第67話 綺麗な花には猛毒が
海岸から少しばかり離れた山寄りの岩場、その中でも海に張り出した大岩の上に、ウィロウは立っていた。岩は横にも広く、横に荷物を置いてもまだ余裕がある。
海を覗き込めば、青く透き通った水に、色形も大きさも様々な魚が悠々と泳いでいるのが見えた。
何をするのか? ――もちろん、釣りだ。
実は師が海に行くと言ってから、ウィロウは密かに楽しみにしていたのだ。
もし許可が出るなら、釣竿を強請ってみよう、と。
その結果が、今彼の横にある釣竿と、道具一式だった。
「よし、やるか」
ひとり呟いて、ウィロウは隣に置いた荷物に手を伸ばした。
この岩場に来る前に水を汲んでおいた大きめの木桶と、一回り小振りな木箱と更に小さな麻袋。ひとまず、木桶には今は用はない。
木箱の蓋を開ければ、中身はコマセ、つまり撒き餌だ。それをいくらか海に放り投げ、更にもう一方の袋を手に取った。中に入っていたのは背の低い小瓶2つ。
両方取り出して蓋を開ければ、片方には沖アミ、もう片方には細い虫が蠢いていた。
薄くしたミミズの左右に小さな棘をたくさんつけて縮めたような見た目。ペオニアなどが見れば悲鳴を上げるだろうそれは、釣りの餌としては代表的な、ゴカイである。
(これに入ってたのは、気遣いってやつなのかねぇ)
中の見えにくい瓶を、更に袋に入れて、間違っても中身がペオニアやジニアの目に入らないようにという、あの蝙蝠ポーチの配慮なのではないか。
瓶が入っていた麻袋を見て思いながら、ウィロウは2つの瓶を見比べ、沖アミの方を摘み上げた。
そして針に引っ掛け竿を持ち直すと、潮の流れのぶつかる場所を目掛け、勢いよく放り投げた。後はじっと待つだけだ。
(しっかし、最高だねぇ、こりゃ)
こんなにのんびりするのは本当に久しぶりだ。
ちょうど山の影に入るこの場所は涼しく、静かで、景色は素晴らしい。そんな中で釣りを楽しむ……、最近では考えもしなかった贅沢で。
いっそ釣れないなら釣れないで構わない。今のこの時間こそが重要なのだ。
ライカリスの鬼のしごきから解放され、そしてこの状況。まさに極楽だった。
(いや、もちろん感謝はしてるんだが……)
確かに体は軽くなり、以前よりもずっと動けるようになって、多少なりとも「強くなった」という実感が得られている。衣食住は保障され、手に職がつき、町の住人たちからも温かい言葉をかけてもらえるようになった。
昔の、チェスナットたちと馬鹿ばかりしていた、あまり真っ当ではない後ろ暗い日々が最悪というわけではなかったが、どちらが満たされているかと問われれば、比べるまでもない。
「……ライカリスさん厳し過ぎだけどな……」
「あらぁ。それ、聞かれたら大変よぉ?」
「!」
うっかり零れ出た本音に予想外の返答があって、ウィロウはギクリと肩を竦めた。
だが、その声は恐れていた人物のものとは明らかに違って、さほど焦るほどのこともないと思い直す。
振り返れば、普段通りの読めない笑みを浮かべたジェンシャンが立っていた。
「……言うなよ」
「それは人に物を頼む態度かしらぁ」
「言わないでください、お願いします」
からかう空気に、反発しても無駄だ。
リコリスの牧場に来て本格的に諦めが早くなったウィロウは、早々に白旗を揚げた。
今の生活に、プライドはあっても邪魔なものでしかない。余計な意地は、そのまま生命の危機に直結するのだから。ライカリス的な意味で。
そのあたり、よく知っているであろうジェンシャンはその即答に呵々と笑い、彼の隣に立った。
ほんのりと甘い香りがした気がした。
「……反応がないのもつまらないわねぇ」
「そりゃ、その格好のことか?」
それまで海から目を離さなかったウィロウが、そこでようやくジェンシャンを見やった。
豊かな金の巻き毛を海風に靡かせる、眩い美女がそこにいる。
肌はほどよく日に焼けた小麦色で、手足はすらりと長く、腰は細く、しかし胸や尻はたっぷりと。
その魅力を十分に……というより、過激なほど引き立てる真っ白な水着を、ジェンシャンは着ていた。
大きな胸を横切る布は、胸の中央3分の1程度を隠す幅しかない。その胸元の布と、谷間を通る形で十字に交差する縦の布は、細かい網目状で首からショーツを繋いでいる。
そのショーツは前面の重要な箇所こそ隠しているものの、それ以外はどうやらほぼ紐だ。
今のウィロウの位置からは見えないが、おそらく後ろも……。
そんなジェンシャンを上から下までじっくりと眺めて、ウィロウは浮きへと目線を戻した。
それからポツリと呟く。
「そうだな。すげぇいい女と2人きりになると、状況も性格も無視で反応しちまうのが男ってもんだ」
そこで一旦言葉を切り、
「……と思ってた時期が俺にもあったな」
そう締める。
「さらっと失礼なこと言ってくれるわね」
「何だろうなぁ。棘のある花も、まぁ多少毒のある花もいいんだが、さすがに即死しそうな猛毒はちょっと……」
非常にいい女なのは認める。否定しようがない。
それなのに何故か、全くそんな対象に見られないのだ。
「さっきの発言、報告してこようかしらぁ」
「やめてくれ。……っていうか、何だ? お前、俺に手ぇ出されてぇのか?」
「あぁ、それはないわねぇ」
「だろ?」
ジェンシャンの否定もあっさりと、嘘偽りない本音と分かる。
つまり何のことはない。ただのお遊びだ。
