第72話 蟹山に一粒の宝を求めて
瞬きひとつの間に走り去る背を、リコリスはいささか困った顔で見送った。
相棒を独りで戦いに出向かせるのは気分のいいものではないのだが、しかし相手はたかだかレベル150。妖精なしのリコリス単体にも狩れるだろう。
ましてや戦闘職のライカリスであれば、下手な手出しは邪魔にすらなり得る。
ならば、できることは。
「クイーン、ライカの手伝いお願い」
「かしこまりました」
現れたクイーンは8人。
内1人が返答し一礼して走り出し、残り7人もそれに続いた。
その時にはライカリスは既に蛸に到達していたが、それでもすぐに追いつく。
長い足を動かして、蛸がライカリスを捕らえようとしているのが見えた。
その悉くを悠々とかわし、あっさりと相手の懐に入り込んだ赤が、一瞬リコリスの視界から消える。
そう思った瞬間、彼の姿を隠した足の1本が大きく弾け飛んだ。
大きさが大きさなだけに、足も相当な太さがあるはずだ。
だが短剣が振るわれたのはただの一度。その一度で巨大な蛸の足は根元から切断され、宙を舞った。
切り取られた足が不自然なほど高く舞い上がったのは、ライカリスが蹴り上げたからだろう。
本体を置いて弧を描いた足は、砂に落ちる前に滑り込んだクイーンに受け止められた。
大切な足を奪われた怒りからか、あるいは捕食者の出現を理解したからか、蛸の動きが激しくなった。
それまでは片手間に蟹に足を出す余裕を見せていたのが、ライカリスだけを全力で捕らえようとする動きに変わる。しかしそんなものは、あの相棒にはなんの意味もない。
砂に足を取られることもなく、繰り出される蛸の足を踏み越え。根元に接近するまでが本当に一瞬で、一呼吸の間にはもうその足が切断されている。
その間クイーンたちはその周囲を取り囲んで時計回りに回りながら、足が降ってくるのを待っていた。傍目には何となく、怪しい儀式のようにも見えた。
そうして上手く足をキャッチしたクイーンから順に、両手に余るほどの蛸足を、引き摺ることなく器用に抱えて、リコリスの元に戻り始めた。
「ただいま戻りました」
声はいつも通りたおやかに。けれど、バランスの問題からか、一礼は省かれた。
「おかえり。ありがと、クイーン」
近くで見ればますます巨大な蛸足を見上げ、リコリスはさっと手提げ蝙蝠を構えた。
どれだけ量が多かろうが、巨大であろうが関係ない蝙蝠の口の中に、蛸足もまた消えていく。
収めてしまえば鮮度は維持されるから、また食べたい時に取り出せばいいのだ……が。
(てか、捌けるかなぁ)
足の1本がリコリスの身長を余裕で超す長さで、太さもまたリコリス3人分。
ただぶつ切りにするだけで、包丁ではなくノコギリが必要になりそうだ。
続々と帰ってくるクイーンの抱える足を見て、リコリスは改めて不安に駆られていた。
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蛸を捌き終えた後、蟹戦は何事もなかったかのように再開された。
蛸に相当捕食されてしまったとはいえ、まだまだ残っていた蟹も、弟子たちによって狩られ、あるいは海に戻っていき、太陽が夕暮れの赤を見せ始める頃には浜辺は元の静けさを取り戻していた。あれだけ響いていた鋏がガチガチと鳴る音も、もう聞こえない。
「さってと、それじゃ蟹も回収しよ~」
戦いの後に残った無数の蟹を前に、リコリスは手を叩く。
大量の甲羅に埋もれるようにして切れ切れになった息を整えていた弟子たちは、その声にのろのろと立ち上がった。
「休憩させてあげたいんだけど、日が暮れちゃうからね」
疲労困憊の弟子たちを労いたい気持ちは多分にあったが、もう少しでこの海岸は闇の中。魔術師でもないリコリスには、それを照らす術がない。松明がないでもないが、海岸全体を照らす量などあるわけもなく。
もしかすると淡く光っている妖精たちが灯り代わりに……と考えもしたが、できなかった場合を思えば、日が沈む前に終わらせなければ。
