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旗本改革男  作者: 公社
〈第九章〉

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208/215

【他者視点】俺の名を言ってみろ(長谷川平蔵)

とりあえず退院出来ました。

まだ服薬は続いておりますが、ぼちぼち再開します。

 しばらくぶりに江戸に戻ってみれば、何だか殺伐とした空気が流れてやがる。


 その理由は米が足りないこと。いや、米が足りねえのは何年も前から続いていたのに、ようやく米が出回り始めた今になって騒ぎが始まるんだから皮肉なもんだ。


 しかもその原因はくだらねえ噂話が発端。治部のやりようは新しくもあり、そのおかげでこれまで無聊をかこっていた人材が才を発揮する契機にもなったが、反面これを面白くないと感じる者が現れ、排除する動きが出てきたのも想定の内だ。


 ……にしたって、あまりにも直情過ぎるよな。しかもそれを発端として、ありとあらゆる風説が流れに流れ始めた。かく言う俺も長いこと蝦夷地にいたから詳しいところは知らねえが、何かあるとしか思えないし、町人にしてみれば何が本当なのか尚更分からねえって次第だろう。


 とはいえ、目の前で米屋が打ち壊しに遭おうとしているのは事実。連中が怒りの矛先として()()()()()()()()()()()を目的としているのか、はたまた溜め込んでいた米や財貨を奪い取るところまで考えているのか。どちらにせよ野暮の極みだ。


 "いき"ってのは"意気地いきじ"、言い換えると痩せ我慢と見栄の張り合いだ。喧嘩なんざ日常茶飯事のことだが、それは個人の見栄や意地の問題であって、町ぐるみで騒動となれば江戸という町全体の品格を問われ、幕閣の責任問題にもなりかねねえ。


 しかもだ、治部のところのお転……今は奥方となった種殿が向こう見ずにもやり合ってるとくりゃあ、大見得切って助けに入らざるを得なかったものの、相手の数が多すぎるぜ。そりゃそうだろ、こっちは俺の配下と藤枝の家中合わせて十人ちょっとしかいねえんだから、かかってこいとは言ったものの、本気で喧嘩になったら多勢に無勢ってもんよ。そうなると連中を無駄に刺激せず、向こうが怯んだ今のうちにどうやって落としどころを見つけるかだな。


「ここは一旦この長谷川平蔵が預かる。おめえらの悪いようにはしねえから、奉行所の連中が出張って来る前に退いてくれねえか」

「そうは言っても、どこのどなたかも分かんねえお武家様に急にそんなことを言われてもよ」

「んだんだ」


 自惚れてたかな……いや、そもそも若気の至りで決して褒められるものじゃあないが、江戸の連中だったら長谷川平蔵の名を聞きゃあ少しはピンとくると思ったんだがな。


「長谷川様……」

「親方、なんでえ」

「おそらくなんでございやすが、ここ数年江戸に流れ込んできた連中だと、長谷川様の二つ名は知らねえのかもしれねえ」

「そうきたか……」

「しかもだ、えれえ出世なさって、当時の面影はほとんど無えですから、昔を知ってる連中も気づかねえかも……」


 新三郎親方にそう言われ、はたと思い出した。


 俺が江戸を留守にしがちだったここ数年、飢饉に苦しむ百姓たちが土地を捨てて江戸やらあちこちの城下町に流れ込んでいるという話は聞いた。


 とすれば、ここにいる多くの者もそういう類いなのか。江戸ならば食うには困らないと思い来てみたが、まともな職にありつくのも難しい上に物の値段はうなぎ上り、思ったような楽な暮らしなどそこには無く、いつしか風説に踊らされたということか。たしかに話し言葉を聞いてみれば、僅かに田舎訛りがあるようだしな。


 さらに言えば、今の俺はまともな武士の格好だから、昔のような着流し姿しか知らねえ町の連中にも気付かれていない。そう言われればそうだが、全員が全員分からねえわけでもあるめえ。そう思って見知った顔がいねえか辺りを見回してみると、以前に()()()()()()()()()顔がチラホラと見受けられた。


