カルテ297 眠れる海魔の島(後編) その26
「んもー、ひどいわ、ゲンちゃんったら。麗しき乙女にゲロを吐きかけるなんて……あたい、そっちの趣味はないのに~」
「誰が麗しき乙女だ誰が! しかし、これは一体どういうことだ? 何故俺たちは吹き飛ばされたはずなのに相変わらず水中で呼吸出来て、会話まで可能なんだ?」
「そういえばそうね……って凄いわ! あたいたち、まだ泡の中にいるのよ!」
イレッサが指摘するように、彼とゼローダは二人を取り巻く巨大な泡の中に閉じ込められていた。先ほど魔獣の口から吐き出された時、口腔上部を覆っていた粘液の天蓋がそのまま分離して、シャボン玉のごとく漂っていたのだ。ゲンボイヤの姿はかなり遠ざかっていたが、粘膜越しにくっきり様子を窺うことが出来た。
「よく二人も入っているのに割れないものだな……」
「並みの泡ならすぐポシャってしまうところでしょうけど魔獣の粘液なだけあって、かなり丈夫みたいね。実はあたいだって唾でシャボン玉作ってお空に飛ばすことが出来るのよ。子供の頃、いっぱい作って嫌がる友達たちに向かって吹き付けてやったものよ~」
「……幼少期から真の邪悪だったんだな、貴様は」
「邪悪じゃなくってイノセントって言うのよ、お口が悪いわねー」
「って無駄口を叩いている場合じゃなくなったぞ、イレッサよ。外をよく見ろ!」
「えっ?」
急に口調が固くなったゼローダの雰囲気に呑まれ、イレッサは促されるまま透明な足元を見下ろした。そこには先ほどと同じく、火傷したと思しき口を大きく開けたままのゲンボイヤが映っていたが……
「触手が蠢いている!」
イレッサの褐色の肌が瞬時に海の色になった。大ダコはちょっと前まではやや丸めていた八本の足を、今は目いっぱいに、それこそ八方に伸ばし、あまりの長さに視界に入りきらないほどであった。
(まずいわ……)
ハイ・イーブルエルフの回転の速い脳裏に、つい先ほど彼らに襲い掛かり、風雪に耐えた頑丈なやぐらを木っ端微塵にし、海岸を水の底に沈めた恐るべき津波が嫌でも思い浮かぶ。奴の不穏な姿勢は、あの神の怒りにも似た災いを再び現世に顕現せしめるためのプレリュードだ。このまま絶望という名の序曲の演奏を許せば、今度こそ彼らは、否、このアラバ島は海の藻屑となるに違いない。
(そうはさせないわ!)
イレッサは拳をきつく握りしめ、全身の魔力を集中した。




