激おこぷんぷん定信
伊奈家が関東代官頭を受け継いでいるのは、初代忠次殿の功績によるものである。
忠次殿は家康公の家臣として内政でその才を発揮し、検地や新田開発、利根川東遷をはじめとする河川改修など、幕府の財政基盤の確立に寄与したことで、武蔵国足立郡に一万石の所領を与えられて大名となられた。ちなみに偶然であるが、その藩は近江の小堀家と同じく小室藩という名前だった。
だったというのは、跡を継いだ忠次殿の長男が若くして亡くなり、さらにはその跡を継いだ孫の忠勝殿が僅か九歳で早世してしまい、跡継ぎのおらぬ小室藩は無嗣改易となって既に存在しないからである。では現在代官職を務める伊奈家は何なのかというと、小室藩主家から分かれた分家だ。
忠勝殿が家督を継いだとき、幼少の身であったため幕府の役職である代官頭に任じるわけにもいかず、藩主は忠勝殿が継ぎ、代官職は当時幕府の勘定方として勤め、分家の主となっていた叔父の忠治殿が任じられた。もしかすると忠勝殿が無事に成長したら、職を譲る未来があったのかもしれないが、現実はそうならず忠治殿の系譜が受け継いで今に至る。
その権限は関八州の天領約三十万石の行政権・裁判権・警察権に及び、家禄こそ四千石だが、他に代官頭の役料として管理する天領の一割、つまり三万石を与えられているので、実質城持ち大名と同等の権勢を持っている家である。
――大奥・広敷向
「それで?」
「それでとは……治部殿は話を聞いておられなかったのか」
「いえいえ。それはもう、しかと聞いておりまする。されど、わざわざ伊奈家の歴史を聞かせるためだけに呼んだわけではございますまい」
ある日、俺は定信殿と共に大奥に呼び出しを受けた。その相手は家基公付の御年寄・滝川殿。とはいうものの、実際は大奥筆頭老女の高岳殿に呼び出されたと同義であると考えていい。家治公付の上臈御年寄であり、代替わりに伴い本人は大御所と共に西の丸へ移っていったものの、滝川殿はその息がかかった人物の一人であるからな。
高岳殿が未だに本丸大奥に影響力を持っているのは、御台所様が大奥の全てを取り仕切るには今しばらく時間がかかりそうなので、それまでは経験者に頼るのが一番という理由からである。とはいえ自身は家治公付であるから、自身の意向を汲んでくれる滝川殿を家基公付に据えたのだ。
そんな人に呼び出される理由となると、先日種が御台所様に招かれたとき、それとなく釘を刺されたと言っていたのでその件なのかと思ったが、会うやいなや伊奈家の歴史を滔々と語られるに至り、なんとなく察しがついた。十中八九どころか十中十で伊奈の赦免を依頼してきたのだと思われる。
それもそのはずで、先日評定所で伏見奉行在職中の不正を理由とした近江小室藩小堀家の改易が決まったが、それに続いて今度は関東代官頭・伊奈忠尊の行状について詮議が進められており、伊奈も小堀に続いて改易となるのではないかと噂されているからだ。
だが、現時点で用件がそうと決まったわけではない。話の切り出し方から見て、実際はそれ以外の何者でもないのだが、相手が明言しておらぬものをわざわざこちらから切り出す必要もない。だからこそ空気を読めないフリをすると、滝川殿は険しい表情で本題に入り始めた。分かってんのにすっとぼけやがってとでも思っているのだろうな。
「越中殿は改易やむなしとお考えなのか」
「功があれば賞し、罪あらば罰する。ただそれだけの話でござろう」
「されど、伊奈はお知保の方様の養家。咎めを受ければその名に傷が付くとは考えませぬか」
お知保の方様は家治公の側室で家基公の生母であるが、御方様個人の話をする前に、将軍の側室というものの仕組みについて説明したい。
そもそも将軍の側室となるには、夜伽の相手に指名されるところから始まる。ゲスな言い方だけど、将軍が『今夜の相手は彼女でよろしく』と女中の名を御年寄に伝えると、指名を受けた者は『ご指名ありがとうございまーす(実際にこんなことは言わないけど)』と夜のお相手をする。そして晴れて懐妊・出産となって、ようやく側室と認められるのだ。
しかし将軍だからといって、誰彼構わず指名出来るかというとそうではなく、その務めを果たすのは御中﨟という役職に限られる。普段は将軍や御台所の身の回りの世話をする役なのだが、将軍の夜伽役、そして子を産む役割も担っているので、実質側室候補の集まりと言ってもいいだろう。
とはいえ人の好みなんてそれぞれなので、御中﨟よりもずっと下級の役に就く女性を気に入る場合もある。その場合は一旦御中﨟に昇格させてから将軍の元に向かわせることとなるのだが、ここで一つ、家格という壁が立ちはだかるのだ。
まがりなりにも将軍の子を産むという役割であるから、御中﨟となれるのはそれなりの格を持つ家の娘であることが条件になる。そこで、容姿は完璧だけど出自が低いという娘には、経歴ロンダリングという手が用いられる。大身旗本の養女にして大奥入りさせるわけだ。
