第69話 人魚の誘惑
「えいやっ」
そんな掛け声と共に、リコリスにしがみつかれていた腕が、大きく後ろに引かれる。
水に浮いている状態で踏ん張りの利かない体は、ライカリスよりも自由に動けるらしいリコリスによって大きく振り回され、回転させられた。
「うわっ」
その動きについていくことができず、体勢を立て直した時には温もりは彼の体から離れてしまっていた。
それを惜しいと思う暇すらなく、
「そんなことするライカはホントに置いてっちゃうもんねー」
絶望的なことをあっさりと宣言したリコリスが、舌を出してそのまま海中へと消える。
「え、ちょ、待ってくださいっ! リコ!」
叫んだ制止の声は、きっと最後までは届かなかっただろう。
精一杯伸ばした手も、彼女の細い手を掴むことなく水を掻いた。
「くっ」
止まってなどいられなくて、ライカリスもその身を海中へと沈める。
透き通った海の中、遠ざかっていくリコリスを見失うことがなかったのは幸いだったが、小さくなっていく姿に追いつくのは至難の業に思えた。
海の近くで育ち、それなりに泳ぎを心得ているライカリスが、ついていくことすら難しい。
それでも必死で後を追う彼の表情が、苦しげに歪む。
水中だからではない。心の内を染め上げる、悔恨のためだ。
リコリスを怒らせたあの言動、実のところそのほとんどが嘘偽りない本音だった。
楽しげなリコリスが先に先にと泳ぎ進んで、置いていかれたように思ってしまったことも。忘れられたように感じたことも。
唯一嘘があったとすれば、リコリスにしがみつかれた直後。自分の言葉に情けなくなって、笑って誤魔化した、あの時だけだ。
――そしてその結果が、これ。
己の情けなさに打ちのめされ、それ以上に彼女に手が届かない今の状況に絶望する。
(……速い)
遥か前方にいるリコリスは、真っ直ぐに浜を目指すことなく自由に泳ぎ回っている。
急浮上してみたり、深くまで潜水してみたり、あるいは旋回してみたりと、無駄な動きが度々挟まれているのに、追いつけないのだ。
少しばかり息が苦しくなってきたが、呼吸のために水面に出て、それでどれだけ差がつけられてしまうだろう。そう思えば、多少の息苦しさなど。
(リコ……ッ)
唇を噛んで、なおも必死に水を掻き進む。
そんな彼の視線の先、勢いを殺すことなく泳ぎ続けていたリコリスが、唐突に停止した。
何やら酷く慌てているようで、その間に距離を詰めたライカリスの目にも、彼女が空気を逃がしたのがはっきりと見えた。
そうして慌しく浮上していく。
どう考えても異常事態だった。
(何が起きた……っ!)
何かよくないことがリコリスの身に起きたのが分かって、血の気が引く。
後を追って浮上すると、海面に顔を出して俯いている彼女がいた。
「リコ?!」
強く呼びかければ、大きく肩を震わせたリコリスが振り返る。
その瞳にあったのは、これ以上ないほどの動揺だった。
言葉にならないのか、唇が何度か薄く開閉し、ようやく飛び出したのは、
「やっ、ライカ後ろ向いてて……っ」
そんな悲鳴じみた声で。
「えっ?」
見る間に赤く染まっていく顔と、立ち泳ぎは維持しながらも、胸元を押さえる手。そしてその言葉。
冷静さを欠いていたライカリスの頭でも、リコリスの身に何が起きたのか悟り、引いていた血の気が一瞬で戻ってくるのを感じた。正直、戻りすぎなほどに。
「……あ、は、はいっ」
咄嗟にリコリスに背を向ける。
おそらく今の自分の顔は、彼女と大差ない程度には染まっているだろう。
情けなさの上塗りだと内心で嘆いたが、肝心のリコリスにもこちらを気にしている余裕がなさそうなのは幸いといっていいのかどうか。
背後の、もう僅かもない距離で、自然のものでない水音がする。
それが無駄に想像を煽ってくれて、もういっそ耳を塞ごうかとライカリスが思い、実行しかけた時、彼の背に遠慮がちに何かが触れた。
ギクリと体が強張る。
「ラ、ライカ」
動揺を残したままの声が、彼の名を呼ぶ。
否、残しているのではない。動揺したままなのだ。
解決した、という安堵の気配が、微かにも感じられない声だった。
「……リコさん?」
「ごめん。あの、……あのね」
何かを懸命に伝えようとしてくるリコリスを、ライカリスはそっと肩越しに振り返る。
