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第97話 判決と複雑なS恋事情

「……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 やがて、リコリスの最後の質問から、今までのどの沈黙よりもたっぷりと時間をかけて、ダックウィードはようよう声を絞り出した。

 しかし、意外なことにそれは答えではなく。


「どうぞ?」


 せっかく喋り出そうという相手が怯まぬよう、リコリスは意図して軽くあっさりと返事をする。

 それを受けて、男の体に力が入ったのが、間近で見下ろしていたリコリスには分かった。


「それは、謝罪の機会をお与えくださる、ということでございましょうか」

「!」


 告げられたのは、予想していなかったダックウィードの望みだった。

 先程、ヒースに謝罪をとは言ったが、それは死を前提としてのはずだった。

 だがこの男は、人間に戻るなら……戻れたとしても謝罪に行くと言ったのだ。リコリスを前にこれほどにも萎縮している男が、自らの罪と向き合う、と。

 傲慢で、本人も言った通りの自己満足と、リコリスも思うが、しかし。

 黙ったリコリスに、ダックウィードが「なにとぞ」と、懇願を重ねた。


「私としてはね、あんたを人間に戻して、二度とスィエルに……ヒースやペオニアに近づかせないのがいいかなって思ってたの」


 ウィードの正体を明かさぬまま、ダックウィードを開放してお茶を濁す。皆寂しがるだろうが、理不尽な別れでなければフォローもできる。それくらいの面倒なら、引き受けても構わないと思っていた。

 弟子たちも、ついでにダックウィードも、余計な傷を負わないで済む方法だから。それが一番無難だろうと。


 リコリスの思惑を聞いたダックウィードは肩を揺らし、それから意を決したように顔を上げた。

 頑なに伏せられていたそれは悲壮な覚悟を貼り付け、ひたとリコリスを見上げる。


「では……お認め頂けるまで、どうか犬の姿でいることをお許しください……っ」


 ダックウィードはそれだけ言って、また深々と頭を下げた。頭も体も、今までよりももっと低く、額が地につけられる。

 まさかの土下座に、困ったのはリコリスだ。

 犬延長を希望されてしまった。しかも、終了のタイミングが完全にリコリスに委ねられるという丸投げ返し。

 つまりリコリスが謝罪させないと言ったら、一生犬のまま。

 さて、どうするか、とリコリスが口元に手を当てる。

 ……と、それまで概ね静かだった背後から、ひんやりとした援護射撃が飛んできた。


「つまり、これからもリコさんに食と住の保証をしろと言っているわけですね。図々しい」

「それもですが、もう一つ。謝罪したからといってお嬢様とお近づきになれると思っているなら、大間違いですわぁ」


 リコリスの態度も相当アレだが、この2人も大概だ。

 特にジェンシャンは、リコリスがあえて口にしなかった、ペオニアとの関係にも言及してしまった。

 見えない氷柱の刺さった男は一層身を小さくしながら、それでもどうにか申し開きを続けるらしい。


「森で暮らし、獣を獲って生きよと仰られるのなら、その通りに致します。ご命令とあらば、どのような生き方でも。それに、その……ペオニア殿とそのような関係は望んではおりません」

「えっ、好きなんじゃないの?!」


 もう気を遣う必要もなさそうなので、リコリスも直球を投げつける。

 リコリス自身、ちょっと気になっていたことなのだ。それくらい、ウィードはペオニアにべったりだった。

 しかし、ダックウィードは額を地につけたまま首を横に振る。


「私どもソレイユ教の神官は、女人に触れることが禁じられております。何より、ペオニア殿は清く美しく、素晴らしい女性。罪深い身で触れることは……私ごときがそれを望むなど、決して許されぬことでございます。……犬の姿ではそれを破っておりましたが、人の身では決して」


 教義については、もう本当に今更だろうが、今のダックウィードにとって重要なのはそこではなく、ペオニアの不可侵性か。

 手を握りしめ、痛々しい音がするほど額を擦りつける男は、いつになく饒舌に語る。

 それを、いつの間にかリコリスの隣に進み出たジェンシャンが、更にブリザードの吹き荒れる目で見下ろした。


「――本当に、情けない男。確かに、あなたのようなつまらない男にはお嬢様はもったいないですわぁ」


 ふん、と鼻で笑って吐き捨てる。

 いつも微笑みを絶やさなかった弟子の、見たことのない姿には、リコリスの方がビビってしまった。迫力美女は、怒れる姿にも桁違いの迫力がある。


(ひえぇ……)