「ポーン、ナイト。とりあえず蟹の脚集めちゃって」
蟹を倒す度にそれを避けて戦闘が続行されたため、目標は相当広範囲に散らばっている。
それに対応するために、これでもかという数を召喚されたポーンとナイトが、リコリスの指示に従って走り出した。
ナイトはその武器で脚を断ち、それをポーンが掻き集め始めるのだ。
脚はそのまま食材であるため、これ以上の放置は望ましくない。
この食材の入手は、今回の海での目的の1つだった。
そして、もう1つ。
重要なことがあった。
「――で、疲れてるとこホント悪いんだけど」
弟子たちに向き合って、リコリスは転がる蟹の本体を指差した。
「これ割って、中の真珠集めるから」
「真珠……ですか?」
不思議そうに問いかけてくるアイリスと、他の弟子たちも同じ表情をしていた。
「そう。パール・クラブって知らない?」
「えっ、これが」
パール・クラブは食材としては有名でも、今まで倒していたものがそうだとは知らなかったのだろう。
牧場主たちにはその狩場まで知れ渡っていたとしても、食べる側までそれを知っているとは限らない。職業取得目前までにならなければ、縁のない場所だ。
肝心の真珠は甲羅の中で外からは見えないこともあって、気づいていなかったようだ。
「脚は妖精たちが集めてくれるから、真珠はよろしくね」
「は、はい」
「ごめんね。もう少しだけ頑張って」
頷いた弟子たちに、せめて、と【回復陣】を使用する。
出現した白い魔方陣が6人を取り囲み、光が舞う。
多少減っていたHPはこれで元通り。
しかし疲労まではどうしようもないらしく、蟹の甲羅を割り始めた彼らは、やはり動きが鈍かった。
そんな状態の彼らに、こうして無理を強いてでも真珠の回収を命じる。
随分な鬼師匠だと、リコリスも自分で思ったが、これには重要な意味と理由があった。
(……見つかるといいんだけど)
弟子たちの背を、リコリスは祈る気持ちで見つめた。
リコリスの胸の内を見透かしたようにライカリスが励ましてくれる。
「これだけあれば、多分大丈夫でしょう」
「うん……」
「それで駄目でも……まぁ次はありますから」
確かに、これで終わりというわけではない。
重く考える必要は特にないのだが、それでもボロボロになって体を引き摺っている弟子たちを見ていると思うのだ。
皆、これだけ頑張ったのだから、と。
真珠集めが始まって、どれだけ経ったのか。
太陽はまだ水平線にかかってもいないから、まだそれほどではないのだろう。
ただ、リコリスの気が急いているだけ。
ジリジリとしながら、真珠を回収された蟹を避けたり、まだ手の付けられていない蟹を集めて、弟子たちの近くに運びつつ、待つ。
そうしていると、少し遠くまで移動していたウィロウが突然声を上げた。
「?! し、師匠、ちょっといいッスか!」
「お」
一番乗りはウィロウらしい。
それは最低限であり、同時に最も望ましい報告だった。
ライカリスと共に急いで駆け寄れば、途方に暮れた顔のウィロウが蟹の1体の前に膝をついている。
その蟹は既に甲羅の中央を割られていたが、その割れ目から強くはないが確かにオレンジ色の光が漏れていた。
決して強い光ではないそれは、間違いなく。
「何なんスか、これ……」
「開いてみて。悪いものじゃないから、大丈夫」
離れたところにいた仲間たちも、何事かと集まってくる。
リコリスたちにじっくりと見守られる中、緊張の面持ちでウィロウが甲羅の割れ目に手をかけ、大きく開いた。
「……オレンジの真珠ッスね」
見たままの感想だ。
もっと正確に言えば、オレンジに光っている真珠だ。
悪いものではないと師が言ったからか、躊躇いがちにだがその真珠を手に取ったウィロウに、リコリスは笑いかけた。
「おめでとう。――それはね、職業取得に必要になる物なんだよ」
「えっ?」
ぽかんとリコリスを見返した弟子の手の上で、淡く光る真珠。
実物は見覚えがあるようなないような曖昧な感覚だが、ゲーム時代を思えば懐かしい。
かつてリコリスとライカリスも、レベル50を満たし職業を得るために、この真珠を求めたことがある。