まだ許可が出ていないから、彼女の姿を直接視界に入れることがないように気を遣いつつ、少しでも状況を窺おうと。
そうしているうちに、リコリスがようやく搾り出した、小さな――懇願。
「…………後ろの紐、結んでくれる?」
「……っ?!」
ぎょっとして、うっかり振り返ってしまったライカリスが見たのは、涙目で見上げてくるリコリスの姿だった。
その手は相変わらず胸元の水着を押さえている。
「え、でも」
「ごめん、お願い……っ」
ライカリスの拒絶ともつかない言葉を短く遮り、リコリスがさっと背を向けた。
細い指が広がって漂っていた長い赤い髪を手繰り、肩越しに前へと掻き寄せる。晒されたうなじもまた、薄桃色に染まっていた。
細い首から華奢な肩にかけてのラインを隠すものは何もなく、細かな震えまでが見て取れる。
しっとりと濡れた赤のかかる、薄らと色を帯びたその白が、鮮烈すぎるほど目に鮮やかで……あまりにも美しくて。
「……っ」
――触れたい。
その狂おしい欲求のまま、気がつけば目の前の滑らかな肩に手を伸ばしていた。
抱き締めて、唇を寄せて。強い強い願望が表に出てくる。隠しようもないほどに。
あと少し。もう指先が触れる――その直前で、我に返った。
(っ、駄目だ、……何を考えている)
戒めの言葉が、空しく響く。
しかしその薄っぺらな警告を何度となく頭の中で繰り返し、どうにか愚かな欲求を抑えつけた。
こんなところで、リコリスの信用を失うわけにはいかない。失いたく、ない。
気づかれないようそっと、そっと、息を吐いた。
「……分かりました」
観念したように応えれば、目の前の小さな体が目に見えて安堵したのが分かる。
馬鹿なことをしなくてよかったと思ったが、それでもまだ終わっていないのだ。
きつく締められた脇の間から伸びた白い紐が、ゆらゆらと漂うのを確認し、ライカリスはゆっくりとそれを掴む。間違っても、リコリスの体に直接触れたりはしないように細心の注意を払って。
かといって、それで緩く結んで解けてしまっては意味がない。
仕方なく先端に金色の飾り玉のついた紐を強めに引くと、やはり押さえてはいても緩んでいたのだろう。
「……んっ」
紐が締まり、リコリスが小さく声を漏らした。
(何も聞いていない。聞こえない、聞こえない聞こえない……)
また無理矢理頭の中で言い聞かせるものの、これは早々に終わらせなければ身がもたない。
いつかの蝙蝠ポーチの試練を超える今の状況に、ライカリスは本気で危機感を覚えた。
震えそうになる指を叱咤して、紐をリコリスの真っ白な背に沿わせる。
緩まないよう、きつくなりすぎないよう紐を結ぶ、ただそれだけの作業が、こんなにも難しい。
僅かでも触れてはいけないと思うから、なおのこと。
「――はい。もういいですよ」
結び終えた紐の端を放し、ライカリスはリコリスからさっと身を引いた。
今はこれ以上、近くにはいられなかった。
「あ、ありがとう、ライカ」
「いえ……」
胸元を確認したリコリスが、頬を染めたまま、見上げてくる。
それに対する返事が、随分素っ気なくなってしまった自覚はあったが、主に精神的な疲労のためだ。ライカリスにもどうしようもない。
だがリコリスの方は特にそれを聞き咎める様子はなく、それどころか何やら水の中を気にしているようだった。
まさか、また逃げるつもりなのか。
嫌な予感に、いつでも対応できるようライカリスが身構えた時、相変わらず顔の赤いリコリスが小さく首を傾げた。
「あのね、」
「……。…………何ですか」
一瞬前の嫌な予感を軽く上回る何かが、ライカリスの頬を引き攣らせ、頭の中で警鐘を鳴らす。
心底聞きたくないと、祈るような気持ちで思ったが、リコリスは言葉を繋いでしまった。
「ごめんね、もう一回後ろ向いててもらっていい? その、もう一箇所、紐解けちゃって……」
どこの、とは言われなかった。
言われなかったが、上の紐は今ライカリスが直したばかり。
「………………」
ライカリスはもう何も言えず、黙って後ろを向くしかできなかった。
力なく空を仰ぎ、虚ろな目に晴れやかな青を映す。
(しばらく海から上がれそうにないな……)
熱を帯びた深いため息が、海面に落ちた。
ヘタレフルスロットル




