋もどちらもあまりにもみすぼらしくて、しかも地震にでもあって半壊したかのように、地面に対して斜めになっていた。
そして今にも倒壊しそうな家畜小屋の中には一頭の毛の長い牡牛が干し草の山の隣りに立っており、寒さに耐えて震えていた。
そのあばら家を見下ろす崖の上に、いくつかの白い影が雪像のごとく佇んでいた。
この地に生きる最も凶暴な生物、ホワイトウルフの群れだった。彼らは背後の森に住み、純白の毛皮に覆われており、全てが凍りつくこの季節でも平気で動き回っていた。仲間意識は非常に強く、最も賢くて勇敢なリーダーが一族を率いて狩りをして命を繋いでいた。その遠吠えは聞くものの心を凍てつかせ、逆に仲間の勇気を鼓舞する魔力を秘めるとも言われていた。
群れの中で一際大きく美しい毛並みのリーダーが、周囲の臭いを嗅ぎ、危険がないことを確認する。用心深い彼らは風下であるこの場所から獲物を狙っていたため、気づかれる可能性はほぼ皆無であることを確信していた。今日こそあの美味そうなご馳走にありつくことが出来ると思うと、皆流れ出る涎を抑えることが出来なかった。
先頭に立つリーダーは、仲間にしか聞こえないような小さい声で軽く吠えると、軽やかに急斜面を駆け下りていく。他の四匹の仲間たちも彼の後を次々に追い、哀れな生贄へと距離を縮める。
皆、悪魔のごとき知恵を持つリーダーを信奉しており、その優秀な手足となって、自分の体格の何倍もある獲物をチームワークで倒してきた精鋭ばかりだ。あんな牙も爪も持たない獲物など、数分も立たないうちにバラバラにされ、皆の胃袋に収まっているに違いない。
いよいよリーダーが牛小屋にあと数歩の所まで接近した時、やっと危機に気づいた牡牛が「モーッ!」と一声大きく吠えた。しかしリーダーは気にせず体を沈め、飛びかかる体勢を取る。
「待ちかねたぞ、白い悪魔め!」
と、その時、干し草の山が突如崩れ、中からもう一頭、牡牛の頭が飛び出した。




