第92話 幼女に学ぶ男心
「な、なん……っ」
いきなり何を言い出すのか、この幼女は。
そう思うのに、リコリスは咄嗟に何も言えなかった。
否定も誤魔化しも詰問も、何一つ叶えられなかった、何とも無能な口だ。
その代わりのように、視線は即座に動く。それは確認のためであり、向かう先は階下。相棒のいるテーブルだった。
リコリスのいる2階と、ライカリスのいる1階。
距離は近く、状況と声の大きさによっては会話は筒抜けにもなり得る。
今のデイジーの幼女特有の高い声は、リコリスには随分と大きく聞こえた。それが罪悪感と強迫観念のせいなら、まだ救いはあるけれど。
(き、聞こえてませんように……!)
正面切って確認する度胸はなく、横目でそろり、ちらり。
見やった先では……幸いなことに、今までと変わらぬ光景があった。
ライラックはとてもご機嫌に賑やかに、弟と部下をその逞しい腕に抱き込んで、一向に放す気配はない。声のトーンも落ちていない。酔っ払いだから。
あの距離で、あの声と調子で泣き喚かれていたら、きっとこちらの会話など聞こえていないはず。
現に苦笑するカンファーにも、そして迷惑そうなライカリスにも、特に変化はなかった。
(ライラックさん、ありがとーっ!)
確認を終えるまで一瞬だったはずなのに、やけに長く感じて生きた心地がしなかった。
もし、下を見てライカリスと目が合ったらと思うと……心臓が爆発しそうだった。
ひとまず、と安心しかけて、リコリスはまだまだとその安堵に待ったをかける。
だって目の前にはまだ、リコリスの心臓を止めかけた張本人がいるのだから。
「あのね、指輪は確かにお揃いだけど、別にそういう意味じゃないよ?」
『幼女のデイジー』には、諭すように優しく。
《……どういうつもりよ、デイジー》
余計な火種を作ろうとした『おっさんのデイジー』には低く。
リコリス自身、顔が強張っているのが自覚できる。おそらく、目線も相当剣呑だろう。
だというのに、友人はそんなものどこ吹く風と微笑んでいた。
「えぇ、そうなのですか……?」
口元に手を添え、残念そうな様子で可愛らし~く小首を傾げる幼女の、小憎らしいことよ。
中身のおっさんは更にふてぶてしく、愉快そうに笑っているのだ。
《だってお前、リア充じゃねぇって言ったのに、ちゃっかり左手の薬指に指輪とかさぁ》
《ホントにリア充じゃないし!》
《いや、ねぇわ。どう見ても甘酸っぱいわ。何、自覚ねぇの?》
《だから! 私は…………だけど、ライカは違う、から》
もごもごと、どうにかこうにか弁解を重ねれば、それを吹き飛ばす勢いの盛大なため息が返された。
《それこそあり得ねぇだろ。何なんだよ、ライカリスのあの態度。リコリスに超甘じゃねぇか。狂犬どこいったよ》
《た、確かに態度は前より軟化したと思うけど、そういうのとは違って……その……》
《ふーん? でも、指輪の効果は伝えたんだろ?》
《指輪のことは教えたよ。でも左手の薬指については言ってないし……》
言えるはずもない。
だからこそ、この気持ちはリコリスの一方的なものだ。
《まぁ、そっちは言ってなさそうだと思ってたけどよ。でも指輪の説明してんなら、薬指がどうとかは今は関係ねぇな。機能聞いて、そんで受け入れたんなら、あいつの気持ちなんてそれで十分だろが》
リコリスの焦りも戸惑いも、知ったことかと鼻で笑って、デイジーは続ける。
《好きでもねぇ女に一生繋がれるとか、俺には無理。お前平気なん? 例えば、双子兄とかと》
《無理。嫌。ない。指全部切り落とした方がマシ。っていうか例えが悪すぎ》
《確かにちょっと極論だったが……なら他で考えてみ。結局誰でも同じじゃね?》
《それは……》
《機能としては便利だけど、便利だから、で気安く使えるもんでもねぇよ。それは、そういうもんだろ》
デイジーの視線が、指輪に刺さる。
友人の言葉はもっともだ。これが他人なら、リコリスでも同じ感想をもつ。
しかし。……そう、しかし、と続いてしまうのだ。リコリス自身のことに限っては。
リコリスは指輪を見つめながら、左手を胸の前で握り締めた。
《ライカは……私が2年前に消えて、ホントに怖かったんだと思う。何度も一緒にいてほしいって言われたし、どこにも行かないでって……泣かれたこともあるし。だからライカはそういう、恋愛感情とかじゃなくて、私がまたいなくなるのが嫌で、不安だから》
帰還後を振り返りながら、リコリスはぽつりぽつりと語る。
蝙蝠ポーチに吸い込まれるまでは、そんな素振りも全くなく、吸い込まれた後から少し態度が変わっても、何かある度にため息をついて、彼が望んでそうしていたとは思えない。リコリスの告白だってスルーされてしまった。
