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第85話 空気? 読まない。

(ソニア!)


 咄嗟に視線を横に移動させ、ビフィダの指輪でも濃灰だったデジタル文字が白く変じているのを確認する。

 ではフレンドリストはどうか。


 ぺろんと空中に現れた羊皮紙を模したリストの最上部に、白い花が一輪咲いているのが目視できた。この世界に戻ってから何度となく確かめていたその名簿に、その現象を認めたのは今日が初めてだ。

 おそらく、今のこの世界にはリコリス以外で唯一のプレイヤー。その出現を示すそれを、驚きをもって凝視する。



 親友が、帰ってきた。



「……っ」


 リコリスは即座にこの喜びを分かち合おうと口を開きかけ、そこではたと気づく。

 目の前で、いかにも不審げに彼女を見つめてくる双子。親友の帰還を、真っ先に知るべき2人だ。本来ならば。

 そう、この双子以外なら、きっとこんな風に迷わなかった。


 頭をよぎるのは、この世界に帰還した、まさにその時のこと。リコリス自身の記憶。

 混乱と不安に苛まれながら、あり得ぬはずの状況に恐怖した。存在しないはずの場所にただ独り、ただただ心細くて。

 きっとソニアもそんな状態だろう。

 そんなところに、この問題児たちを送りつけて大丈夫だろうか。


「リコさん? 大丈夫ですか?」


 気遣わしげに触れてくるライカリスを、リコリスは何も言えぬまま見上げる。


 リコリスに対しては非常に慎重で丁寧なこの男ですら、当時は扉を吹き飛ばす暴挙に出た。それほど取り乱していた。

 では、この双子ならどんな恐ろしいことになってしまうのか。

 できることなら、先にこの世界に暮らし始めた者として、こちらから連絡をとって、簡単な状況説明と覚悟を促すくらいはしてやるのが優しさなのでは。

 幸い、今双子はここにいて、時間稼ぎには最適な状態だ。2人を適当にあしらいながら、裏でソニアに色々とレクチャーしてやればいい。そう思うのに。


 頬に添えられた温かな手にそっと指先で触れ、リコリスは瞑目した。


(ソニア………………ごめん。本っ当に、心からごめん!)


 ああ、それでも。

 ソニアに最初に言葉をかけるのはリビダとビフィダであってほしい。

 2人を今すぐにでも、彼女の元へ送ってやりたい。


 親友の今後を憂う気持ちに偽りはない。しかし、パートナーへの双子の想いは、何よりも重い真実だった。

 どれだけふざけた奴らでも、そこだけは疑いようがないから。今までの短いやり取りでも、2人の目や声や態度から、それだけは十分に伝わってきたから。


 ごめんがゲシュタルト崩壊してしまいそうなほど頭の中で謝罪を繰り返しながら、リコリスは双子に向き直った。

 その表情は(罪悪感のせいで)厳しく、睨み据えられた2人の背が思わずといったように伸びる。


(ていうか、こいつらさえもうちょっとまともなら、こんなことで悩まなくてよかったんだけどね!)


 そう思えばこそ、目付きは一層きつくなる。

 が、もう腹は決まってしまった。


 主の意思を受け、クイーンたちが対象から手を離し、一歩を下がる。

 同時に、リコリスは握りしめたままになっていた1対の指輪をポケットに滑り込ませて立ち上がった。テーブルの上の食器を軽く避け、そのまま身を乗り出して。


「リビダ、ビフィダ」

「え、え~、何?」

「は、はい?」


 意味分かんないんだけど、と叩かれる軽口も、何やら嬉しそうに荒くなる呼吸も、隣から発せられるハラハラとした空気も黙殺して手を差し出す。


「左手出して」

「はぁ?」

「いいから出す!」


 唐突な命令に示された不快感すら切り捨ててやれば、その剣幕に気圧されたか、諦めたのか、あるいは腹の中で何か企んでいたりするのかもしれないが、ともかく双子が揃って左手を持ち上げる。

 それを些か乱暴にひっ掴んで(悔しいが、こんなことでは欠片のダメージも与えられない)、リコリスは近くなった薄紫の指輪を見、それから2人の顔を交互に見やった。


「指輪の」

「え?」

「この指輪の、使い方を教えてあげる」


 本当に、面倒臭くて腹立たしい変態たちだ。

 なのに、今この時、心で思うのは――、



(おめでとう。よかったね)