 思わず後ずさりしてしまったリコリスの肩に、そっと温かなものが当てられた。

 はっとして仰ぎ見れば、こちらもまたいつの間に距離を詰めたのか、ライカリスが複雑な表情でリコリスを見つめている。


「ライカ……?」


 相棒が近くに来てくれただけで安堵してしまうのを自覚しつつ、その何とも言えない視線に、リコリスは首を傾げる。

 しかしライカリスは僅かに苦笑して首を振り、ダックウィードを見やる。その暗褐色の瞳に、冷たいだけではない何かが一瞬揺れたのに、リコリスは気がついた。相棒が時折見せる、苦しげな……陰のような何か。

 しかし、それについて問いただす前に、あるいはその行為を封じるように、ライカリスがリコリスに目を戻す。


「結局はリコさんの気持ち次第ですね。ペオニアさんについては私は何も言えませんし、穀潰しが居着くのは少々不快ですが、……どうします?」

「んー」


 リコリスとしては、もう答えは決まっているから、悩んでみせるのはただのポーズに過ぎない。


 許可するかはともかく、ヒースたちに謝罪させるには、諸々準備不足だ。

 本人にそれとない意思確認をしなければならないし、両親であるサフラン夫妻やサマン町長にも話を通す必要がある。このまますぐには、とてもではないが認められない。

 だから、ダックウィードが犬のままでいたいと望むなら、放逐できない以上それを叶えるしかないし、どこか適当に放置もできないだろう。

 本人が言うように森で狩りをして生きるなど、この男には到底不可能だ。餓死する未来しか見えない。

 だから、ダックウィードについてはいい。

 今気になるのは別のことだった。


(何も言えないって言ったね。興味ないでも、どうでもいいでもなくて)


 相棒の言葉を思い返せば、彼らしくない言い方だったように思えた。というか、ペオニアについて、とわざわざ言及したのがもうおかしい。

 ダックウィードの処遇に対してもだ。声の冷たさは維持しているが、態度が明らかに軟化した。

 例の双子や、かつての幽霊男にもそうだったが、この相棒は、何というか訳ありな男女関係の、特に男に対して、妙に寛容になることがある。

 他の者なら気づかないかもしれないが、リコリスは違う。違うと、自負できる程度には、ライカリスを見てきた。

 けれど、肝心の理由は察してあげられない。一番近くにいるのに。


(役に立たないなー、私)


