第86話 花の乙女(笑)
リコリスの視界の中、チカチカと瞬く。
それはいくつかの文字の羅列。
【シークレット:デイジー】
確かにそう読める桃色の文字列が、ゆっくり明滅していた。
シークレットとは正式にはシークレットチャットと呼ばれ、プレイヤー間で個人的に行われるチャットのことを指す。
ゲームの画面であれば、相手の名前の下に肝心のチャットの内容が続いていくのだが、こうして現実に行われる会話は文字にはならず、頭の中に直接響いてきていた。
しかし、ゲームであろうと現実であろうと、変わらないこともある。
それはこの会話の向こう側に、相手……プレイヤーがいるといるということ。
リコリスはその相手を知っている。
リコリスにシークレットチャットを送り、リコリスの名を呼ぶ『デイジー』はおそらく一人だけだ。
こちらの世界での最初の出会いこそ、まだ思い出せてはいないが、ゲーム時代には何度も言葉を交わし、パーティを組んだ友人の一人。
引く手数多の実力派回復職であり、リコリスと同じ同盟の仲間でもあった。
その友人が、ソニアに続いて帰ってきたらしい。
《リコリス! リコリス?! まさか寝てんのかっ? 真っ昼間だぞ、起きろ! 起きてくれ~っ》
驚きと、頭蓋の中で反響するかのような叫びの余韻のせいで、リコリスは即座に反応ができなかった。
そうして絶句している間にも、可憐な声は必死にリコリスを呼ばう。鈴を転がすような、と称するに相応しい声に、あまりにも不釣りあいな口調で。
「デイジーって……まさか、あのデイジーさんですか?」
頭の中の声に、ライカリスの問いが重なる。
複数の会話――しかも片方は機密性が高い――を同時進行でこなせるほど器用ではないリコリスは、ひとまず相棒の問いに肯定を返す。
「そうみたい。ちょっと困ってるみたいで……話聞いてみるね」
例の話はまたしても中断となったが、ライカリスも特に文句は言わず頷いてくれた。どこか不満そうではあるけれども。
ちなみにリコリスとしては、「デイジー、ナイス!」といったところだ。
《デイジー、ちょっと落ち着いて》
《っ、リコリスか?!》
わあわあと騒がしい声に、殊更落ち着いて返事をする。
待ち望んでいた応えを得て、デイジーの声が明るく響いた。
《リコリスってあのリコリスだよな? 『ジョーカー』のPCクラッシャー!》
『ジョーカー』とは、リコリスとその友人たちが所属していた同盟の名前だ。
そして、PCクラッシャーはプレイヤー間でのリコリスの渾名のこと。
久しぶりに聞く単語は懐かしく、リコリスは目を細める。
《そーだよ。残念幼女さん》
笑いながら、こちらもプレイヤー間で知られていた呼び名で答えてやれば、一拍置いて、大きなため息が聞こえた。
含まれるのは、間違いなく安堵だろう。
《うあ~、助かった……。俺、これで独りとかだと、マジでどうしようかと……。このチャット? や、チャットじゃねーけどテレパシーみたいのも必死でさぁ》
《あー、分かる分かる》
覚えのある嘆きだ。
あり得ないはずの場所に、あり得ない姿で、ぽつん。
リコリスも卒倒しそうだった。
《ちなみに私は独りだったけどね!》
何せ帰還者第1号(多分)だったものだから。
シークレットチャットを試す相手すらいなかった。
《マジでか?! すげぇな、リコリス! え、え、つーかいつから? 他の奴らは?》
あいつは? こいつは? と、デイジーが同盟の仲間たちの名を挙げていく。
それらは皆リコリスの友人でもあったが、あいにく他に戻っているのはソニアのみ。
その旨を告げ、ついでに非常にざっくりと状況を説明すると、彼方で絶句した気配。
《な、んだそれ……マジ? そんなことなってて、父ちゃん大丈夫なんか……?》
ゲームの時とはまるで異なる世界情勢に、デイジーから父を案ずる声が零れた。
父といっても義理の、デイジーのパートナーのことだ。
中規模の傭兵団を率いて、それこそ世界中を走り回る人だったから現在位置は不明だし、プレイヤー同士のように会話を持ちかけることもできない。
残る心当たりと言えば。
《あぁ、ライラックさん……ちょっと待ってね》
言い置いて、リコリスは目の前で大人しく待機してくれているライカリスを見上げる。
デイジーの養父、ライラックについて訊くなら、まずはこの相棒だ。
「ライカ、ライカ」
「はい?」
「ライラックさん、大丈夫? デイジーが心配してるんだけど」
そう言った途端、嫌そうに顰められる顔。
「本気で言ってます?」なんてセリフ付きで。
「兄が無事じゃないわけないでしょう。殺しても死にませんよ、あの人は。リコさんが戻る少し前にも、スィエルの町に来てましたし」
思い出すだけで暑苦しい。
