後進に譲るなら今でしょ
「そうかい、徳内が地図を作り上げたか」
「まだ松前の周囲など、ごく限られた地域のみですが」
「それでいいんだよ。何事も元となるものが生まれないと始まらねえものさ」
江戸城で蝦夷地のことを打ち合わせた翌日、源内さんが屋敷を訪ねてきた。
昨日城から戻ってきたのは日も暮れた頃であった。蝦夷地、即ちこれから北海道と呼ぶ地のことに関する打ち合わせは昼過ぎに終わったが、その後勘定方から色々と相談事を持ち込まれたりしたもので、思っていた以上に遅くなったんだ。
そんなところへ源内さんが訪ねてきたらしく、応対した家臣が帰りが遅くなることを伝えると、それを分かっていたかのように翌日に出直すと告げて帰っていったとか。
「旦那が城に召されたと聞いて、おそらく蝦夷地のことだろうとは思ったが、想定以上に事が進んだみたいで何より」
「源内さんにも知恵を借りてばかりで」
「いやいや、オイラはもう一線を退いた身。知恵を貸したとはいえ、それは平蔵さんや徳内の功績よ」
「太田殿に黄表紙を書かせたのも、ご自身が一線を退いた身であるからですか?」
俺と佐野の諍いを描いた勧善懲悪物の黄表紙。太田殿は執筆を一任されたものの、さてどうやって話を作るかと頭を悩ませていたらしい。そこで源内さんが先輩作家として色々とアドバイスをしたようだが、であれば最初から源内さんが書いてもよかったのではと思う。江戸に腰を落ち着けるのなら尚更だ。
「オイラが表に出るのを遠慮している。というのもあるが、理由はこれだ」
「これは……和蘭局方」
「ああ、淳庵の置き土産だ」
共に解体新書の翻訳に従事した中川淳庵殿は、昨年五十を手前にしてこの世を去られた。その死因は膈症。むせこんで胸がつかえ、食事がのどを通らなくなり、やがて死に至る病である。その正体はおそらく未来でいうところの胃がんか食道がんであると思われる。
おそらくというのは、この時代にはX線もCTもエコーも存在しないので、体内にある腫瘍を実際に確認できないから。症状とオランダの医学書などにある記述を照らし合わせ、そうだろうと推察するしかないのだ。ただ、前野さんや杉田さんも同じ見解であったので、十中八九そうであろう。
今でこそ蘭学を志す若者が増え、その裾野は確実に広がっているが、教える側の立場となれる者はまだ多くない。語学力なら前野さん、医学知識なら杉田さんを頂点とすれば、その次にくるのは同じく解体新書の翻訳に従事した典医の桂川甫周殿や俺の弟子の大槻茂質あたり。その彼らに比肩する蘭学知識を併せ持つ中川さんの死は非常に惜しまれるところであった。
「我らも手は尽くしましたが」
とはいえ出来ることは、薬を処方して痛みを和らげるとか症状を落ち着かせることくらい。延命のための悪あがきくらいにしかならなかった。この国で最高峰の蘭医が何人も雁首揃えても、その程度しか出来なかったのだ。
「あいつも蘭医だ。自分の病がそれであったことは感づいていただろう。そして、それを治す術がまだ無いことも。だからこそ、命のあるうちに多くを残そうとしたんじゃねえかな。この書物もその一つだ」
中川さんが著していた和蘭局方とは、Apotheek(日本語で薬局を意味する)という蘭書の和訳文で、医薬品に関する品質規格書、すなわち薬局方が記された書物である。日本のどこにあっても同じレベルの医療を提供するのであれば、同じ名前の薬でも効能に差があったり、処方するにも医者の勘や経験を拠り所とするのは都合が悪い。後の世の日本にも"日本薬局方"という規格基準書が設けられているとおり、これは医学の安定的な発展に欠かすことのできないものである。
「源内さん、オランダ語読めましたっけ?」
「意地の悪いことを言うね。そのあたりは三旗堂にいる旦那のお弟子さんたちにでも頼むさ。肝心なのはそれをこの国の者にいかに分かりやすく紹介するかだ。忘れているかもしれねが、オイラの名が売れ始めたのは本草学者としてだぜ」
たしかに源内さんは本草学が学者人生のスタートであった。その後儒学や漢学も学んだが、それも漢籍の本草学書を読むためだと聞いているし、江戸で名が知れるようになったのも、薬種・物産を展示する物産会というものを主催したからだ。薬の基準を作るにあたり、適任といえば適任か。
「淳庵とは長い付き合いだった。その遺志を誰かが継いでやらなきゃなんねえなら、それはオイラの仕事だ」
二人の交流は物産会の開催により源内さんの名が江戸で知れ渡ったころまで遡るので、ざっと二、三十年にはなろうか。火浣布も源内さんの作と言われているが、実は中川さんも製作に協力しており、以降も親しい付き合いであった。そして中川さんや杉田さんとの交友があればこそ、解体新書の絵図制作に秋田藩の小田野武助殿を紹介してもらえたわけだ。