 悔しいやら、申し訳ないやら。

 ライカリスを見上げても、もういつもと同じに穏やかな視線が返されるだけだ。「どうしました?」と訊かれても、リコリスは首を横に振るしかない。


「それじゃ、ウィードのことは保留兼現状維持で。……ジェンシャンもそれでいい?」


 ピリピリしている弟子に、お伺いを立てる。

 現状維持とはつまり、今まで通りペオニアの近くにいさせるが構わないかということ。

 正直これで反対されたらどうしようかと思っていたが、できた弟子は師の確認に頷いてくれた。


「構いませんわぁ。お嬢様も、それをお望みでしょう」

「そうだろうね」


 ウィードはもうペオニアの飼い犬のようなものだから、関わるなと言うわけにもいかないし、言えばペオニアは悲しむ。

 ジェンシャンもそれをよく分かっているから、反対はしなかった。


「じゃあウィード、もう犬に戻しちゃうけど……何か言っとくことある?」


 目線を足元に戻してダックウィードに尋ねると、男は僅かに顔を上げ、目の前のジェンシャンに一瞬物言いたげな視線を投げたが、結局はそのまま。


「ございません。ご迷惑をおかけ致しますが、よろしくお願い致します」

「分かった」


 以前は大騒ぎしていた男は、今は粛々とその時を待っている。

 犬で見慣れた茶色い頭を見ながら、リコリスは一応、と言葉を添える。


「上手く犬に戻れるように、祈っといてね?」

「……あ」


 忘れているかもしれないが、妖精王であるリコリスの【王の呪い(アナテマ)】は、対象をランダム(・・・・)に動物化させる。そう、指定はできないのである。

 前回ダックウィードを呪った時にもそれなりに苦労をしたが、今回もあれくらいで済めばいいなと、リコリスにも願うしかできない。あと、例の人面芋虫にはならないでほしい。

 ふわふわと宙にたなびいていた虹の羽が、リコリスの意思に従って、背伸びをするように広がった。




■□■□■□■□




「ふ、ふふふ……っ。い、犬に戻れて、よかったわねぇ、ウィードちゃん……っ」

「…………」


 行きと同じメンバーで、帰りの森を歩く。

 同じメンバー……リコリスとライカリスと、ジェンシャンと犬だ。犬が犬でなくなったりはしていない。

 だが、行きとは違ってジェンシャンはひたすら笑っているし、ウィードはしんなりと尾を垂れている。人間でいうなら、げっそりと表現する様相だ。


 あの後、前回より回数を重ねて、ダックウィードは無事(ウィード)に戻った。

 戻れたのは幸いだったが、ウィードはもちろん、リコリスにとっても大変不幸だったのが、今回はゲテモノを多く引き当ててしまったことだ。

 こいつだけは嫌だとリコリスが願った人面芋虫が4回、その他ゴキブリ、ムカデ、ゲジゲジ、蚊……と、ついうっかり反射で殺ってしまいそうになって、冷や汗をかく羽目になった。特に蚊は危なかった。

 3回目あたりの人面芋虫で、ダックウィードが絶望的な顔をしていたのがツボに嵌まったのか、そこからジェンシャンは笑いっぱなしである。機嫌が直ったのは結構だが、反比例するように、リコリスとウィードのテンションは下降の一途。

 ようやく犬を引き当てた時には、喜ぶより力が抜けてしまった。

 帰り道、ジェンシャンに延々とからかわれながら、俯き加減に歩くウィードの背は、リコリスから見ても大層哀愁を誘う。


(あー、嫌なもの見た……)


 げっそりげんなりと頭を振り振り、前を行く1人と1匹を眺めるリコリスの背に、押し殺した笑いが飛んでくる。

 言うまでもなくライカリスだ。


「……何?」

「いえ、何でも……」


 口元を手で隠して目を逸らす相棒が笑うのは、おそらくウィードではなく。


「ライカ~?」


 肩越しに恨めしい目を向ければ、我慢できなくなったのか、笑い声は大きくなった。

 間違いない。ライカリスが笑っているのはリコリスだ。

 この相棒は、天敵に遭遇して取り乱したリコリスを思い出して笑っている。リコリスがあの人面芋虫を本当に苦手としているのを知っていて。


「むう」


 膨れっ面で顔を前に戻し、足を早めたリコリスの肩を、難なく追いついてきたライカリスが後ろから軽く叩く。


「すみません。でも……リコさん可愛くて」

「はっ?!」


 何を言い出すのかと、びっくりして振り返った先。

 真っ直ぐにリコリスを見つめるライカリスは楽しそうで……意地悪だった。

 そういえばこの男は、リコリスが人面芋虫や蚊と戦っている時にはよくこうして笑っていた。笑いとからかい混じりに、可愛いとか何とか言って。

 たまに見せる性格の悪さだが、遊ばれていると分かるのに、それでも顔に熱が集まってくるのだから、救いがないのはリコリスの方だ。

 照れ隠しに、ライカリスの腹に向かって肘を入れてやるが、「痛いですよ」なんて言いながら、笑うのはやめてくれない。


「本当に思ってるんですけどね。リコさんが慌てたり怖がったりするのは珍しいですから」

「せ、性格悪っ」


 人の弱点を面白がるなんて。

 あんまりな言葉のおかげで、熱は引いたけれども。


「今更でしょう?」

「そうだね、知ってた」

「それに。多少性格に難があっても、嫌わないって言ってくれたのはリコさんですよ」


 確かに、それに近いことは言った。

 昔の、リコリスにも物言いのきつかったライカリスを、嫌わないというか、好きだと。言うには言ったが。


「人の弱味つつき回せなんて言ってないからね?! いや、嫌わないけども!」

「弱味つついてるつもりなんてありませんよ。ただ可愛いと思ってるだけです」

「笑いながら言われても……」


 額に手を当て、ため息をついたリコリスに、ライカリスがすっと目を細める。


「そうですか。じゃあ真顔で真剣に……」

「! いや、いい! 結構ですっ」


 ただでさえ照れくさいのに、そんなことをされては身がもたない。想像というか、色々と思い出してしまって、顔に熱が戻ってきてしまう。

 リコリスは提案を否定する意味と、想像を振り払う目的とで、勢いよく首を振った。

 それを見て更に笑い出す相棒は、本当に楽しそうだ。

 反対にリコリスの方はといえば、やられっぱなしで癪に障るやら、負けず嫌いが疼くやら。


(楽しそうにしちゃってさ。可愛い可愛いって、完全に面白がってるし……大体、可愛いっていったらライカの方だったのに、あの可愛げどこ行っちゃったかなぁ、もうっ)