 ひたすらに厳しいばかりだったリコリスの表情が緩む。

 その、彼らには向けられるはずのなかった微笑みで、リビダはもちろん、ビフィダまでもぎょっとさせてから、リコリスはニヤリと笑みの種類を変えた。


「これで借りは返したことにしてね?」


 悪戯っぽく言い放って。

 それから、リコリスは更に大きく身を乗り出すと、掴んでいた手をそれぞれの顔に、――それはもう豪快に叩きつけた。

 ぺちん、どころでなく、べっちん、と。重い音が部屋に響く。


『ぶっ?!』


 短い呻き声は2人分。

 けれどそれが、本来なら当然続いたであろう文句や喘ぎに繋がることはなく。


「はっ?!」

「えぇっ?」


 ただ驚きの声だけを短く残して、その姿は淡い光に攫われるようにして掻き消えた。光の残滓がはらはらと散り、消えていく。


「頑張ってソニア~……」


 支えをなくし、ぺたんとテーブルに突っ伏して、リコリスは最後に残された、彼女にできる唯一のことをやり遂げた。すなわち、親友への無責任な応援だ。

 これでもう、できることはない。何もない。少なくとも、ソニアの方からコンタクトを取ってくるまでは。




(……さて)


 彼らのことは彼らに。

 では、こちらのことは自分が何とかしなければ。


 親友の帰還に背中を押され、リコリスは意気込みも新たに体を起こす。

 まっすぐに立って振り返れば、そこではまだ呆然とした様子の相棒が、向かいの空になった席を見つめていた。


「ライカ」


 穏やかに呼びかければ、ライカリスが小さく息を吐いて、リコリスに視線を動かした。


「帰って……きたんですね? ソニアさんが?」

「うん。双子の指輪が……えっと、反応してたから。すぐ分かったよ」


 プレイヤーであるリコリスには文字通り、一目で分かった。

 この世界の元からの住人には説明しにくいので、軽く誤魔化して頷く。


「では、今のでワープの発動条件を満たして……ソニアさんの元へ飛んでいった、と」

「うん、そういうこと」

「……なるほど。リコさんがアレの手を掴んだ時は、何をするのかと思いましたが」


 不愉快げに、僅かに目を細める相棒にリコリスは意地悪く笑ってみせる。


「それは、ほら。普通に教えてやるのも、ちょっと癪じゃない?」

「まぁ、それはそうですね」


 散々引っ掻き回してくれたのだ。少しくらい意表を突いてみたかった。

 そう告げて舌を出せば、ようやくライカリスに笑みが戻る。些か、疲れと呆れの混ざった微笑だったけれども。

 それでやっと脅威が去ったのだと実感できて、リコリスの肩から力が抜けた。


『…………』


 互いに小さく笑って、目が合って。それで、ふと沈黙が降りる。


「あの、リコさん」

「う、うん」


 おずおずと遠慮がちにかけられた声に、さりげなく腕を掴んできた大きな手に、緊張が戻ってきた。

 あの双子が絡むような、ともすれば命の危険すらある緊迫感ではなく、ただただ落ち着かない心地にさせられるそれは、例の話題を強く意識させる。つまり、半端になっていた、リコリスの持つ赤い指輪について、だ。

 そして、今度こそ邪魔は入らない。クイーンを1人、家の外に立たせているから。

 そっと、指輪をしまったポケットに手を当てる。


 受け取ってほしいと言った。大切な人に渡すものだとも。

 そこでリビダの茶々が入ったが、伝えるべきことは伝えてある。

 ライカリスは、これから何と言ってくるだろう。

 相棒は座っていて、いつもより目線が近い。それを見返すことができない。


「リコさん、……私に指輪を貰えますか?」

「……っ」


 待ち望んでい言葉は静かで、それでいて硬く、真剣で。

 ずっと一緒にいてくれると、この人は言ったのだ。


 思わず勢いよく顔を上げれば、ライカリスがまっすぐにリコリスを見つめていた。その目元は仄かに赤い。

 それを見て、心臓の辺りが一層痛いくらい騒がしくなって、言葉は喉の奥に引っかかったように一つも出てこなくて、リコリスは黙って何度も頷いてみせた。

 慌てて取り出した指輪が2つ、つるりと手の平の上で光る。


「じゃあ、えっと」

「……はい」


 片方の指輪をつまみ上げたリコリスに、ライカリスが左手を差し出してきた。

 その緩く広げられた長い指にそっと手を添えて、彼女は必死で口を閉ざす。でなければ、問いかけてしまいそうだったから。本来にいいのか、と。後悔しないか、と。

 口にすればさすがに怒らせてしまいそうで、その衝動を、唇を引き結ぶことで抑えつける。


(えぇいっ、女は度胸!)