「んで? 大事なお嬢様を放っておいていいのか?」
「うふふ、お嬢様には今、可愛い騎士がついているから大丈夫よぉ」
「騎士、ねぇ」
「そ。でもその騎士さんは私がいると楽しめないでしょう~?」
それでこちらに来たのか。
尻尾が丸まってしまうの、とジェンシャンが笑い、ウィロウは納得した。
話題の『可愛い騎士』とやらがいる方へと彼は何となく視線を向ける。
といっても奥まったこの場所からは海岸の様子は窺えないし声も届かないのだが、おそらくペオニアにぴったりとくっついているはずだ。
ウィロウたちと同じく着いて早々酷い目にあったが、今はそれなりに楽しんでいるだろう。
「――ダッグウィードって言ったかね、確か」
「あら、そうなの?」
ウィロウがウィードの本名を知っていたのが意外だったのか、ジェンシャンがきょとんを目を丸くする。
確かに、リコリスはウィードについて、犬だとしか言わなかった。
元が人間だとは一言も言っていない。当然、その本当の名前も。
ジェンシャンは、リコリスやライカリスの微妙な空気や態度から、察したのだろう。
だが、ウィロウは違う。
「師匠が目ぇ覚ます前にな、ダッグウィードが捕まってた小屋覗きに行ったんだよ」
特に意味があったわけではない。
ただ師が倒れるという異常事態に牧場全体の空気が重かったあの時、何となく落ち着かなくて、代理の作業の合間に襲撃犯を見にいったのだ。
ウィロウがこっそりと小屋を覗いたちょうどその時、偶然サマン町長が小屋にいて、縛られた相手にいくつか質問を投げかけていた。そこでダッグウィードの名を知った。
「すげぇ偉そうで……神経質そうな奴だったな。そんでウィードの毛と同じ髪の色で」
自分以外の人間を蔑む青い目が印象的だった。
だから、リコリスがウィードを連れて戻ってきた時、一目で分かったのだ。
まさか、と思い、しかしこの師ならば、と納得した。
「変わったよなぁ」
「そうねぇ。犬らしくなったわぁ」
「あぁ、まぁ確かにな……」
人として変わってきたと言いたかったウィロウだが、ジェンシャンのしみじみとした一言にも同意せざるを得なかった。僅かな憐憫を込めて。
おそらくだが、ウィードはペオニアに惚れている。
元々異性に免疫のない男が、自業自得とはいえ散々な目に遭わされて、そこで与えられた優しさに落とされたのだとしたら容易に納得がいく。
その感情が最初は錯覚だったとしても、そして今も違うとは言えないにしても、やはりウィードの中に特別な何かが育っているのは間違いないはずだ。
本犬に自覚はないのだろうが。
しかしそうしてペオニアに思いを寄せれば寄せるほど、何故か順調に犬らしくなっている気がするから不思議だった。女に恋心を抱いて、男でなく犬になるのはどういうわけか。
その上、肝心の想い人はウィードが犬であることに欠片の疑問も覚えていない。
愛だの恋だのとは無縁のウィロウですら、何やら哀れに思う。
(まぁ、人間に戻れたとして、こいつが許すとは思えねぇが)
ちらりと横目でジェンシャンを見て、ウィロウは今度ははっきりとウィードに同情した。
アイリスやジニアも大事なお嬢様に男が近づくのにいい顔はしないだろうが、その正体を知っているジェンシャンならその反対はどれほどか。
今ペオニアの近くに寄せているのは、ウィードが犬で、男ではないからだ。
もしこれで彼らの関係が男女のそれに変化しようものなら、きっと笑顔と柔らかく間の抜けた口調のまま、ウィードの心をへし折りにいくに違いない。……想像するだけでも恐ろしい。
ウィード自身がよほど変われば可能性はないでもない、かもしれないが、そもそも人間に戻れるのかも分からないわけで。
「前途多難だねぇ、アイツも」
「何が言いたいのかしらぁ」
「そのまんまだよ。深く考えんな。まぁ、師匠に任せときゃいい話だからな」
「……誤魔化す気ね?」
「誤魔化されといてくれ」
言質を取らせる気はないウィロウは、へらりと笑って、ジェンシャンの笑っていない目から視線を逸らす。
と、そこで軽く糸を引かれたのを、彼は手先に感じ取った。
つんつん、と何度か軽く啄ばまれる感覚があって、これは餌だけ持っていかれただろうか、と思ったところに、強い引き。
「おっと」
ぐん、と大きく竿がしなった。
「まぁ……大きいわねぇ」
ジェンシャンが珍しく裏表ない感嘆の声を上げた。
先ほどまでの問答をすっかり忘れたように、その視線はウィロウが両手で掴んでいる魚に釘付けになっている。
鰓蓋の縁が黒く、尾びれの上下先端がぴんと尖っている大振りな魚。
クロメジナだった。
大きさは60センチ弱といったところか。ずしりと重い。
「あぁ、いいのが釣れたな」
ふう、と戦いを終えたウィロウは深く息を吐いた。
正直ここまで大きいのは期待をしていなかったのだが、いい意味で予想を裏切られた。
じわじわと喜びが胸を満たしてくる。
「あと何匹か釣れたら、昼飯が豪華になるなぁ」
リコリスが何かしら用意してくれるのは間違いがないが、やはり獲りたてもいい。
昼飯、と聞いたジェンシャンが、魚を見つめたまま首を傾げた。
「どう料理するのかしらぁ?」
「この大きさなら刺身だと思うけどな。焼いてもいいし……そこんとこは師匠に任せるぜ」
獲るだけ獲って、調理は師に任せる気満々のウィロウである。
素直に楽しみだと思いながら、彼は獲物を木桶に突っ込み、再び竿を持ち直した。