「職業取得の前に、目録を渡されてね。そこに書いてある12種類のアイテムの中から、どれでもいいから好きなのを1つ調達してこいって言われるの。で、この真珠もその1つ」
つまり、職業取得の資格を問う、前提クエストである。
これをクリアしなければ、職業の選択どころか、前衛か後衛かを選ぶこともできず、各職の説明すらしてもらえない。
12種類のアイテムは皆獲得できる場所が異なっており、1ヶ月ごとに各地で対応するイベントが発生していた。
夏の2の月では、この海岸で先ほどのように真珠蟹が大量発生する。目録対応アイテムは、今ウィロウが手にしている蛍真珠だった。
イベントは月ごとに場所を移すため、今年ここが会場となるのは、今日この日が最後となる。
他の場所はレベル50前後の者が通える位置ではあれど、スィエルの町からは遠い。現状、リコリスが弟子たちを連れていくのは不可能だ。
しかし幸運なことに、このクエストアイテムは、クエストを受けていなくても取得が可能だった。
ただし、獲得できるのは最初に倒れた蟹を調べた者。実際には、甲羅を割った者になるのだろう。
リコリスが急ぎ、弟子たちに無理を強いたのはこれが理由だ。
1回の試みでは出ないこともあり、下手に期待させるのも悪いかと思って実際の目的を今まで言えないでいたが、ひとまずウィロウだけでも、こうしてこの真珠を得られた。
これさえ持っておけば、いつか次の段階へ進むチャンスが訪れた時、すぐに対応できる。
リコリスが手提げ蝙蝠を一撫ですると、心得ている蝙蝠が小さな袋を吐き出した。
牧草地と同じ緑をした、手の平程度の大きさの巾着だ。昨夜、リコリスがせっせと作っていたものだった。
それをウィロウに差し出す。
「はい、これ。これに入れておいて。その真珠はウィロウにしか触れないから、落としても誰も拾えないし、しっかり自分で管理してね」
「あ、ありがとうございます。……触れないんスか?」
「うん。触れない」
不思議そうな問いかけに、リコリスは頷く。
ゲームの中で、そして戻り始めた昔の記憶の中で。
ゲーム初期、あるいはこの世界に来てすぐの頃にも、何度も得ていた各種クエストアイテム。あるいは、トレード不可とされていた、特殊な装備、素材など。
それらはゲーム内では受け渡しができないだけだったが、こうして実際に触ろうとすれば。
ウィロウの持つ真珠に、リコリスが手を伸ばす。
「ほら」
『?!』
掴もうとする動きでなく、ただ撫でるだけの指先は、真珠の縁にも掠めることなく素通りしていった。
これが、この真珠がもう間違いなくウィロウの所有物であるという証明になる。
弟子たち全員が驚き、目を見開いた。
「こういうの、結構あるんだよ。特殊な魔力を帯びてるとか、持ち主を選ぶとか、理由は色々みたいだけど……。私の耳飾もそうだしね」
リコリスが顔の右側の髪を持ち上げる。
露になった右耳には、雫型の青紫色をした石をあしらった耳飾が下がっていた。
これもまた真珠と同様に、他者とのやり取りができない物品だ。
もっとも、リコリスとライカリスが持つ装備品はトレード不可のものがほとんどなのだが。
ちなみにリコリスの目には、見慣れた電子的な説明文の最下部にトレード不可と書いてあるのが見えていた。
「さ、続き続き。もう暗くなっちゃうから」
呆けた顔でウィロウと、ウィロウの持つ真珠を取り囲んでいた弟子たちに、リコリスが手を叩く。
言葉の通り、赤の増した太陽は、遠い水平線にかかろうとしている。日没まで、もう間がない。
促された弟子たちは、この労働の意味を知ったこともあってか、俄然やる気を見せて真珠探しに没頭し始めた。
「……蟹、集めるだけなら他人でもいいんスよね?」
「うん、割らなければね」
「じゃ、ちっと手伝ってきますわ」
リコリスが先ほどそうしていたように。
頷いた師を見て、ウィロウもまた蟹の山の中に戻っていく。その足取りは、覚束ないようでいて、それでいて何となく軽やかでもあった。