「おい、そこのお前、お前だよお前。人影に隠れて気づかなかったが、お前なら俺のこと覚えてんだろ」

「いや……あっしはお武家様のような偉え方に知り合いは……」

「何言ってやんでえ。昔吉原で酒奢ったり喧嘩の仲裁してやったのを忘れたか。大恩人の顔を見忘れたたあつれねえな」

「え、吉原……? あっ!!!」

「おう、思い出したか。なら……俺の名を言ってみろ」

「まさかとは思いますが……銕三郎さん……で」

「おうそうだよ。本所の銕こと長谷川平蔵宣以たあ俺のことよ」


 そのとき、群衆にざわめきが走った。口々に本所の銕って……という声と共に、俺のことをよーく知ってる連中は《《色々と》》思い出したのか、次第に顔が青くなってやがる。


「な……急にどうした」

「お前、あの方を知らねえのか。散々江戸っ子だなんだと言ってやがったが、さては手前てめえ江戸の生まれじゃねえな」

「何を言いやがる! 俺は正真正銘の……」

「嘘つけ! 本当の江戸もんなら、本所の銕を知らねえわけがねえだろうが!」


 あたふたしているのは間違いなく水道の水で産湯を使った連中だろう。そして事情を知らねえ他所からの流れ者と思しき者たちに耳打ちで何かを話し出すと、そいつらも顔が曇りだした。

 

 俺が出世し始めた頃、昔の素行をあげつらってなんやかんやと言っていた連中が多かったとき、治部が「悪名は無名に勝る」なんて言っていたな。何も成さず名を知られぬより、悪い話でも人に名を知られたほうが時に役立つこともあると。素直に喜んでいいのかどうか分からねえが、正に今がそれかもしれねえ。


「お前らには馴染みがないだろうが、俺は御老中松平越中守様直属の蝦夷目付というお役に就いておる。逆に言やあ、越中守様に直接言上仕ることも出来る、言わば御老中の懐刀みてえなお役だ。このことは然とお伝えし、お前らの暮らしに心配りしていただけるようお願いする。だから騒ぎがこれ以上大きくなる前に今日のところは退け。奉行所の連中が来てからじゃあ、さすがの俺も庇いきれねえぞ」

「え? あの銕三郎さんが越中守様の?」

「そうだよ。何か文句あるか?」

「い、いえいえ。銕……いや長谷川様がそう仰るならば、今日のところはそれを信じて引き上げやす」


 そんなやりとりがあった後、過去の俺のことを知ってる連中が中心になって、周囲の者たちに矛を収めるよう説き始め、中には納得出来ねえと強情を張る奴もいたが、そういうのは周りの連中に首根っこ引きずっていかれ、それを見ていた者たちも三々五々引き上げていった。


 まあ、なんとか場は収められたかな。




「ありがとうごさいました。何とお礼を申し上げてよいやら」


 問屋を打ち壊せと意気軒昂だった連中が引き上げて、先程までの喧騒が嘘のように静かになると、米屋の主が揉み手で俺たちに声をかけてきた。


「災難でございましたわね」

「ええ、まったくもって迷惑な話ですよ。米が無いってのは本当の話なのに」

「飢饉が長く続いていますからね」

「それもございますが、お上のやりようもあんまりでございます」


 種殿が労うようにやさしく声をかけると、いい迷惑だったとばかりに米屋が軽口を叩き出した。たしかに飢饉で米が足りねえのは事実なんだが、こちらが同情しているように思ったのか、主は調子に乗ったようにさらに口が軽くなり、お上への愚痴を言い出したところで、俺はどうにも嫌な予感がした。


「江戸の米が足りないのは、勘定所の重役である藤枝様という御方のお指図だとか」


 あーあ、責任転嫁しやがった。よりにもよって、ここで一番名前を言ってはいけない人物の名を出しやがったぞ。


「それはどういうことでしょうか?」


 ……種殿は至って平静を装って聞いているが、目は笑ってねえし、なんならこめかみのあたりが引き攣っていらっしゃる。


 米屋の主は相手がどういう心境かなど知る由もないといった感じで、米の仕入量を規制したのはお上であり、自分たちは売るものを限られて値を上げざるを得なかったこと。そしてそれが原因でお上と米屋が結託しているなどと風説を流され酷く困っているなどと、いかにも迷惑そうに語った。


