ep.26 祠の風、裂け目の香り・前
札場の空気が、変わった。
祠の前に立った瞬間、風が止まった。 空気が、ぴたりと張りつめる。 札の気配はあるのに、問いの音が聞こえない。 まるで、風そのものが祠を避けているようだった。
紗夜が札を見つめながら、静かに言った。 「……風が、通らない」
咲姫のしっぽが、ふわりとも揺れない。 「風が重いのです…しっぽが、動かないのです…」
果林は団子の串を見つめたまま、 「団子の香りも、ここでは届かないね」とつぶやいた。
そのときだった。
風が、一筋だけ、祠の奥から吹き抜けた。 まるで誰かが、無理やり道をこじ開けたように。 その風には、かすかに焦げた木の皮のような香りが混じっていた。
咲姫が、はっと顔を上げる。 「この香り……なんだか、懐かしいのです」
「しっぽの揺れ方、見たことある気がするんだ」 悠真が、ぽつりとつぶやいた。
「通ったんじゃない。通しただけだ」
背後から、低く乾いた声が落ちてきた。 振り返ると、そこに“もういた”。
札場の空気が、変わった。
祠の前に立った瞬間、風が止まった。 空気が、ぴたりと張りつめる。 札の気配はあるのに、問いの音が聞こえない。 まるで、風そのものが祠を避けているようだった。
紗夜が札を見つめながら、静かに言った。 「……風が、通らない」
咲姫のしっぽが、ふわりとも揺れない。 「風が重いのです…しっぽが、動かないのです…」
果林は団子の串を見つめたまま、 「団子の香りも、ここでは届かないね」とつぶやいた。
そのときだった。
風が、一筋だけ、祠の奥から吹き抜けた。 まるで誰かが、無理やり道をこじ開けたように。 その風には、かすかに焦げた木の皮のような香りが混じっていた。
咲姫が、はっと顔を上げる。 「この香り……なんだか、懐かしいのです」
「しっぽの揺れ方、見たことある気がするんだ」 悠真が、ぽつりとつぶやいた。
「通ったんじゃない。通しただけだ」
背後から、低く乾いた声が落ちてきた。 振り返ると、そこに“もういた”。
猫耳の影。 風に逆らって、しっぽがゆっくりと揺れている。 その揺れ方は、どこかで見たことがある気がした。
「……もか兄なのですか!?」 咲姫がぱっと顔を上げて、声を弾ませる。
「咲姫、しっぽが揺れてないぞ」 その声は、どこか懐かしく、けれど静かだった。
木香太郎は、ゆっくりと祠の前に歩み寄った。 その足取りは、まるで風の流れをなぞるように静かで、 誰もが思わず息をひそめた。
彼は、祠の前に置かれた札に手を伸ばす。 指先が触れた瞬間、空気がわずかに震えた。 木香太郎は目を閉じ、札をそっと鼻先に近づける。
「……やっぱり、香りがある」
「香り?」 悠真が思わず聞き返す。
「問いには、香りがあるんだ」 木香太郎は、まるで独り言のように続けた。 「この札は、誰かの記憶を吸っている。 でも、その記憶はまだ言葉になっていない。 ただ、残り香だけが漂っている」
「それって……どういうことですか?」 紗夜が一歩、彼に近づいた。
「問いは、まだ形になっていない。 けれど、誰かがここに“忘れたくない何か”を置いていった。 風はそれを感じ取って、札にした。 でも、問いの主がまだ、言葉にできていないんだ」
咲姫がそっと札に近づき、鼻をひくひくと動かす。 「……お団子の香りでは、ないのです」 「当たり前だろ」果林が小さく笑った。
木香太郎は、札の裏を指でなぞった。 その指先が触れるたびに、札の表面に淡い紋が浮かんでは消える。
「風が裂けていたんですね」 紗夜がぽつりとつぶやいた。
木香太郎は、ゆっくりとうなずいた。 「裂け目から、香りが漏れていた。 それで、俺が気づいた。 この札は、整えを待っている」
「整え……」 悠真がその言葉を繰り返す。
「風を整える。問いを浮かび上がらせるために」 木香太郎は札をそっと戻し、祠の前にしゃがみこんだ。 「整えれば、風は語りはじめる。問いも、答えも」
咲姫が、木香太郎の隣にちょこんと座った。 しっぽはまだ、ぴくりとも動かない。 彼女は自分のしっぽを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「風が重いと、しっぽも重くなるのです。 でも、整えれば、またふわふわできるのですか?」
木香太郎は、しばらく黙っていた。 その沈黙すら、風の一部のように感じられた。
「風は、無理に動かすものじゃない」 彼はようやく口を開いた。 「けれど、香りを辿れば、風は自ずと流れを取り戻す」
咲姫は目を丸くして、札を見つめた。 「香りを……探すのですか?」
「そうだ。問いの香りは、風の中に隠れている。 それを見つければ、風は整う。問いも、浮かび上がる」
果林が腕を組んで、札をじっと見つめた。 「でも、それって……影札依ってやつじゃないの?」
木香太郎は、わずかに首を振った。 「近いが、違う。これはまだ、札帳の中にある。 問いの主が、まだ“手放していない”からだ」
「じゃあ……」 悠真が言いかけたとき、ふいに風が動いた。
ほんのわずかに。 けれど、確かに。
咲姫のしっぽが、ふわりと揺れた。
「……今、揺れたのです」 咲姫が目を輝かせる。
「風が、整いはじめています」 紗夜の声も、どこか柔らかくなっていた。
木香太郎は立ち上がり、祠を見上げた。 「整えには、もう少し力が要る。 俺ひとりでは、まだ足りない」
その言葉に、咲姫がぱっと顔を上げた。 「じゃあ、あの……あの香りの子たちも来るのですか?」
木香太郎は、風の奥を見つめたまま、静かにうなずいた。 「来る。もう、風が呼んでいる」
風の裂け目に、もうひとつの気配が差し込んだ。 それは、柔らかく、軽やかで―― まるで、風そのものが笑っているようだった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。 ご感想やリアクションのひとつひとつが、 物語の奥にある問いを照らす光となります。 ゆるやかな歩みではございますが、これからも見守っていただけましたら幸いです。




