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第76話 秋を誘う風

 その日、リコリスはいつもよりも慎重に家の扉に向き合った。しっかりとノブを握り、ゆっくりと押し開け……。


「わっ」


 僅かばかり開いた瞬間、細い腕の用心など、一息に吹き飛ばされた。

 開いた隙間に入り込んだ強い風が、その勢いのまま扉を無理矢理こじ開けてしまったのだ。

 当然、そこにしがみつくようにしていたリコリスも一緒に、大きく振り回される羽目になるわけで。


「わあぁっ」

「リコさん!」


 後ろから伸ばされた腕が、引き摺られたリコリスの腰に回される。同時に大きな手が扉の縁を掴んで押さえた。


「大丈夫ですか?」


 リコリスと扉の両方を容易く確保したライカリスが、上から覗き込むように見つめてくる。


「あ、ありがと」

「気をつけてくださいね。今日からしばらく続きますから」

「うん、分かってる」

「あと、今みたいな時は、潔く手を離しましょう。リコさん軽いんですから、飛んでいってしまいますよ」

「……はぁい」


 跳ねてしまった髪を、ライカリスが丁寧に整えてくれる。だが、いくらそうしてもらっても、またすぐに乱れてしまうだろう。

 大人しくされるがままになりながら、リコリスは外に目を向けた。

 見渡した先では、牧場の向こうの森の木々が、強い風に煽られ大きく揺れている。

 この強風は、衰えぬ暑さを誇る夏の最後の月が、終盤に差し掛かったことを告げるものだった。




 リコリスの過去は、この1ヶ月弱の間に順調に夢として再生されてきた。

 未だ異変の原因に触れる記憶はないものの、心構えに一役買うような知識をいくつか取り戻せている。

 ゲームの画面先の情報以上の、生身の経験からくる知識。それはリコリスに、僅かでも余裕をもたらしてくれる。

 例えば、今日のこの風もそう。


 この世界では、4つの季節がきっちり3ヶ月ごとに分かれているのだが、その季節の終わりに次の季節への準備期間がある。

 その期間は10日。10日の間に、季節の終わりと始まりを知らせる風が吹く。

 否、知らせる、というのでは足りないかもしれない。

 なにせ、その風といったら、それまでの季節の特色を全て吹き飛ばしていくような強いもなのだから。


 今日吹き始めた風は、これから夏の3の月の最終日まで吹き続ける。

 この間に強烈な暑さも、乾いた空気も風に攫われ、青々と繁っていた木々の葉は、赤や黄色に塗り替えられ、あるいは落ちて鮮やかな絨毯を作り出す。

 そうして、暦の上で秋が来る前日までに、全ての夏を連れていってしまうのだ。

 他の季節も同様で、だからこの世界には、日本にあった二十四節気や残暑残寒などの言葉は存在しない。夏はずっと暑いし、これからやって来る秋はずっと程よく涼しいのである。

 もちろん、やたらと広いこの世界のこと、例外となる土地も多いが。


 ともかく、リコリスの取り戻した記憶の中に、この風を初めて体験した日のこともあった。

 いくらゲームで強い風が吹くと聞かされていても、目にしてみれば予想以上。リコリスが思い出したのは春から夏に変わる時のそれだったが、とにかく大型台風並みなのだ。

 ライカリスが言った、リコリスが飛ばされるというのも、比喩でもなんでもなく、場合によっては簡単に発生する事態だった。

 というか、実際ちょっと飛ばされたこともある。

 そのことを思い出せていたのは非常に幸運だった。

 深夜に外を吹き荒れる風の音に怯えることも、朝、慌てて外に飛び出すような危険な真似も避けられたのだから。後者は別の危険があったけれども。


(でも、やっぱり思い出せると違うなぁ)