そしてこれは、御中﨟を推挙する権限を持つ御年寄たちの権力掌握によく用いられる。自分が送り込んだ娘が将軍の子、それも男子を産んだとなれば自身の立場も盤石となるので、御年寄たちはこれと見込んだ美女をお偉方の養女という形で御中﨟に据える。お知保の方様もその一人だ。
御方様は三百俵取りの旗本津田家の出。旗本なれど家禄が低いことから、伊奈家の当代忠尊殿の養祖父忠宥殿の養女という立場で御中﨟になられたので、義理の甥とはいえ、忠尊殿が罰を受けて改易となればその名に傷がつき、ひいては子である将軍家基公の名声にも関わる話だと言いたいようだ。
「お知保の方様がそう仰せなのか」
「いえ。御方様ははっきりと口に出してはおられませぬが、そう考えるが自然ではないでしょうか」
「左様でございましょうか。上様のことを第一に考えておればこそ、御方様は口に出されぬのではないかと、この越中守は考えますが」
滝川殿や高岳殿は、生母の養家を潰すことで家基公にも迷惑がかかるのではという理論のようだが、定信様は逆であると言う。
商業を活性化させ、そこから上がる税収をもって新たな財源に充てる。田沼公が引き続き老中を務めていることからも、その基本政策は先代家治公の時代から大きな転換はないと言えるが、綱紀粛正という点に関してはかなり厳しくなっている。
将軍の信任のみを拠り所としていた田沼公。しかも新たな試みを始めようとしていたからその反発は大きく、各所に謙り、頭を下げ、無理難題に対して妥協に妥協を重ねて政策を進めてこられた。その相手には一橋家や大奥が含まれているのは言うまでもない。
あまり褒められたものではないが、味方を増やすという目的が第一であったから、多少私腹を肥やす動きをされても黙認するということも多かったのだろう。それこそ田沼は金まみれと嘲られた要因であるのだが、元凶の一橋家が取り潰しとなった今、状況は変わったのだ。
まずもって家基公が将軍就任の時点で、政策は継承しつつも私心無く職務に精励せよと明言しているし、将軍家を支えることになった田安家も不正は許さぬという体で目を光らせている。
つまり将軍が直々にそう宣言している以上、生母の養家だからといって咎のある者を放置すれば、むしろ言行不一致と見られてしまう。故に御方様は自身の行いのせいで実子が要らぬ誹りを受けてはならぬと考え、口に出されないのではないかという定信様の言い分は、赦免を願うことこそが将軍の意にそぐわぬものであろうという、まったくもって正論である。
「伊奈に関しては、浅間山噴火における初動の遅れ、治水工事の不手際。他にも余罪はあると思われ、到底看過できるものに非ず。たとえ酌量の余地があろうとも、上様が大層お怒りになられておりますれば、我らにはどうすることも出来ぬ」
「仮にそうであったとして、何故に奥に相談が無いのだ。主殿頭は何をなさるにもいつも我ら一言ありましたぞ」
「田沼殿から話が来ておらぬが答えかと」
表向きには家基公と田安家の意向で、これまでのような勝手は許さないよというのが今の幕府の姿勢と見られており、田沼公は首根っこを掴まれて、かなり権限を制約されている。というのが大奥も含めた世間一般の認識だ。だからこそ今回大奥に相談しなかったのは、それが将軍の意に他ならず、田沼公も受け入れざるを得ないのだという理屈だな。
実際のところは、田沼公が今更綱紀粛正を謳っても、未来で言うところの「おまいう」になるだけだから、田安家をお目付け役に配しただけであって、公も本来の健全な政の姿を取り戻し、面倒な柵を断ち切る良い機会だと考えているからこそ、そういう形にしている。つまり今回は田沼公本人の意思で、大奥の意向を汲むことなく話を進めているのだ。
もちろん裏でそういう取り決めになっていることは一部の者しか知らないので、これまでとの違いに対する批判は出てくることだろう。実際に大奥はその変節を非難しているようだが、田沼公はその程度を甘んじて受けるだけでよいならば、これまでの苦労に比べたら大したことではないと涼しい顔をしている。
「そもそもであるが、何故に公儀の取り決めを奥に相談せねばならんのだ」
「奥は上様や御台所様の身をお護りする大切なお役目がございます。政の話を何も知らされぬでは困りましょう。しかも老中と御年寄は御同役であるから、何かあれば奥向きに一言相談があって然るべきかと」
「……同役とは如何なる意味でござろうか。某は大奥に老中という職があることなぞ、露ほどにも承知した覚えは無いが」
ありゃ。そこまで淡々と受け流していたのに、滝川殿が余計な一言を言ったせいで、久しぶりに見ることになったわ。激おこぷんぷん賢……ではなく、今は激おこぷんぷん定信様だ。




