第73話 人でなしの優しさ
難航するかと思われた真珠探しだったが、リコリスとしても予想外な幸運に見舞われた。
これまでに上がった歓声は5人分。
半分も見つかればいいと思っていのに、何とも運の強い弟子たちだ。
……が、強運が5人ということは、まだ1人、たった1人だけ、残っているということでもある。
最後に歓声が上がってから、1時間弱。
半ば以上沈みかけた太陽が、空と海とを見事な朱に染め上げる。
水平線に見えるその日最後の輝きとは対照的に、浜から続く山々は黒く沈み、あるはずの緑ももう確認できなくなっていた。
リコリスのいた世界と違って、この世界では灯りがなくとも完全な暗闇にはならないのが救いといえば救いだが、それでも暗いものは暗い。何もない状態であるのならともかく、無数の蟹が散乱する砂浜は、やはり普通に歩くのも困難だ。
大量の妖精は浜を歩き回り、その淡い光は確かに彼女らの足元を照らしはするものの、それもやはり微かなもので、周囲を煌々と照らし出すには足りず。
しかしそれでも、誰一人として「もう諦めよう」と声を上げる者はいない。真っ先に他者を切り捨てそうなライカリスですら、空気を読んで黙っていた。
そうして皆、真珠にありつけていない最後の1人――チェスナットの元に、ただただ黙々と蟹を集め続けている。
弟子たちと同様に休むことなく手を動かしながら、リコリスは僅かに意識を集中させ、時間を確認する。
薄闇の中にも不思議と埋没することなく浮かび上がるデジタル数字は、1秒も乱れることなく時を示している。
それは当たり前のことだったが、彼女はそっと眉を顰めた。
(うーん……そろそろかなぁ)
日没などよりも、もっと容赦のないタイムリミットが迫っている。
こうも暗くなる時間まで真珠探しの予定は、本来ならばなかった。なかったが、今も必死の形相で蟹を割っているチェスナットに諦めろとは言えないし、リコリス自身も諦めたくはない。
何より日が暮れただけならば、妖精をぎゅっと密集させて手元だけでも照らせるだろう。
しかし、蟹たちとの戦闘開始からそろそろ4時間。その時間が何を意味するのか、これまでに幾度となくモンスターとの戦闘を重ねてきた者なら知っている。
この世界に生きる一般的な動植物と、伝説上では神々の怒りから生まれた存在、モンスターに分類されるものの違い。見た目の多彩さや、進化の突飛さよりも明確な差。
それは、その死後、死体が存続するかどうか、だ。
例えば、普通の哺乳類が死んだ場合、何か特殊な状況でもない限りは、いずれ肉を腐らせ土に還るだろう。相応の時間をかけて。
しかし、モンスターはというと……。
真夏の気温で品質が悪くなるところまでは同じ。だが、そこから誰にも拾われることなく、誰のものともならないまま一定時間が経過すると、跡形もなく消えてしまうのだ。
そして、その一定時間というのが、きっちりと決まっているわけではないが、大体4時間。
4時間を経過したモンスターの死体は、いつ消滅してもおかしくない状態となる。
つまりまだ無数にあるこの手付かずの蟹たちは、もうすぐ――。
(んんん。間に合うかな、どうだろ)
蝙蝠ポーチで吸い込んでしまえば、おそらくリコリスのものになってしまうのだろう。中身の真珠まではどうだか分からないが、試すわけにもいかないし。
焦りで支障きたすような作業でないのは幸いだったが、それでもどれだけ焦ったところで、できることは限られている。なんてもどかしい。
「……リコさん」
迫る闇と強制終了にリコリスと弟子たちが焦り表情を歪めつつある中、1人やる気のない表情でいたライカリスが声を上げた。あからさまに面倒臭そうな声音で、面倒くさそうな顔をして。
そろそろ我慢できなくなったのだろう。今まで黙っていられただけ快挙というべきかもしれない。むしろここまで付きあってもらえただけ、ありがたいと思う。
相棒の戦線離脱を覚悟したリコリスだったが、続けられたのは予想外の言葉だった。
「もっと効率のいい方法を考えたんですが」
「えっ?!」
予想もしていなかった発言に、リコリスの声がうっかり裏返った。
そんな彼女に、相棒は意地悪い笑みを向けてみせる。
「やめると言うと思ったんでしょう。まぁ、言っていいなら言いたいですがね」
「う、ご、ごめん……」
「いいんですよ。さっさと終わらせたいのは本当です。いい加減、厭きました」
ばっさりと言い放たれた言葉に、チェスナットがしょぼんと肩を落とすのが分かった。他の弟子たちや、ウィード、妖精たちまでもが固まっているのも。