 奇しくも今、彼方にいる親友が同じような気合いの入れ方をするハメに陥っているとは露とも知らず。

 リコリスは小さく息を吸い込んで、大人しく待っている相棒の指に小さな輪を押し込んだ。もちろん、左手の薬指に。

 魔法アイテムだからかサイズは特に問題にならず、透明感のある赤は抵抗なく指の根本へと収まった。


(やっ、やったああっ!)


 それだけでもう、やりきった感満載だ。心の内で歓声が上がり、ファンファーレが鳴り響くが。

 ……まだ終わっていないことを思い出したのは、ライカリスが空になったリコリスの左手を掬い上げてから。

 新たな色彩を得た手が、残されていた赤を攫った。


(わ、わ……っ)


 今しがたリコリスがしたそのままを、彼女の手とは違う男の手が再現する様に、思わず息を呑む。

 そう。確かにライカリスに指輪を贈れば終わりなのではない。対の指輪が嵌められて初めて、役目を果たすのだ。

 それは分かっているが。


(これ、これって、だってだってっ)


 これではまるで。

 何も言えないリコリスを余所に、ライカリスの動きは淀みない。

 やがて、それはあるべき場所に進み行き、リコリスの真っ白な指に、鮮やかな赤が咲いて。

 先の片割れと同じように、引っかかることもなく落ち着くと、互いの指輪が一度控えめに光を放った。


 そして相棒には見えていないが、見つめれば応えるようにぺろんと吐き出される文字列。

 リコリスの元には、ライカリスの。ライカリスの元にはリコリスの。

 それぞれの名が白く刻まれている。


『はぁ……』


 どちらともなく詰めていた息を解放し、俯けていた顔を上げれば、視線がぶつかる。

 ライカリスの頬は紅潮していて、リコリスの顔も当然熱い。

 何だこの、死ぬほど照れ臭い空気。

 そう思ったのはリコリスだったが、ライカリスも目を泳がせているあたり、似たようなことを考えたかもしれない。……もしかしたら腰の蝙蝠様も。


「つ、使い方! 教えるねっ?」


 纏わりつく空気を振り払うように、リコリスは左手を掲げてみせた。

 先ほども似た発言をしたが、あの時とは心境が全く違って、声は不必要に大きく不自然に明るく。気にかける余裕もなく、相棒から距離をとる。


「ライカも向こうに移動してくれる?」

「え、えぇ、分かりました」

 

 自身の進行方向とは逆の壁を示せば、普段の落ち着きは感じられないが素直に応える声。

 それを振り返れないまま、リコリスも扉の前に移動する。

 ようやく覚悟を決めて振り向くと、テーブルを挟んで向かいの壁近くには、指示通り佇むライカリスがいた。


「……見ててね」


 一声かけてから、リコリスは左手を持ち上げる。

 その指にある、もう抜けることのない指輪をゆっくりと口元へ。

 ひんやりとした鉱石の輪に唇を押し当てると、その途端、淡い光がリコリスの体を包み明滅し始めた。


 どちらか移動したい方がその指輪に軽く口づける。

 これがこの指輪の正しい使用法である。説明にもそう表記されている。

 間違っても、双子にしたように勢いよく叩きつける必要などない。

 アレはもちろん、リコリスの双子への意趣返しだった。

 ビフィダが喜ぶほどのダメージが与えられずとも、多少は痛かったはずだし驚きもしただろう。いい気味だざまあみろ。特にリビダ。


 そうして光の発生から瞬き一つの間に、リコリスの姿は扉の前から消え失せる。

 次いで、部屋の反対側で待つライカリスのすぐ目の前に、今消えたばかりのその姿を現した。


「こんな感じかな」


 互いの体が触れ合うほど近くに立って嬉しそうに笑うリコリスを、ライカリスがまじまじと見下ろす。

 瞬きを繰り返す相棒に、リコリスが「ライカもやってみる?」と身を翻すと、不意に視界の両端から腕が伸びた。


「わっ?!」


 背後から伸ばされた腕は、リコリスの胸の前を通って肩に回る。

 開いた距離の分を引き寄せられたかと思えば、リコリスの頬を柔らかく擽る何かがあって、肩に僅かな重みがかかった。


「ラ、ライカ?」


 戸惑う声に、ライカリスの腕が力を強め。


「ありがとう、ございます」


 耳に届いたのは、絞り出すかのように紡がれた謝意。

 震えるそれはリコリスの胸を突き、彼女もまた目を閉じる。


「私の方こそ、ありがとう」


 肩に乗せられた重みに、リコリスはそっと手を触れた。

 それ以上はどちらも何も言わず。心地いい沈黙が降りる。




「すみません、……嬉しくて」


 ややあって、先に動いたのはライカリスだった。

 照れ臭そうに言って、リコリスを囲いこんでいた腕を緩める。


「ん、いいよ。私だって嬉しいんだから」


 リコリスがぽん、と軽く相棒の肩を叩くと、はにかむ笑みが返された。


(よかった……)