ライカリスはいつでもリコリスを大切にしてくれたが、やはりそれ以上はないように思える。
《いや、だからその、泣いて縋るほどなくしたくない異性っつーのがだな……あー、もう面倒臭ぇ! あのな、リコリス。これだけは言っとくぞ!》
《な、何》
語気を強めたデイジーに、リコリスがまた何を言われるのかと身構える。今度は咄嗟にでも口を塞いでやろうと。
だがデイジーは先ほどのように、実際に口を開くことはなかった。
《よく聞けよ? 俺はこんな体で、多分もう恋愛も結婚も無理だ》
《…………っ》
《だから!》
それを言われては何も言えないようなことを、はっきりと。
黙したリコリスに構わず、デイジーは言い募る。
《てめーらみたいなクッソじれってぇ関係なんか見てられるか!! 痒くなるわ!》
《えぇっ?!》
《自分に何の希望もねぇってのに、目の前でイチャつかれるこっちの身にもなれや。しかも、それで付き合ってませんとか……じれったいにもほどがあんだろ! 痒い! 酒場までのやり取りでもう腹一杯なんだよ! ……っつーわけだから、な。とっととくっついちまえ、主に俺の心の平穏のために》
《そ、そんなこと言われても……》
物凄くデイジー側の都合だった。無茶苦茶だ。
そもそも、リコリスの気持ちだけでどうなる問題でもないのに、酷いことを言う。
二の句を継げないリコリスは、何と返せばこのデリカシーのない友人が黙ってくれるのか、必死に考えた。
考えて、考えて、結局答えは出ず。もういっそ1階に乱入して、酒の力でも借りてやろうかと、自棄を起こしかけた時。
「おーい、リコリス、デイジー」
はっとして顔を向ければ、そこには階段から2階へと足をかけたエフススが軽く手を振っていた。
「マスター?」
「おう。お前らそろそろ牧場に帰れ」
唐突な指示に、リコリスもデイジーも、今までの会話を一時忘れ顔を見合わせた。
「え、でも……ライカと皆が」
「お義父さまもまだ……」
ライカリスもライラックも相変わらずだし、弟子たちもまだ働いてくれている。
仕事を免除してもらっている立場で、全てを投げて帰るのはさすがにいかがなものであろうか。
しかし、2人の困惑にもエフススははっきりと首を横に振った。
「年頃の娘が、遅くまで酔っ払い野郎どもに囲まれてるもんじゃない。デイジーなんか、特に子どもなんだからな。下の嬢ちゃんたちももう帰す」
エフススが示す先、ペオニアたちがウィロウに申し訳なさそうに頭を下げているのが見えた。
「リコリス、嬢ちゃんたちを送る妖精頼むぞ。野郎どもはこっちでこのまま預かる。あと、デイジーはそのままリコリスんとこ泊まれよ。その方が、ライラックも安心だろうからな。起きたら、俺から伝えとくから」
まっとうな意見、もっともな心配。
普通に考えれば、リコリスもデイジーも心配されるのが申し訳なくなる程度には常識から外れているが、年若い娘を案じる年長者の声は、リコリスたちに口を差し挟む隙を与えない。
急かすエフススに逆らうことはできず、2人揃って頷くしかなかった。
「分かりました。でもその前にライカに」
「リコさん」
声をかけていきたい。
そう言ったタイミングを見計らったかのように、下方から投げかけられる聞き慣れた呼び名。
慌てて手摺から僅かに身を乗り出せば、下からライラックに絡みつかれたままの相棒がリコリスを見上げていた。
「話は聞いてます。すみません。一緒に行ければよかったんですが、今相当酒臭いと思うので……お願いですから気をつけて帰ってくださいね」
「リコリスさん、デイジーをお願いします。デイジー、君なら大丈夫だと思うけど、いい子にしてるんだよ」
「戸締まりはしっかりしてください。家の中と外に、クイーンを忘れずに。2人で出歩いたりは、絶対に駄目ですからね」
「……はーい」
「分かりました、カンファーお兄さま、ライカリス叔父さま」
矢継ぎ早に出される、まるで幼い子どもにするような注意に、リコリスは首を竦める。
同様に下に向けて返事をしたデイジーが、
《過保護かよ……》
心底呆れた調子で呟いてしまったのも、まあ無理からぬことだった。
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「ふぅ……」
クイーンの腕から降ろされ、リコリスは小さく息をついた。外の強風で乱れた髪を、軽く手櫛で整える。
続けて、同じようにクイーンに抱えられて家に入ってきたデイジーは、物珍しげに周囲を見回し、ある一点で視線を固定させた。
リコリスはそこに何やら不穏なものを感じたが、問い詰めて薮蛇も困る。
できたらこのまま、大人しく床についてくれないかと願っていると、友人の方から口を開いた。