そんな彼らの様子を気にすることもなく、ライカリスは続ける。
「でも、リコさんは諦めたくないでしょう? だから、ちょっと考えたんですよ」
これをこうして、と言いながら、ライカリスは近くにあった蟹を手早く何体か積み上げた。
そうして、崩れないように器用に積み上げられた蟹小山を指差す。
「この状態で、チェスナットさんに一気に壊してもらえば早いと思いませんか」
「あぁ、なるほど……ん、いや、でも待って。チェスナットにそれできる?」
考え付かなかった方法だ。そして、確かに有効かもしれない。ただし、ライカリスならば、だ。
疲れきっている弟子に、そんな攻撃力があるだろうか。疲労がなくとも、難しいかもしれない。
提案されたチェスナットも、申し訳なさそうな、切ない視線をライカリスに向けている。
しかし、当のライカリスは「いいえ」と首を振る。
「やるのは私がやりますから」
「ん? え? ……どういうこと?」
嫌な予感がしてきた。
怪訝な顔をしたリコリスとは対照的に、相棒は常と変わらぬ微笑を浮かべて。
「私がチェスナットさんの足を持って、蟹に叩きつければいいんです」
――予想以上に鬼だった。
あんまりにもあんまりな提案に、何とも言えない沈黙が降りる。
引き攣った顔で固まる弟子たち、尻尾を丸めるウィード、そっとライカリスから1歩引く妖精。果てしなく居心地の悪い空気の中、リコリスは眉を寄せ、額に手を当てた。
確かに、それならばチェスナットが壊したことになるだろうし、かなりの時間短縮にもなるだろう。しかし、それにしても。
「想像するだけで痛い……」
一般人からすれば十分硬く、しかもやや刺々しい蟹の甲羅に、それを余裕で破壊するライカリスの腕力でぶつけられる――痛いだけで済めばいいが。
考え、やはり止めたほうがいい気がした。人として。この相棒にまともに意見できるのはリコリスだけなのだから。
しかし、それを己の一存でやってしまってもいいものか。この案を受けるかどうか、決める権利があるのはチェスナットなのに?
リコリスの逡巡を察したのか、ライカリスが軽く肩を竦めた。
「そうでしょうね。無理にとは言いませんよ。チェスナットさん次第です」
どうする、と。問いかけられたのが、音にはなされずとも伝わった。
全員の視線がチェスナットに刺さる。無理は厳禁、やめるも勇気。そんな気遣わしげな視線だ。
提案したライカリスも、別に強制するつもりはないのだろう。普段の鍛錬のような圧力はなく、問いかける口調も普段よりは柔らかい。
「……っ」
歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑ったチェスナットが、その場に勢いよく膝をついた。同時に両手も砂浜に叩きつけられる。
一見して、心折れて崩れ落ちたかに見える動作は、しかし――、
「お、おおお、お願いしますっ!!」
決意の声によって否定された。
恐怖に震えながら、覚悟を伝える声だった。
(……仕方ない)
弟子本人が決めたのなら、師として応援するしかないではないか。
これ以上、迷っている時間もない。
【防御力上昇】
【損傷軽減】
【持続回復】
「うおっ?!」
この苦行に対し有効と思われるスキルを、チェスナットに重ね掛けする。暖色の光が一瞬夕闇を退けて、驚く弟子に纏わりついて消えた。
【防御力上昇】はその名の通り、対象者の物理防御を上昇させる。上昇量は使用者のスキルレベル依存だが、残念なことに対象者のステータスに対してパーセントで上昇するため、チェスナットのように低レベルの者にはいまいち効果が薄い。
【損傷軽減】の方は、対象者の総HPの10%分のダメージを無効化するスキルだ。これもまた低レベルでHPの少ないうちは効果が微妙なのだが、【防御力上昇】と違って消失するたびに次々とかけなおしていくことで、それなりの成果を期待できるかもしれない。
そして【持続回復】と合わせて【単体回復】を連射していけば、想像していたよりも相当被害は軽くなりそうだ。
もしかしたら、ダメージ0にもなるかもしれない。しかし、逆にそれらでもカバーできないかもしれない。
その辺りはチェスナットを振り回す、ライカリスの力加減次第だったりする。そう、なんとも恐ろしいことに、だ。
蟹の甲羅がちょうど割れる程度の威力にとどめてくれればいいが、うっかり力を入れすぎると、下手をすると首がポロッと……。