 指輪を受け取ってもらえたことも嬉しいが、こんなにも喜んでくれたこともまた嬉しい。

 片思いは継続だけれど、それでもお釣りがくるくらいに心が軽くなる。


「じゃあ、ライカも試してみる?」

「そうですね。せっかくですから」


 改めて、左手を掲げてみせての提案にライカリスが頷くのを確認して、リコリスはまた扉の前を目指した。


「そういえば、リコさん」


 足取りも軽く数歩を踏み出したところで、後ろから投げかけられた何気ない呼びかけに、リコリスの足が止まる。


「ん?」

「さっきの話ですけど、左手の薬指の意味って、何だったんですか?」

「…………えっ?!」


 ライカリスには何気ない疑問なのだろう。

 リコリスにとって、そこまで頑なに隠すことではないが、双子には言いたくなかったとか。だから、双子がいなくなった今なら別に訊いてもいいだろう、みたいな。

 そんな、軽い問いかけだった。ライカリスにとっては。

 ところがリコリスにしてみれば、全く軽くなく、軽くないどころか、受け止められないくらいには重いそれだ。

 誇張でなく肩が跳ねた。


(しまったどうしよう何て誤魔化すか考えてなかった~~っ!!)


 というより、そんな話題があったことを失念していた。

 肩越しに振り返りかけた体勢のまま、リコリスの体は硬直する。

 相棒の顔を見るのが辛い。


「え、え~っと……」

「……リコさん?」


 何と言えばいいのだろう。

 リコリスがライカリスに、ソニアが双子に贈るの指輪のその位置に、相応しい言い訳とは。


 ……本当は、リビダに訊かれたあの時に、適当に誤魔化すべきだった。愛情がどうとか、友情がどうとか、そんな感じのものが永遠につづくように、とかとにかく適当に。

 それができなかった時点でリコリスの負けだ。あの時と、今と、二度もチャンスはあったのに、慌てて思考停止してしまったから。


(ちっくしょう! リビダなんかその○◇※△に▽□て☆◎てしまえ~~っ!!)


 ここにはいない男を、頭の中で口汚く罵る。これは正当な八つ当たりだ。


「えっと、その、うーあー」

「…………」


 もごもごするだけのリコリスに、ライカリスは何を思ったのか僅かに首を傾げ、それから片手を持ち上げた。その、呪いのかかった左手を。

 それに錯乱中のリコリスが気づくより、ライカリスが彼女の前に立つ方が早いわけで。

 はっとして意識を戻した時には、たった数歩をショートカットした相棒が、リコリスを見下ろしていた。


「な……っ」

「確かに便利ですね、これ」


 今度は正面から、リコリスの背に腕を回したライカリスが楽しげに笑う。


「で、……リコ?」


 容赦なく答えを促す、悪魔の声がする。


(いやいやいや、言えないからっ)


 さすがに引かれてしまう。

 そうなったら、絶対に立ち直れない。


 顔を伏せれば、目の前にある胸元に額が当たる距離で、逃げ場は皆無。

 これ以上途方に暮れる暇すら与えてくれそうにない気配が、リコリスを追い込んでいく……その時だった。




《リコリス~~~~~~ッ!!》




 甲高い、遠慮も何もない大きさの、悲鳴のような少女の声。

 それが頭に突き刺さったのは。


「きゃあああっ」

「リコさん?!」


 それが耳から入ってきた音とは違うと、気づく前に声を認識した脳が揺れる。

 眩暈を起こしそうな叫びに、リコリスは反射的に両耳を覆った。


「うぅ……っ」


 彼女を苛んでいた緊張を、意識ごと吹き飛ばしてしまうかのごとき衝撃に、しかしどうにか踏みとどまる。

 何事かと身構えながら、しっかり体を支えてくれているライカリスに、リコリス自身も理解が追いつかないまま、とりあえずの返事を返そうとして。そろりと目を開いて、気づく。

 視界の端に浮かぶ、今まで存在しなかった筈のものに。

 それを目で追って、



「デイジー?!」



 リコリスはひっくり返った声でその名を叫んだ。

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