ep.27 祠の風、裂け目の香り・後
風が、またひとつ揺れた。 さっきよりも、少しだけ軽やかに。 空気の層が、ふわりとほどける。
木香太郎が、祠の奥を見つめてつぶやいた。 「来る。もう、風が呼んでいる」
咲姫が鼻をひくひくと動かす。 「この香り、知ってる気がするのです……」 彼女は目を細め、風の奥をじっと見つめた。 「なんだか、懐かしいような……」
そのときだった。 誰かが、すぐ隣で笑った。
「やあやあ、咲姫。元気そうで何よりだ」
振り返ると、そこに“もういた”。 風の流れに溶け込むように、 羅天次郎が、軽やかに立っていた。
淡い灰色の耳と、しなやかな体つき。 しっぽは風に合わせて、くるりと弧を描いている。
「らて兄なのです!」 咲姫がぱっと駆け寄ると、羅天次郎はふわりと彼女の頭を撫でた。
「しっぽ、まだ重そうだな」 「でも、さっきよりは、ちょっとだけ揺れたのです!」
「そりゃよかった」 羅天次郎はにっこりと笑った。
「……団子の香りに釣られて来たんじゃないの?」 果林が、じろりと睨む。
「いやいや、風の乱れが気になってね」 そう言いながら、黄楠三郎が、 いつの間にか果林の隣に腰を下ろしていた。 手には、どこからか取り出した串団子。
「……また勝手に持ってきたのですか?」 咲姫が呆れたように言う。
「いや、これは風がくれたんだよ。たぶん」 黄楠三郎は、もぐもぐと団子をかじった。
「……それ、私の分だったんだけど」 果林が小さくため息をつく。
誰も気づかなかった。 ただ、紗夜がふと視線を上げたとき、 そこに、庵香四郎が立っていた。
彼は何も言わず、ただ札を見つめていた。 そのしっぽだけが、風の裂け目に触れるように、静かに揺れていた。
「……あんこ兄」 咲姫がそっとつぶやいた。
庵香四郎は、咲姫の声にゆっくりと目を向けた。 けれど、何も言わなかった。 その沈黙が、かえって深く響いた。
四兄弟が揃った。 風が、重なった。 音もなく、香りもなく、ただ確かに。
悠真は思わず息をのんだ。 「……風が、重なっていく」
「じゃあ、始めようか」 羅天次郎が、軽やかに手を広げた。
「風を整えるのですか?」 咲姫が目を輝かせる。
「そう。風はね、ただ吹いてるだけじゃない。 重なり、ほどけ、巡って、問いを運ぶ。 俺たちは、その流れを“整える”だけさ」
羅天次郎は、そっと目を閉じた。 すると、彼のしっぽがふわりと舞い上がる。 その動きに合わせて、空気がやわらかく波打った。
「まずは、風の通り道をつくる」 彼の声が、風に乗って広がっていく。
黄楠三郎が、団子を食べ終えた串をくるくると回しながら立ち上がった。 「じゃあ、次は俺の番かな」
彼は祠の前に歩み寄り、空気を嗅ぐように鼻をすんすんと動かす。 「うん、やっぱり混ざってるな。問いの香りと、いろんな記憶の層が」
黄楠三郎は、指先で空中をなぞるように動かす。 すると、風の中に淡い色の層が浮かび上がった。 それはまるで、香りの帯が重なっているようだった。
「香りの層を分ける。問いの芯を、浮かせるために」
彼のしっぽが、香りの帯をすくうように揺れた。 すると、ひとつの香りだけが、ふわりと際立った。
「……これだ。問いの残り香」
庵香四郎は、何も言わずに一歩前に出た。 彼の動きは、風の裂け目に触れるように静かだった。
彼は札の前にしゃがみこみ、指先で札の縁をなぞった。 その瞬間、札がかすかに震えた。
「裂け目に触れる」 木香太郎が、ぽつりとつぶやいた。 「問いの芯を引き出すのは、あんこにしかできない」
庵香四郎のしっぽが、札の上をすっとなぞる。 その動きに合わせて、札の表面に淡い紋が浮かび上がった。
それは、言葉になる前の、問いのかたち。
木香太郎が、最後に一歩前に出た。 「整え、完了だ」
彼が札に手をかざすと、風が一度だけ深く息を吐いたように揺れた。 そして、札が淡く光りはじめた。
「問いが……語りはじめた」 紗夜が、静かに言った。
札が淡く光りながら、かすかに震えていた。 その震えは、まるで何かを言いかけているようだった。
咲姫のしっぽが、ふわりと揺れた。 それは、風に乗って自然に舞う、いつものしっぽだった。
「……しっぽ、完全復活なのです!」 咲姫がくるくると回りながら、嬉しそうに言った。
「よかったな」 羅天次郎が笑う。
「団子の香りも、戻ってきたみたい」 果林が、懐から新しい串団子を取り出して鼻を近づける。
「うん、これは合格」 黄楠三郎がすかさず手を伸ばすが、果林にぴしゃりと叩かれた。
「さっき食べたでしょ」 「えー、整えたご褒美にもう一本くらい……」
「団子は風のご褒美じゃないのです」 咲姫が真顔で言い、みんながふっと笑った。
庵香四郎は、札の前に立ったまま動かない。 彼の目は、札の奥にある“まだ語られぬ問い”を見つめていた。
「問いは、まだ形になっていない」 木香太郎が、静かに言った。 「けれど、もうすぐ語りはじめる。 風が整えば、言葉は自然に浮かぶ」
紗夜が、札をそっと手に取った。 その手のひらに、札の温もりがじんわりと広がる。
「これは……“まだ言えなかった言葉”」 彼女の声は、風に溶けるように静かだった。
悠真は、札を見つめながら思った。 問いは、答えを求めているのではない。 ただ、語られるのを待っているだけなのかもしれない。
風が、やわらかく吹いた。 それは、問いの重さを包み込むような、優しい風だった。
「整えは、まだ始まったばかりだ」 木香太郎が、空を見上げながらつぶやいた。
「じゃあ、これからも……?」 咲姫が、しっぽを揺らしながら見上げる。
「そうだ。風は、まだ語り足りないらしい」 羅天次郎が、にやりと笑った。
「団子も、まだ足りないしね」 黄楠三郎が、どこからか新しい串を取り出す。
「……それ、どこから出したの?」 果林が呆れたように聞くと、黄楠三郎は肩をすくめた。
「風の懐、ってやつさ」
庵香四郎は、そっと札を祠に戻した。 その動作は、まるで問いをそっと寝かせるように、やさしかった。
問いは、まだ終わっていない。 けれど、ようやく――語りはじめた。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。 ご感想やリアクションのひとつひとつが、 物語の奥にある問いを照らす光となります。 ゆるやかな歩みではございますが、これからも見守っていただけましたら幸いです。