(……。……いや、さすがにないな! いくらライカでもっ)
まさかリコリスの目の前で弟子にトドメを刺すことはあるまい。相棒の、リコリスに対する良心と器用さを信じよう。
嫌な想像を振り払い、リコリスは首を傾げる。
「えーと、後は……」
もう目ぼしいスキルはない。他には何かできるとしたら、装備だろうか。
リコリスが首を捻ったところで、何かが彼女の腰の辺りから勢いよく飛び出した。
「!」
膝をついたままのチェスナットの目の前に着地した影は、打ち出された勢いで砂を跳ねながら、何度かくるくると回り、すぐに失速して転がった。
ぽかんとそれを眺めていたチェスナットが、視線を彼の師の、腰で笑っている蝙蝠ポーチを見る。
「……ヘルメット……ッスか?」
「あぁ……そうだね」
リコリスたちプレイヤーにはお馴染みの、工事現場で見る黄色いアレだ。
見た目だけで判断すれば、間違いなくネタ装備。だが、これは意外に優れものだった。
元々低レベル層でも戦闘系イベントを楽しめるようにと売り出された物で、レベル1から装備できる防具にもかかわらず、物理防御は高めに設定されているからだ。
魔法防御やその他のボーナスを考えないなら、レベル100まででも使えるような代物だった。
昼に弟子たちに渡した防具よりも、物理防御だけは優れている。
更に続けて吐き出された各部位の防具も、いずれも同用途のものばかり。
剣道具の胴部、ネックレスの代わりに頸は椎固定シーネ、手はごつい溶接手袋、下半身は西洋甲冑で、最後に靴代わりのギプス。全部身につければ何の罰ゲームかと思うようなちぐはぐさに、これらが売り出された当初からプレイヤー盛大なツッコミが入っていたものだが、とりあえず防御は高い。防御だけは。
「これ……なんつーか、コレは……」
「言いたいことはすっごくよく分かるんだけど、諦めて」
「さっさとしてください。着ないなら生身のままやりますよ」
「?! き、着ます!」
出された防具を見て激しく微妙な顔をしたチェスナットを、リコリスが引き攣った笑顔で促し、ライカリスが冷めた顔をして切り捨てた。
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「ぎゃああああぁぁぁっがっ! ぅごっ!! ぐへっ!! あだっだっあぎゃああっ」
薄闇に、野太い悲鳴と、それに合わせた破壊音が響き渡る。
これが太陽の光の下だったなら、白目を剥いた大柄な男を、蟹の山に何度も叩きつける無表情の細身の男、それをガン見しつつ定期的に発光する女と、その周囲に青い顔をしながらせっせと蟹を積む男女複数名という、不気味な光景がはっきり見えたことだろう。
しかし今は夕日はとっくに水平線の向こう。リコリスの放つスキルの光と、妖精たちの淡い輝きのみが周囲をぼんやりと浮かび上がらせ、それで一層怪しい雰囲気を強化している。
当人たちにそれを気にする余裕がなかったことと、見物人がいなかったことは幸いだったかもしれない。
けたたましい悲鳴を上げ続ける弟子から、リコリスは片時も目を離さなかった。
闇の中でも問題なく表示される、【損傷軽減】の効果と【持続回復】の残り時間、チェスナットのHPを油断なく確認し、連続でスキルを放つ。蟹たちがいつ消えてもおかしくない状況で、どうしても顔を出しかける焦燥を抑え、精神状態が重要なスキルの使用に影響しないように心がけながら。
妖精師がMPの多い職業で本当によかったと、余裕のない思考の片隅でそんなことを思う。
そうして、どれだけ悲鳴と破壊音を聞き続けたのか。
周囲の破片がまだ消え始めてもいないことから、さほど時間は経っていないのだろうが、視界が利かない中で制限時間に追われながらの絶え間ない悲鳴というのは、精神衛生上あまりよろしくない。随分と長く感じてしまう。
普段なら問題ないはずのスキルの連続使用が、今回ばかりは結構な重荷で。
(お願いだから、)
額に汗を浮かべ唇を噛んで、
(見つかって……!)
リコリスが何度目かに強く祈った――その時。
闇の中に小さな小さな光が浮かび上がった。
スキルでも、妖精でもない、ささやか過ぎるほど小さな、オレンジ色の光の粒。
「! チェスナット!」
リコリスが叫び、破壊音がピタリと止んだ。
同時に、死体のように脱力し、なされるがままだったチェスナットの体に、一瞬力が漲る。
精一杯伸ばされた両手が、弧を描いて地面に消えようとしていた光を、挟み込むように掴み取った。