 昨日の夢に出てきた、美しい薄紫の髪の少女を想う。

 心構えの面でも大きいが、自分が戻ってきたような、何とも不思議な満足感がある。

 今のリコリスに結びつくまでに、あとどれだけかかるだろう。焦ってはいないが、待ち遠しくはあった。




■□■□■□■□




「師匠、俺決めました!」


 フォークを握ったファーがそんなことを叫んだのは、風が吹き始めた日の昼食の時だった。


 強風の間は迂闊に出歩くのも危険なので、特に女たちには注意を促してあった。

 元々この世界の住人である弟子たちだ。そのことはリコリスよりもよく知っているはずだし、あらかじめ引き篭もれるだけの食料を渡す予定でもあった。

 だが、弟子たちたっての願いが通された結果、今日もこうして、皆で食卓を囲んでいる。


 その席でのこと。

 行儀よくスパゲティをくるくるしていたと思ったファーが、唐突に声を上げた。

 発言内容と声の大きさのわりに悲壮な感じは全くなく、それどころか嬉しそうな楽しそうな表情で。


「俺、魔術師(ウィザード)になりたいッス!」

『?!』


 リコリスとライカリス、それからジェンシャンを除く全員が、揃って目を剥いて固まった。

 チェスナットとウィロウも何も聞いていなかったのか。いつも一緒にいる分、輪をかけて驚きが大きかったようで、チェスナットの口からスパゲティが3本飛び出しているし、ウィロウも盛大に噎せている。

 彼らの直接の戦闘の師であるライカリスも、固まったり噴いたりこそしなかったが、代わりに眉を跳ね上げた。

 無理もない。この相棒は男たちは、3人とも前衛職を選ぶものと思って疑ってもいなかったようだから。事実チェスナットは戦士(ウォリアー)、ウィロウは暗殺者(アサシン)を希望している。

 てっきりファーもそうなのだと、リコリスも思っていたのだが。

 ゴツい大男の魔法使いの姿を想像しながら、リコリスはやや首を傾げてファーを窺い見た。


「ちなみに、どうして?」

「んーとですね、俺鈍くさいんで……前にいたらすぐ斬られちまいそうだなって」


 頬を掻き掻き、ファーが話す。


「こないだ、また髪毟られたじゃないッスか。なんか、あれでやっぱ俺、前衛無理だと思って」

「あぁ……」


 もう何度目になるか。

 繰り返された悲劇が、ファーの人生を左右したらしい。

 フォークを置いた彼は、ライカリスに深々と頭を下げた。


「せっかく戦い方教えてもらったのに、すみません」


 それまでの教えが無駄になると、心底申し訳なさそうにしているファーに対し、既に平静に戻ったライカリスは面倒臭そうに息を吐いた。


「魔術師になるからといって、鍛えなくていいとでも? あり得ませんね。どの職を選んでもある程度は動けないと話にならないんですよ。あなたたちに教えたのは基礎の基礎。これからもしばらくは今までのような鍛錬が続きます。鈍いのを自覚したのは結構ですが、甘えないでください」


 厳しいようでいて、そうでもないような。しかし、ライカリスにしては、親切によく喋った。

 リコリスはそんなどうでもいいことに少々気を取られたが、すぐに意識を戻す。


「ライカの言う通り、今までのことが無駄になったりはしないし、実際戦闘になったら役に立つことの方が多いと思うよ」


 相棒の発言を、リコリスは適度に翻訳していく。


「魔術師になるって決めたなら、それはもちろんそれでいいと思う。得意不得意を考えるのは大事だしね。ただ、訓練は今までみたいにチェスナットとウィロウとやってもらうことも、まだまだ多いかな。魔法の使い方って、魔術師になってみないと説明難しいし」


 魔法の使用に関しては、魔術師も、リコリスの副業サブクラスである神官(プリースト)も大差ない。

 だが、どちらにせよ職業(クラス)を取得してからでなければ、使い方の説明はできなかった。 そして、その肝心の職業取得が、当面は無理なのだった。


 リコリスの説明を受けて、ファーはひとつひとつに頷きつつ聞き入り、最後に晴れやかな笑顔を見せた。


「分かりました! これからも修行頑張るッス!!」

「うん」


 それにしても、これで弟子たちのほとんどが希望職を決めたことになる。

 アイリスは騎士(ナイト)志望で、ジニアは神官がいいと言っていた。後は。


(ジェンシャンだけ、か)


 リコリスの目が無意識にジェンシャンに向かう。

 と、相手もまたリコリスを見ていたようで、ぱちっと視線が重なった。


(……え)


 目が合った途端、意味深に微笑まれてしまった。


「ジェンシャン?」

「実は、私も職業を決めましたわぁ」

「そ、そうなの?」

「ええ」


 ジェンシャンの笑みが深くなる。

 嫌な予感がするのは何故なのか。

 ドキドキし始めたリコリスから、ジェンシャンは目を逸らすことなく、軽く息を吸い、



「私、妖精師(フェアリーマスター)になろうと思います」



 そう、静かに告げた。

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