吐き捨てられるほど暑苦しいライラックは、実はライカリスの実兄である。
血の繋がりを疑うほど温度差のある兄弟だが、兄弟は兄弟。弟がこう言うのなら大丈夫だろう。
それでなくても、デイジーのパートナーなのだから、ゲーム通りレベルはカンストのはず。滅多なことはなかろうと、リコリスも思う。
ちなみに、あの双子ですらライラックのことは苦手らしく、そういう意味でも安全な立場の人だ。
《大丈夫みたい。私が帰る前にも、顔見せてくれてるって、ライカが》
《そうか、よかった……。つーか、ライカって狂犬だよな。お前ら一緒にいるん? え、何……リア充?》
《違う!》
疑問が一つ片付くと、またすぐに次の疑問へ。
知りたいことが沢山あるのは当然だ。会話しながら情報を得、整理していけば、何が分からないのかもはっきりしてくる。
それはそうなのだが、リコリスにとっては、触れてほしくない話題もある。
《そーなんか? まぁ、いいけど……》
幸い、デイジーはその手の話に強引に食らいついてくるほど貪欲ではないようで、あっさりと納得してくれた。
それから、少しだけ沈黙し、小さく息をつく。
《マジで皆いるんだなぁ……》
皆。それがプレイヤーではなく、NPCたちのことを指しているのが、リコリスには分かった。
半信半疑というか、実感が湧かないと言いたげな言葉は、無理もないことだ。まだ誰にも会っていないのなら、実感しようもない。
牧場に立っていること、姿が変わっていること。目の前の現実ですら、受け入れるのに時間がかかるのだから。
しかし、受け入れられないからといって、状況が待ってくれるかといえば、そんなことはない場合が多い。
《そ。皆、普通に生きてて、普通に私たちを知ってるよ。だから……デイジーにもそのつもりで接してほしいんだけど……》
難しいだろうが、この世界の人々の知る『あなた』でいてあげてほしい。演技でも構わないから。
無論強制できるものではないが、この世界で関わってきた人々を想い、更に自分たちの立場と今後を考えるなら、それが一番いいはず。
けれども、そこには問題もある。
問題、というか、障害が。
《……あの、デイジーって、やっぱり今…………幼女?》
《……っ、そうだよっ! 今、俺めっちゃ幼女! ガチ幼女なんだよ~~っ》
恐る恐るの問いかけには、半泣きで自棄糞気味の肯定が投げ寄越された。
(だよね……)
声からして、そうだとは思っていた。
リコリスだってそうだった。
しかしデイジーの状況は、リコリスよりも輪をかけてひどい。
《見せてやりてぇわ、この不惑目前のおっさんとは思えねぇ肌艶! つーか、トイレどうすんの? 風呂は? 俺マジ犯罪者の気分なんだけどっ!》
泣いてやる、などと嘆くデイジーは、本人曰くおっさんである。
ノリがよく馬鹿を気取っているが、情に厚い。良き仲間であり、友人。
そんな彼が作ったキャラクター『デイジー』は、紛れもなく幼女だった。
しかも、透けるように輝くふわふわのプラチナブロンドに、雲ひとつない青空を映した大きな瞳、雪のように白い肌をもつ、正統派天使系美幼女なのだ。
これで中身がテンションの高いおっさんだからこそ、彼をよく知るプレイヤーによって『残念幼女』なる呼び名がつけられた。
そのデイジーが、この世界にいる。
……つまり今、その残念極まりない幼女が、現実のものに。
これは当人の心痛はいかばかりか。
リコリスには計り知れない。
《泣いても許されると思うよ……》
《………………おぅ》
不自然な間の中に、涙の気配。
それからもしばらく沈黙が続いたが、チャットが終了したわけではないのは、視界の文字列の存在が教えてくれる。
だから、リコリスもただ待った。
《はぁ~~~~~~っ》
やがて、大きな大きなため息が届いた。
重々しくもあり、何かを解き放つような複雑な感情か含まれたそれ。
その余韻が消えてから、
《……よし! とりあえず体のことは保留だ保留。で? リコリス、俺は何すりゃいい?》
リコリスの知る彼らしい明るさが、何事もなく戻ってきた。
否、本当はまだ納得できてはいないだろう。
しかし、その気持ちをひとまず抑えこんで、先を見、自身のできることを、と。努めて、そうあろうとしている。
普段がどうあれ、やはり彼は尊敬すべき大人だった。
だからリコリスも、その覚悟に従う。
《そうだね。やっぱりまずは、ライラックさんとの合流と、食糧の増産かな》
先ほども軽く話したが、外の情勢は厳しい。
あれから順調に持ち直している――と妖精が報告してくれる――ヴィフの町も、リコリスが訪ねた当初はゲーム時代よりもかなり荒廃し、人々は痩せていた。
それより先の町に至っては、確かめることすらできていない。
