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カルテ280 眠れる海魔の島(後編) その9

「んなっ!?」


 イレッサは我と我が目を疑った。大ダコは現れた時と同様の速度で海中に没し、周囲は栓を抜いた満タンの風呂のように水面が漏斗状に落ち込んで、巨大な渦潮と化していた。


「な……なんで消えちゃったの? 寝起きでだるくって二度寝したくなったのかしら?」


「来るぞ、耐えろ」


 その直後、海面が揺れ、そして悪夢のごとく一気に盛り上がった。それも1メートルや2メートルではない。十メートルを軽く超える壁。名にし負うグルファスト王国の首都・城塞都市ドグマチールを取り囲む城壁のごとき灰色の水塊が、耳をつんざく海鳴りと共に怒涛の勢いで浜へと突き進んできた。


「びゃああああああああああ!」


「うおおおおおおおおおおお!」


 遮るものとて何一つない大海原を猪突猛進する暴流は瞬く間にイレッサとゼローダに迫り来ると、やぐらに激突し、破壊した。



 呼子笛の警鐘は河口近くのゼローダの家にも届いていた。


「お義母さん、あれはあの人の……!」


 アーゼラの褥瘡処置が一段落して一息ついていたアラベルは、恐怖に可愛い顔を歪ませる。笛の意味は彼女も熟知していた。


「ああ、間違いないね。代々うちに伝わるアレだ。遂にこの時が来たのか……アラベル、動けない私など置いて、早く山の方へ逃げるんだよ」


 アーゼラはむしろ悟りきったかのように端然としており、床上に臥したまま嫁に避難を促した。


「そんなこと出来ません、お義母さん! 私が負ぶっていきますから、一緒に行きましょう!」


「妊娠中のお前にそんな無茶なことさせられないさ。それに悠長なことしていたら二人とも津波に呑み込まれて仲良く死んでしまうよ。私はもう充分生きたからいいのさ」


「でも、だからって……」


 言い争っているうちに、戸外の轟音は加速度的に音量を増し、二人の会話がかき消されるほどになった。こうなったからにはこの場所でアーゼラと運命を共にしようと潔く決心したアラベルは、横たわる義母の傍らに寄り添い、側にある青いブリキ製の缶を握りしめて運命の時を待った。


 程なくして、招かれざる客である灰色の激流が河を遡上して戸口まで押し寄せると、玄関の扉を壁ごと打ち破り、室内にどっとばかりに侵入してきた。


「ゼローダーっ!」


 アラベルは固く目を閉じると、愛する夫の名前を叫んでいた。

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