カルテ279 眠れる海魔の島(後編) その8
「そうだな、共喰いでもしたのか?」
ゼローダはイレッサの指摘にわずかにうなずく。表情に陰りが現れたのは俯き加減の顔のせいだけではなさそうだった。
「あたい、何だか嫌な予感がするわ……ねえ、そろそろあなたのお家に行ってしっぽりしない?」
「馬鹿を言うな。お前を呼びたくなどないし、まだ仕事が残っている」
「ああん、カタブツさんねえ。でもこのままここにいると、なんかとんでもないことが起こりそうな気がするのよ……」
しつこく帰宅を促すイレッサの言葉に対し、ゼローダは寡黙に首を横に振るのみだった。
だが、それから数分後、日常の終末は唐突に訪れた。
雲一つない晴天にもかかわらず、何処からか雷鳴のような轟音がとどろいたかと思うと、鏡面のごとく凪いだ海の一角がグイッと持ち上がり、そのまま天に向かって伸びて行った。そう、まさに先ほどからイレッサが凝視していた一角が。
「な、何だ!?」
「ああああああああ……」
特等席の二人が只々呆気にとられているうちに、瑠璃を敷き詰めたように青い海面の頂点が割れたかと思うと、伝承の主である大ダコの、ちょっとした丘ぐらいある赤黒い胴体が実に数百年ぶりに姿を現した。
「あわわわわ……こここここれってひょっとしてあたいのせいだったりしちゃったりするのかしら……てか改めて見るとどれだけでっかいのよ……タコの焼いたのも好物だけどとても食べ切れないじゃないのよ……」
「静かにしろ」
慌てふためくイレッサそっちのけで、すぐに自分を取り戻したゼローダは、腰布から小さな骨製の呼子笛を取り出すと、ピリリリリと高らかに吹き鳴らした。
「皆よく聞け! たった今、伝説のゲンボイヤが蘇った! 全ての作業を中止して今すぐ高台に登れ! 一刻も早く!」
笛を吹き終えたゼローダは、代わりに筒状に丸めた左手を口元に当てると陸の方角に向けて喉も張り裂けんばかりの大音声で呼ばわった。そのあまりにも男らしい姿を目の前にして、この騒動の主犯格たる邪悪なハイ・イーブルエルフはキュンと胸をときめかせたが、その間にも状況は悪化しつつあった。
無数のフジツボや何かの卵などに覆われた身体の大部分を大気の下に曝け出した海魔は、体表面を滝のように流れ落ちる海水にも無頓着で、泰然自若としているかに見えた。だが、海面下をよくよく注視すると、一本百メートル近くはあると思われる長大な触手を四方八方に張り巡らせ、触手間の薄い皮膜を傘のように広げていった。
「な……何が始まるっていうのよ……触手で身体を弄ばれるのは、話を読むのは好きだけど、自分がされるのはさすがにちょっと勘弁してほしいわ……」
「とっとと黙ってそこら辺にしっかりつかまっていろ」
褐色の肌を更に土気色にしたイレッサに対し、ゼローダは手短かに指示すると、自分も言った通りに行動した。
刹那、大ダコの巨躯が消えた。