「上方より米が江戸に入り、これまでより手に入りやすくなったはずですが?」

「お嬢さん、商いってのはそう簡単なものではありません。私らにも暮らしがございますから、今まで儲けが出なかった分を稼がなきゃなりません。今の値でも欲しいと仰るお客様は大勢いらっしゃるのですよ」

「店を壊されそうになったのに? 誰が買っていると?」

「いや、まあ……それは買えないという者もおりましょうが……」

「ご主人、売る米が無いというのは本当かしら? もしかして売り惜しみなさっているのではありませんか」

「なっ……助けてもらっておいてなんですが、何を証拠にそんなことを言うんですか!」


 主の焦り方を見るに、おそらくは高値で売らんがために、蔵にはまだまだ米が残っているようだ。お上の命では、此度入ってきた米は出来る限り安値で町人たちに行き渡らせるようにと触れが出ていたはず。とすれば、明らかに不正を働いているということになるが。


「長谷川様、町奉行に蔵を改めてもらうよう申し伝えた方がよろしいかと」

「そりゃ一向に構いませんが、日を改めると隠されるかもしれん。ようやっと町方の連中がお出ましのようだから、そっちに言ったほうが早いな」


 種殿と米屋が押し問答をしているうちに、町方、つまり町奉行所の与力同心が騒ぎを聞きつけて駆けつけたようだ。


 ……遅えわ。


「北町奉行所の者である。騒ぎがあったと聞いて参ったが」

「騒ぎならとっくの昔に俺たちが収めたってえの」

「……貴殿は?」

「蝦夷目付、長谷川平蔵である」


 与力や同心は御家人。対してこっちは旗本でしかも公儀の要職に就いている者。名を聞いた以上、偉そうな態度が取れるはずもなく、途端に丁重な姿勢になった。


「今になってご登場とは、随分とお役熱心なことだな」

「そのような物言いは、さすがに聞き捨てなりませんぞ」

「事実であろう。奉行所からここまで一里と離れちゃいねえ。知らせを聞いてから駈けつけりゃ、四半時《30分》とかからねえだろうが」


 周りをよく見渡してみろと言えば、先程まで大挙して押し寄せていた町の者たちは皆帰った後。騒ぎのすぐ後なんで、人通りはいつもより少ないだろうが、いたって平時と変わらん。そうなるまでにはかなりの時間が経っている。にもかかわらず今の今まで町方が来ていないというのは、怠慢としか言えねえだろ。


 もしかすると、集まった町人たちの数を聞いて怖気づき、ようやっと騒ぎが落ち着いたと聞いて、素知らぬ顔で姿を見せたというところか。相手が米屋だけなら遅いと抗議されてもなんとでも返せるが、俺がいたってのは想定外だったろう。少ない頭数で江戸の隅から隅まで見回る仕事は楽じゃねえとは思うが、皮肉の一つくらいは言わせてもらわんとな。


「丁度いいや。騒ぎは収まったからお主たちには違う仕事をしてもらいてえ」

「違う仕事とは」

「この蔵前の界隈にある米屋が、公儀の命に背いて不当な高値で米を売っているだけでなく、未だに蔵に多くの米を隠し持っている疑いがある。早急に改めをされたい」

「改めと申されても、既に何度か奉行所の者が見て回っておるはずですが」

「そ、そうですよ。つい先日も南町のお役人様がいらしておりまして……」


 俺が町方に蔵を改めるよう伝えると、米屋の主が血相を変えながら先日南町奉行所の役人による改めがあったばかりだとまくし立てるものだから、それを聞いた与力たちの反応は鈍い。


 北町と南町の両奉行所は月ごとに交代で同じ仕事を担う立場。だから互いに互いを補い合う関係でもあるが、ちょっと前に南町が改めをして問題ないと言っているところへ北町の者が再び改めに入ったとなれば、南町の連中にしてみれば、自分たちの調べに不備の疑いがかけられているように思われ、どういう了見だとへそを曲げるのが目に見えているからな。


「お主たちの言いたいことは分かるが、それはそれ、これはこれだ。ここで改めを受けて疑いが晴れれば、米屋も大手を振って商売が出来るというものであると存ずるが?」

「しかし、我らの一存で急に改めを行うわけには。御奉行様にお伺いを立ててからでないと」


 与力や同心は表向き世襲ではなく、代替わりの際には新規の召抱えとなっているが、町の風紀を取り締まり、罪人を捕らえるという仕事は経験がものを言い、職務に精通している事が重要。よって多くは幼いころから親の仕事を間近で見てきた、与力同心の子がその職に就いており、事実上の世襲。つまり代々奉行所に勤める家柄であると言える。