「放っておいても、いずれどこかの蘭学者が訳すことであろうよ。だからこそ、オイラが手掛けるには何時やるか、今しかねえでやんしょ」
「つまり源内さんは亡き友の仕事を引き継ぐため、表に出ることを控えるようになったということですな」
「ちゃんと後釜は用意したつもりだぜ」
源内さんの言う通り、それぞれの分野で後進はちゃんと育っている。何の準備もなく放り出してしまえば無責任でしかないからね。
実際に源内さんから教えを授かるべく預けた俺の弟子のうち、高宮徳内は蝦夷地の地図作製で功を上げたし、長丸や三之丞は吾妻郡の産業育成で成果を出しつつある。源内さんが直接手を下さずとも、動く仕組みは出来始めているのだ。
「となると、太田殿も後釜……?」
「直次郎かい。あいつは後釜というより、その才能を埋もれさせたままでは惜しいと思ったまでよ」
「才能ですか。狂歌師として名を馳せておるようですが」
「違う、武士としてさ。あいつも一応御公儀の禄を食む御家人だからな」
源内さんが言う太田殿の才とは、まさに役人としてのそれを指すらしい。
太田家は小普請組に属する下級武士。言い換えると無役の貧乏御家人である。役に就いていないから収入も少なく生活も苦しいから、副業に手を出す者も多い。時代劇で傘張りとか寺子屋の先生などをして収入を得ていた武士なんてのが出てきたが、あれがその内職だ。太田殿の場合、それが狂歌師であったのかもしれないが、これが却って役職に推挙されにくい理由なのではというのが世間一般の見立ててある。
頭の固い人間から見れば、「武士にあるまじき」といった印象があるのかもしれないし、狂歌は風刺が内容の主であることが多く、毒舌とか洒落っ気みたいな才能を要するから、それは裏を返すと、上に阿るといった処世術を兼ねていないと扱いにくい人間と見られてしまいがちになる。太田殿がこれまでお役に就いていないところを見ると、おそらくそういうものとは無縁の御方なのかもしれない。
しかし文章、それも人から良いと評されるものを書けるということは、学才はあるということだ。平蔵さんだって元は不良旗本なんて揶揄もされたが、民心を掴む技量に長けていることを認められたからこそ、今の地位にある。なれば太田殿も才を示すことが出来れば、同じようにお役を与えられる機会だってあるはず。それが今回の黄表紙製作であると言える。
それこそ老中松平越中守様直々の依頼だ。これが上手くいけばその覚えめでたく、後々役職にありつくきっかけにはなろう。故郷高松藩を脱藩し、奉公構(旧主の赦しがない限り、他家も含めた仕官ができないこと)となった源内さんとは違い、出世の見込みがある太田殿の将来を見込んで推挙したのだと言う。
「気づけばオイラも暦が生まれた年に還っちまった。簡単にくたばる気は更々無いが、かと言ってこれから五十年後も生きれるかってえとそうもいくめえ。己が成したものを後進に残していくってのは、生きているうちに伝えなきゃならねえ。死んでからじゃ正しく伝わねえかもしれないからな。だから若い奴らには今のうちに経験を積んでもらいたいのさ。オイラの目が黒いうちにな」
文献をもって技術を継承していくことも不可能ではないが、やはり経験者の意見や指摘に勝るものはない。源内さんが全部自分で動いてしまい、次の世代の者がやりようを全く知らないとなっては困るだろうというところか。
「以前の源内さんなら、自分が前に出ないと気が済まなかったんじゃないですか」
「そうかもしれねえ。だけどこれから先の時代を作っていくのは、オイラや田沼のじいさんみたいな年寄りじゃねえ」
前世の歴史であれば、源内さんはおそらく既に故人となっていたはずだ。それこそ以前は闇落ちしかけていたものだが、あそこから立ち直ったのは、やはり俺が関与したからなのだろうか。
「還暦過ぎてようやくその境地に至ったが、未来は若い連中が担わなきゃならねえものだと気づいた。年寄りはそれを見守り、意見を求められればそれに応えるだけで余計な手出しはしなくてもいいのさ。もっとも、藤枝治部少輔がいれば心配は無えと思うが」
「それはさすがに買い被りでしょう」
「いや、以前旦那が仰っていた未来とやらは、旦那にしか分からねえんだ」
「そういえばそんな与太話もしましたな」
「与太話か……オイラはあのときからずっと、本当の話だと思っているが」
「え?」
「で、この国は旦那が知る未来から変われそうかい?」
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