鷹が運んできた不幸の手紙……ではなく、報告書から察するのみという、何とも心許ない状態である。しかも双子は物の見方が独特すぎるので、知りたい情報ほど手に入らないわけで(多分わざと)。
デイジーが帰って来てくれたのは、正直非常にありがたく心強い。
高レベルプレイヤーとその牧場の存在はもちろん、その牧場を経由して、他の町や都市のゲートに飛べるようになるからだ。
リコリスはスィエル周辺から離れられないが、デイジーにはそれができる。
しかし外の不安定さを考えると、それには養父ライラックとの合流が望ましかった。
デイジー本人は、中堅層のプレイヤーなら同時に100人相手取ってもびくともしないような強者であり、何ならリコリスに次ぐPVランク保持者だが、それはそれ。詳細不明の未知の場所に、友人を独り送り込むのは気が引ける。
《スキルの使い方とか、動きに慣れたら、外を見にいってもらいたいんだ。あと、食糧届けてほしい》
《そうか。お前さん、スィエルの横に出ちまってるもんな》
《うん。だから他の町にワープもできなくて。離れすぎると、出してる妖精も消えちゃうから……》
スィエルの町を最優先すると決めたこと。他の町を蔑ろにしたいわけではないが、結果的にはそうなっていること。
罪悪感はいつでも消えずにあるもので、語尾が弱くなる。
相手はそれだけで察してくれたのか、軽い笑いが返ってきた。
《ははっ、スィエル好きは健在かよ。まぁ、身内は大事にするもんだし、そう考えると引っ越ししててよかったんじゃね》
《……ん、ありがと》
優しい友人だ。本当に。
《ま、とりあえず異論はねぇな。父ちゃんに関しては、まぁ向こうから来てくれるのを待つか。俺の牧場が戻ってるのに気づいたら、顔見せてくれんだろ。……待つ間に体慣らして、こっちから探しにいってもいいけどな》
そこまで言って、一度言葉が途切れ。
《つーか、ソニアは? あいつと一緒に動いてもいんじゃね? 何なら今からグループチャットに切り替えて》
《あっ、待って待って!》
デイジーの提案は正しい。正しいが、まずい。まずい、気がする。
その原因の一端であるリコリスは、慌てて声を上げて制止した。
《? 何かあったのか?》
《あったっていうか……その。ええと、ソニアのところにはさっき……》
《さっき?》
《……………………双子を送りつけました》
《…………》
白状すると、表情が見えなくとも分かるほどに、重苦しくたっぷりとした沈黙があり。
《リコリス、お前…………………………………………ひっでぇな》
《そんな溜めて言わないでよっ! 分かってるもん! 分かってるけど、色々あったの! 呪いの指輪とか!!》
あの指輪がなければ、ソニアの想いが伝わることはなかったし、双子を飛ばそうなどとは思わなかった。
あくまでも、両思いであると確信できたからこそ。
《双子があれ嵌めてなかったら、さすがに私だってやんないよっ》
《えぇぇ、何やらかしてんだソニア……。いやいや、待て待て? 脅迫とか、無理やりとかの可能性もだな》
《両方とも、嵌まってたの薬指だったけど。左手の》
《マジで何してんだアイツ?!》
故郷を同じくしているからこそ、その意味は明白だ。
左手の薬指の意味を知らない、この世界の住人である双子が入手困難な指輪を強要したと考えるより、ソニアがその指を選んで贈ったと考える方が自然に決まっている。
《あいつら指輪の効果も、指の意味も知らないみたいだったし》
《……いやそれ、あえて教えてなかったんだろ。お前が教えてどうすんだ》
《うん、ごめん……》
ひどいことをしたとは思う。
それについては、リコリスも返す言葉がない。
《……まぁ、リコリスのが先にこっちにいたみたいだし、色々あるんだろうけどよ。ソニアは今、色々されてそうだなぁ》
《言わないで……》
想像したくない。
というか、想像がつかないから、余計恐ろしい。
《しゃーねぇな。じゃあ、あいつのことも保留ってことで……あと、やることってったら食糧の…………食糧?》
相変わらず、切り替えの早い男である。
仕事ができそうな人だ、とリコリスが感服していると、ふとデイジーの呟きが途切れる。
妙な途切れ方をした声に、リコリスは首を傾げた。
《デイジー?》
《あー、リコリス》
意外にも返事はすぐにあって、しかし気まずい響きがあった。
何事か起きたのか。緊迫しているわけでは、なさそうだけれども。
《すまん。もう一つ問題を見つけたわ》
《えっ、何?》
《あのな、俺……》
何やら言いにくそうに、友人の告白は続く。
《俺……花専門の牧場主だった》
配るどころか、自分の飯すら怪しいです。
リコリスの耳に、幼女の乾いた笑い声が聞こえた。