 ライカリスへの気持ちを自覚してから、どうにも照れが出てしまって、以前のようにからかったりが難しい。

 やはりここは、無理にでも反撃に出るべきだろうか。そうしたら、前みたいに近くにいても自然でいられた、気安い親友関係に戻れるかもしれない。

 デイジーにはあんなことを言われたが、やはりリコリスの感情に未来はなさそうなのだし、いっそ蓋をして元に戻る努力を。捨てることも、忘れることもできなくても……。

 そう、これからずっと一緒にいるのだから、その方がいい。きっと。多分。


「……リコさん、何考えてます?」


 黙りこんだリコリスを不審に思ったのか、ライカリスが問うてくる。

 それにリコリスは意味深に笑って、


「んー? 別にぃ、前の可愛いライカはどこ行っちゃったのかなーって」


 わざと拗ねたような、それでいてからかうような声で嘯いた。

 できないできないと思っていても、覚悟を決めると意外といけるものだ。油断すれば赤くなりそうな顔はそっぽ向けて、相棒の顔を見さえしなければ口は勝手に動く。

 反撃の気配を感じ取ったのか、ライカリスの声も慎重になる。


「私が可愛かったことなんてないと思うんですけどね。そんなこと言うのリコさんだけですし」

「いやいや、絶対可愛かったし。私の立つ瀬ないくらい可愛かったし。驚きの可愛いさだったし~」

「あの、可愛い可愛い連呼しないでくれません? こっちの立つ瀬の方がないんですけど」

「先に可愛い可愛い言ったのはそっちでーす。その言葉、そっくりそのまま返しまーす」


 ちゃらっと言い返してやれば、ライカリスが顔を顰める。


「何でそんなに認めたがらないんでしょうね。往生際の悪い」

「何でも何も、そこで認めたら私ただのナルシストだよ……」

私が(・・)、そう思っているのは認めてくださいよ」

「じゃ、私がライカ可愛いって思ってるの認めたら、私も認める」


 リコリスが意を決して振り返り、緊張は隠して悪戯っぽく告げれば、ライカリスは変なものでも飲んだような顔つきで押し黙った。

 それを覗き込んで、「どう?」と小首を傾げてみると、何だか情けない表情になってくるものだから、相棒に対しては忘れていたはずのS心がじわじわと疼いてくる。結局、Sは恋をしてもSなのだ。

 これなら、思ったよりは簡単に元の関係に戻れるかもしれないと、安堵しているリコリスの前では、今もライカリスが答えに窮している。口元に手を当て、眉間に皺を寄せて、不思議なくらい悩むその額は、俯きがちだからか本来の身長差の時よりも幾分近い。

 リコリスは相棒の意識が自分からやや逸れたのを理解して、そっと手を伸ばした。


「ていっ」

「つっ……」


 掛け声と共に、額に一発。見舞ったデコピンは軽快な音を響かせた。

 小さく呻いて、咄嗟に額を押さえたライカリスが目を丸くしてリコリスを見下ろす。


「悩みすぎ! 今回は私の勝ちねっ」

「はっ?!」


 相手の意表を突いて押しきれば勝ち、思考が停滞したら負け。何の勝負か、リコリスにもよく分からなくても、勝ちと思えば勝ちと言い張る。

 リコリスは微笑んで宣言し、ぴっと舌を出してから身を翻して走り出した。

 今のやり取りの間に少々距離の離れてしまった、ジェンシャンとウィードに追いつくため。そして、不毛な言い争いから逃げるために。

 だからリコリスは知らない。

 無理に追っては来なかったライカリスが、片手で顔を覆ったまま、


「…………絶対、リコさんの方が可愛いです……はぁ」


 そんなことを呟いていたことを。




 その後、間もなく牧場に帰り、ジェンシャンの職業(クラス)取得を知った他の弟子たちが歓声を上げてみたり。

 ペオニアに対して遠慮が出たのか、少しだけよそよそしくなったウィードに、ペオニアがしょんぼりしてみたり。

 慌てたウィードがジェンシャンのポーンに締め上げられたところを、何かを察したウィロウが宥めてみたり。


 一部例外はあれど、概ねお祝いムードのまま解散を迎えた、その夜。

 帰り道の戦いの続きがあったらどうしようかと、リコリスは身構えていたのだけれど、幸い第2戦は発生しなかった。

 めでたいことは重なるものなのか、待ちに待った、親友ソニアからの連絡が舞い込んで、それどころではなくなったのである。

 相変わらず疲れきった声は、遅い時間を詫びた後、唐突ながら翌日の訪問をリコリスに告げてきたのだった。

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