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旗本改革男  作者: 公社
〈第九章〉

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【他者視点】奥方様の怒りどころ(お夏)

お夏……甲賀の里生まれの娘。幼馴染の大原外記(又三郎)が中之条藩士に取り立てられたのを機に里から呼び寄せられ、護身術や情報収集の術を見込まれて種の侍女となる。今回数少ない藩邸からの同行者。

(こいつ誰? とお忘れの方もいるかもなので補足)

 下の者が評するなど畏れ多いことですが、奥方様を一言で現すならば……


『素晴らしい奥方様』


 としか言えません。


 別にお世辞を言ってご機嫌取りするつもりではありません。私だけでなく、藩邸で勤める女中は誰もが口を揃えてそう申します。家臣たちの声をよく聞き、分け隔てなく接してくださる稀有なお方です。無論失態があれば叱責されることもございますが、奥方様はそれで終わらせず、必ず挽回の機会を与えてくださるのです。


 他者の顔色を窺う気弱な性分だからというわけでも、高貴な身分によくある驕り高ぶりにも似た余裕からくるものでもなく、これは何をおいても幼い頃より殿がお側に居り、そのお考えに薫陶を受けたからだと思われます。


 私と夫の大原外記がお仕えする藤枝治部少輔様は、国造りの根幹は人にあるというお考えの方。人の集まりをまとめ上げるために君臣の別は必要だが、だからといって下の者たちを蔑ろにするのはまた別の話と、家臣たちの進言に耳を傾けてくださいます。


 もちろんそれは国のため民のために有為な話であることが前提ですし、提案があやふやな思いつきであればもっとよく練ってこいと突き返されますので、具申する側もそれなりに大変ではありますが、己の意見が藩政に生かされる機会を与えられるとあって、多くの家臣が意欲に燃えて働いております。


 そして奥方様もそのお考えに従って奥向きを差配し、女中たちもこれを受け入れております。新しき藩ゆえ新規の召し抱えも多く、雇い入れる際にその点は厳しく申し渡されておりますれば、否やと申す者はおりません。


 そんなわけで皆が奥方様を崇敬しておりますが、ただ一点難があるとすれば、殿のこととなると人が変わってしまうところでしょう。




 どうして斯様なことを思い返したかというと、事の起こりは蔵前の米問屋に町人たちが押し寄せてひと悶着起こっていると耳に入ってのことです。


 殿に対する流言飛語と、それに伴う風説が騒動に至った理由の一つと考えた奥方様が、騒ぎを鎮めるためにすぐに参りましょうと仰ったことに端を発します。


 当然家中の者は止めますし、新三郎親方もそいつは危ねえと言ってくださりました。しかし、あの目で行きますわよと言われると、誰もが何も言えなくなるのですよね。


 その黒い瞳は深淵の闇をも想起させ、気を抜けばたちまち吸い込まれていきそうな感覚に陥るあれは一体なんなのでしょう? もっとも普段そういったことは一切なく、あるのは殿に関する何かがあったときだけですが。


 とはいえそうなっては止める術も無く、屋敷から同行した女中を上屋敷と中屋敷に一人ずつ、子細を知らせに行くと共に万が一のときに備えての援軍を呼びに遣わしてから急ぎ浅草に向かうと、次第に不穏な空気が漂いだし、米問屋が立ち並ぶ一帯に入ると、そこでは町人たちと店の者の間で押し問答が繰り広げられておりました。


「米を買い占めたうえに売り惜しみやがって! 俺たちの苦しみを思い知れ!」

「おう! 壊せ壊せ!」

「何故私たちがこんな目に遭わねばならんのだ!」

「寝言を抜かすんじゃねえ! 役人と結託して暴利を貪っているくせに」


 米問屋の前で群れを成して喚き散らす町人たち。今のところおたなの人間がなんとか宥めようとしておりますが、きっかけ一つでいつ暴れだしてもおかしくありません。それはまるで、なみなみと注がれた盃を揺らせば、たちまち酒が溢れだすかの如く危うい状況。


「待て待て待て。おめえら早まるんじゃねえ」

「誰だ手前テメエは」

「火消に組の新三郎だ。なんでえなんでえ、真っ昼間から雁首がんくび揃えて何の騒ぎだ」


 そんな中へ新三郎親方が仲裁に割って入りました。殺伐とした空気で、奉行所の同心でも尻込みしそうなところへ割って入るその度胸は、さすが普段から火事場で命のやり取りをしている方なのだと感じ入ります。