 そして旗本が就く町奉行に対し、御家人という立場ではあるものの、彼らも徳川直参の家臣であって、奉行と与力同心に直接の主従関係はない。さらに言うと町奉行は早ければ数年で違う役に転任することもあり、奉行所内ではむしろ余所者扱いで、与力たちの発言力のほうが強いことが多い。そういった事情もあって、与力同心は奉行を上役として尊重はするが、絶対の忠義を誓うほどではない。


 だからここで急に改めを始めたところで、必要なことだったと言えば奉行から咎めを受けることもないはずだが、そこで敢えて奉行に裁可を仰ぐなどと言い出したのは、面倒ごとを避けたいか、考えたくはないが手心を加えて問屋連中から見返りを受けている同輩がいるのを知っているかで、踏み込んだ現場を俺たちに見られたくないが故の逃げ口上であろう。


「長谷川様、北町奉行は曲淵甲斐守殿、南町は山村信濃守殿で合っておりましたかしら」

「左様でございますが」

「されば甲斐守と信濃守の両名には、兄より話をつけるよう手配りいたします。遠慮なく米屋のお改めをするよう申し伝えてくださいませ」

「な、な、な……娘! 御奉行様の名を軽々しく申すとは何事か!」


 一連の話に全く入ってこなかった種殿が、ここにきて急に口を開いた。


 いや、俺はそれが何を意味しているか分かるからいいけど、突然そんなことを言い出したら町方が驚くに決まっているでしょうに……


「町人の分際で無礼であろうが!」

「まあ待て。そうはやるんじゃないよ」

「長谷川殿、何故なにゆえこの小娘を庇い立てなさるか!」


 今にも奉行所にしょっ引いていくくらいの勢いでいる同心を制してはみたものの、種殿が町娘の格好であるからか、彼らが退く気配は無い。


 俺がその町娘にどういう態度で接していたか、そして捕らえようとするのをどうして制したのか。目端の利く者なら、その辺を鑑みて頭を働かせれば気付きにつながりそうなものだが、どうやらこいつらにその器量は無さそうだな。


「だから、この方はお前らの御奉行様を甲斐守と呼んでも差し支えないくらいの御方だってことだよ!」

「何を訳の分からないことを……おい娘! そう言うのなら名を名乗らんか!」

「お前ら、止めんか」

「長谷川様、皆さまがそう仰せのようですので、よろしいのでは?」


 そう言いながら種殿がこちらに目を向けてきたが、止めても聞かねえんじゃ俺がこれ以上義理立てする筋も無いので、軽く首肯して差し上げた。


「では改めまして。私の名は種、上州中之条藩主の妻を務めておりますわ」

「中之条藩主……」

「ええ、先ほどからそちらの米屋の主殿が悪し様に申しておった藤枝治部少輔は私の夫にございますが何か?」


 その瞬間、俺は蝦夷地に舞い戻ったんじゃないかと思うような寒気を覚えたよ。


 顔は笑っている。笑ってはいるが、纏う気が尋常じゃねえ。言うなれば相手をあの世へと導く必殺の気、名うての剣豪か何かと見紛うほどのものだ。


 ……治部、何と言うか、お前、頑張ってるな。俺じゃあ耐え切れずに押し潰されそうだよ。


 そしてそれは俺だけではなく、気を真正面から受け止めた奉行所の者たちも同じようで、一様に顔を青くしてやがる。


「私の兄の名をご存じの方はいらっしゃるかしら?」


 とはいえ、顔が青いのはそれだけが理由ではない。町方は世情に明るい者たちであるから、種殿がどういう素性の人間か知らねえわけがないし、その方が言う兄ってのが誰かも分かるだろう。然れども、そう言われて身分違いの御家人がおいそれと名は出せまい。


 それが松平越中守様(下の兄)か、田安中納言様(上の兄)かは分からねえが、どちらにせよ町方や御奉行様には地獄の閻魔様よろしくってところだもんな。

他者視点は今回でいったん終了。次回からは治部中心の平常運転に戻ります。

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