「お邪魔いたします」
ぺこりと頭を下げられ、リコリスも咄嗟に頷く。
クイーンや、もしかしたらカバンたちの存在を慮ってか、建前会話は続行のようだ。
「どうぞ。寛いでいってね、何もないけど」
「ありがとうございます、リコリスお姉さま。そういえば家妖精さんたちは、今日はお休みですか?」
帰還直後に家妖精について話したからだろう。
しかし、興味を引かれているところ悪いが、家妖精はもう寝ている時間だ。彼女たちは就寝がわりと早いから。
「ごめんね、あの子たちもう寝てると思う。明日は喚ぶから、帰る前に会ってあげて」
「そうなのですか。分かりました。無理に起こしたら、可哀想ですものね」
至って素直に受け入れるデイジー。
これだけ聞いていれば本当に、全くもって平和そのものだが、これはあくまでも建前。建前の裏には、やはり本音があるもので。
《おい、リコリス》
《な、何でしょう……》
裏でリコリスに話しかけるデイジーの声は低い。可愛くて高いのに、低い。
今ここには相棒がいないから直接的に被害が出る心配はないが、それでも身構えてしまって、表の会話も何となく硬くなる。
《……あのベッドは、何だ?》
デイジーが見咎めたのは、部屋の一番奥にある就寝スペースだったようだ。
そこには帰還直後と変わらず、リコリスとライカリスのベッドがぴったりと、二つ並びになっている。
《まさかとは思うけど、お前らまさか》
信じられないと言いたげな口調に、何を言われるのか想像がついてしまって、リコリスはそっと目を逸らした。
《そんな関係じゃないモン、とか言っといて一緒に寝てんのか?!》
《た、確かに一緒だけど、ホントにそんなんじゃ》
《んなわけあるか、男舐めんなあああっ!!》
《で、でもっ、ライカは別にいつも普通だし、そんな感じは……っ》
《それこそねーよ、この鈍感女!》
《えぇぇ……》
言い訳の度にばっさりやられて、いよいよ返す言葉がなくなる。
ではもう、他にできることと言えば、
「デイジー、先にお風呂入っちゃって。広いお風呂、造ってもらったんだ。デイジーもそろそろ寝ないとね」
もっともらしい理由をつけて、デイジーを部屋から追い出すことくらいだった。
「着替えは、デイジー持ってるならいいけど、なかったら私のワンピース使ってね。タオルと一緒に置いてあるから」
「はぁい、リコリスお姉さま。お先に頂きますね」
にっこりと微笑んだ幼女は、軽く頭を下げて廊下の方へと歩き出す。
《……これで話が終わったとか思うなよ?》
無情にも、お説教続行を告げながら。
そう。シークレットチャットは、遠距離にも大変有用なのだ。
《うぅ……》
《いや、つーかライカリスが普通とか言うけどお前、あいつマジで顔色一つ変えねぇの? お前と、それこそずっと引っついてて? ……それはそれでアレなんだが》
先ほどよりも落ち着いた調子で問われ、リコリスも困惑しながら普段を思い返す。
《うーん、赤くなったりはしてるけど》
《……………………じゃあよ、夜中とか朝とか、いなくなったり》
《ああ、それならたまに。私も寝ててはっきりとは覚えてないけど》
しかし、それは普通に飲み物を求めているか、お手洗いではないのか。
リコリスにだってあることだ。
そう答えれば、返される盛大な盛大なため息。今日何度目だろうか。いい加減吹き飛ばされそうだ。
《多分それ、お手洗いの意味が違ぇ……。俺もう、あいつを憐れめばいのか、ヘタレって罵ればいいのか、よく分かんなくなってきたわ》
《そんなこと言われても》
デイジーの言っていることの意味は何となく理解はできる。リコリスとて、そこまでお子様ではない。
しかして、それがあの相棒と結びつかないのも、また事実。
《やっぱり、そんな感じは……》
《お前さ、ライカリスが大事なら、もう少しちゃんと見てやれよ。多分自分の気持ちだけで手一杯なんだと思うけど、決めつけてたら見えるもんも見えねぇから》
《…………》
デイジーがたまに見せる、年上らしく落ち着いた真摯な一面は、リコリスに言い訳をさせてくれない。
何も言えないリコリスに、デイジーもそれ以上はなく、沈黙が下り。
《……よーし、これから幼女が風呂に入るぜぇ》
《あぁ、うん……頑張って……》
ややあって届いた声は、緊張を如実に伝えてきた。
デイジーにとっては、現実を突きつけられる瞬間なのだろう。
それはリコリスにも伝染し、もらい緊張を余儀なくされるが、同時に束の間追及から逃れられるという意味でもある。
リコリスは簡単にお茶の準備をしてから席につき、黙ってしまった友人を、そして相棒のことを考えながら、力なくテーブルに額を預けた。
この直後の小話を拍手に上げました。
デイジー目線です。