「見ての通りよ。米を買い漁ってたんまりと溜め込んで、俺達には高値で売りつけてる悪徳米屋を懲らしめてやるんだよ」

「何度言ったら分かるんだい。買い漁ろうにも江戸に米が入ってこないんだから溜め込みようもないじゃないか」

「なら今になってどうして値が下がり始めたんでい」

「どうせそう言えば誤魔化せると思って役人と結託してたんだろうが」


 どうやら町人たちは例の噂を信じ、ふてえ(図々しい)野郎だと抗議に集まり、場合によっては乱暴狼藉に至るつもりだったのでしょう。米屋が何度も違うと言うものの、聞く耳持たずといった具合です。


「お前ら何を見当違いなこと言ってやがる。米なんざ江戸はおろか、この日の本のどこに行ったって足りてねえわ」

「足りてねえったって、全く無えわけじゃあるめえ。それを江戸に回してくれって話だよ」

「そうだそうだ! 食う物にも困る連中が大勢居るってえのに、訳のわからねえお触れで米が入ってこねえなんておかしいだろ!」


 勝手な物言いです。江戸に米を送れば、土地の者は何を食べて生きよと言うのか。それを理解してもらおうと殿が手を尽くしたにもかかわらず、こういった手合いが消えることはないのでしょう。


 いや、おそらくはそれが逆に例の風説を信じさせるに足るものとしてしまったのかもしれません。その良い証として、集まった町人たちの中には殿の名を挙げる者がおりました。


 当然それは私の耳にも入り、私に聞こえたということは奥方様にも聞こえたでしょう。そうなれば奥方様のお怒りが抑えの利かなくこと請け合いなので、後ろに控えておりました奥方様の様子を窺おうと振り返ったとき、私は信じられないものを見たのです。


「米が無ければ麦を食べればよいではないか」


 そう、奥方様がいつの間にか我らよりも前に進み出て、町人たちに向かい言葉を発したのです。


 動く気配は全く感じられませんでした。よしんばそれに気付かずとも、私の後ろにいたわけですから、前に進み出るならば必ず横を過ぎ去り、歩み出る姿を目で追えるはずなのに……


 かつて仙人の術に縮地という術があると聞いたことがあります。忍びの技にもそれに似たようなものもございますが、奥方様はそれを会得……しているわけがありませんよね。振り返ったのと時を同じくして前に進み出て、私が姿を見失っただけなのかもしれません。


「なんだと小娘!」

「ですから、米が無ければ麦があるでしょう。麦でなくとも、粟でも稗でも甘藷でも、食べるものは他にもある。と申し上げたのです。どうしてそこまで米にこだわるのでございましょう?」

「それが江戸っ子の誇りだからでえい!」

「……なんですかそれは?」

「お嬢、あのな……」


 江戸っ子の誇りとやらが何なのか見当も付かない様子の奥方様に、新三郎親方が何か耳打ちしてらっしゃるようです。と言いつつ、私も何のことやらという話ではありますが。


「なんだか最近そういうことを言い出す連中が多いみてえだよ」


 私が腑に落ちない顔をしているように見えたのか、蔦屋さんが意味を教えてくれました。


 元々江戸に住まう者を指す呼び名として、「江戸もの」という言葉があったそうですが、最近では町人たちが自らを呼ぶ呼称として「江戸っ子」という言葉が使われだしたのだとか。


 水道の水で産湯を使い、三度の飯は白米が膳に上がるなど、つまるところ江戸に住む者でなければ経験することのないものを享受しているという、ある意味自慢のようなものらしいです。

 

「くだらない……実にくだらない」


 町人たちが騒ぎを起こした原因は、自身が江戸っ子であるという誇りを守るためには米が無くては始まらないという、真に身勝手なもの。


 そしてその想いは奥方様も同じであったようです。あの表情と雰囲気、それはまさに殿のことに限り人が変わってしまう前触れ……


「江戸っ子の誇り? そんなつまらない理由で人を貶め、あまつさえ騒ぎを起こすような輩が誇りを語るなど笑止千万!」 


 ……ほらね。

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― 新着の感想 ―
米の値段上がってギャーギャー騒いでいる令和の人間だから笑えねぇ
政略とかじゃなく完全な愛の上で、外堀埋めて「肌見られたー」と隙をついて娶って貰うくらいだからそりゃズズズ…となりますよね
白河の頃、帰農令がありましたが、この場合、働かない男どもや一人暮らしに徴兵ならぬ徴農を行ったほうが良いかも?
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