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第58話 微睡みから目覚めて

57話『勇気の無駄遣い』に2月24日、ラスト部分加筆しました。

 気がつくと、リコリスは見知った森の中を急ぎ足に進んでいた。

 行き先はライカリスの家だと分かっているのに、胸の内はどういうわけかとても複雑で、気が重い。

 何故、と考えたところで、ふと自分が今森の中にいることの不自然さに思い至った。

 つい先ほどまで、牧場にある自宅で、相棒と一緒にいたはずなのに。あの居た堪れない玉砕の直後のはずだったのに、と。


(……あぁ、そうか)


 そこでようやく、リコリスは感覚と意識がぶれていることに気がついた。目線の主の感情と、リコリスのそれが噛み合っていない。


 ――これは、夢だ。


 以前の、始まりと出会いを見せた、夢の続き。『私』(リコリス)の夢。

 そう認識した途端、それまで存在していた居心地の悪さが消える。違和感が納得に変わり、『私』の感情がするりと胸に入って、リコリスの心に重なった。




 今、早足に向かう先は、『私』――リコリスにとっても馴染みとなってきた森の中の一軒家だ。


 初対面のあの日、ライカリスのあの態度に驚いた後は、さすがにもう訪ねることはないはずの場所だった。明らかに厭われていると分かっていて、なお積極的に人と関わろうとするほどの気概はリコリスにはない。

 しかし、ライカリスと出会ったことを誰から聞いたのか、姉であるマザー・グレースが彼に関する用事を頼んでくるようになってしまったのだ。


 曰く、町の人間が近づけば逃げたり隠れたり威嚇したりするが、リコリスなら大丈夫な気がする、と。更に、あの人嫌いの弟がもし病気や怪我をしても、誰にも気づかれないかもしれず、それが本当に本当に心配なのだと、彼女は語った。温かみのある美貌を曇らせ、真剣で……悲しそうな表情をしていた。


 正直リコリスならば大丈夫というその根拠は全く理解できなかった。あの嫌悪の表情を目の当たりにして、それでもなおそんな自信がもてるなら大層な大物だ。

 だが大恩人のひとりに真剣に頼み込まれては、無下にもできない。

 結局リコリスは、マザー・グレース特製のお菓子や何かしらの物資を持たされて、ほぼ毎日ライカリスの家に顔を出している。


 目的の小屋の前につくと、リコリスは少し乱れた息を整え、ついでに大きく深呼吸をする。それから叩いても返事がないと分かっている扉を、一応叩くのだ。

 そっと覗き込んだ家の中、散乱する怪しげな物体に囲まれて、目当ての人物は分厚い本に視線を落としていた。

 リコリスが来ていることには気づいているだろうに、顔も上げなければ、視線も動かない。いつものことだ。むしろ、またあんな視線を向けられるのは嫌だから、このままの方がいいかもしれない。

 とにかく届け物を置いて早々に退散しよう。リコリスの役目は、少しでもマザー・グレースの弟の様子を見ることなのだ。

 けれど、その日。いつも通り部屋の隅に荷物を置こうとしたリコリスの耳に、小さなため息が届いた。


「……しつこい人ですね」


 はっとしてライカリスを見れば、彼は開いた本も顔の向きもそのままに、横目でリコリスを見つめていた。 

 初めて遭遇したあの日と変わらない冷たい視線に、リコリスの身が竦む。しかし久しぶりに聞いたその声は、心底迷惑そう……というより、どちらかといえば面倒そうに聞こえた。


 てっきりこれからもずっと会話はないものと思っていたが、やはり他人が毎日顔を見せるというのは嫌なものなのだろう。嫌味のひとつも言いたくなるくらいには。

 事情が事情とはいえ、実際迷惑をかけている自覚のあるリコリスは、さてどう返したものかと考える。考えた末、


「別に来たくて来ているわけではないので、文句があるならマザー・グレースに直接言ってください。…………喜びますよ」


 という、非常に距離感のある返答に成功した。


(って、何言ってるの私はっ。ただ普通にすみませんって言っとけばよかったのに……!)


 いくらなんでも、押しかけている分際で、慇懃無礼にもほどがある。しかも、最後に本音まで。

 ないと思っていた会話に身構えすぎたのか、自分でもいかがなものかという言葉を吐いてしまったリコリスは、内心で頭を抱えた。

 馴れ馴れしさを嫌う相手だから、これはこれでいいのかもしれないが、それにしてももう少し言い方というものがあるだろうに。


「……」


 だが意外なことに、ライカリスが見せたのは怒りではなく……ポカンと間の抜けた表情だった。

 険がなく無防備な、この青年にはありえないと思っていた隙に、リコリスもまた同じように呆けかけ、慌てて目を逸らす。慌てながら荷物を適当な場所に置き、「では」と小さく声をかけると、半ば飛び出すように小屋を出た。


 来たばかりの道を戻りながら、リコリスの頭の中を様々な感情がぐるぐると渦巻いていた。突然の会話から後を引く緊張と、失言の後悔と、ライカリスの意外な表情に対する驚愕と……それから。ライカリスの元を離れることを、何故だろうか、名残惜しい、と。

 それはどうにも場違いな感情で、強く違和感があった。今のライカリスに対し、そんな感情を抱くはずがないのだ。何せ、ライカリスはこの時はまだリコリスの名前を覚えているかどうかも怪しく、リコリスもまた彼に呼びかけたことはない。今の2人は、その程度の関係だった。


(……今の?)


 ふと、自分の思考に引っかかりを覚える。

 その感覚は曖昧で、はっきりさせようと藻掻くうち、霧が晴れるように意識が鮮明になった。


 夢の今は『私』にとっての今。

 そして、ライカリスと離れたくないと願ったのは『私』ではなく、夢を見ているリコリスだ。


 そう理解したと同時に、目の前に見ているはずの森の景色が遠くなる。

 急速に浮上していく感覚に、リコリスは妙にはっきりと夢の終わりを悟った。




■□■□■□■□



 

 一度薄く目を開けたリコリスは、霞む視界に見慣れた天井を確かめてから、再び目を閉じた。隣にライカリスの気配を感じ、無意識に安堵の吐息を漏らす。

 今は何時だろうかと思いながらも、纏わりつく夢の余韻に、もう一度目を開けることができない。

 仕方なくすぐに起きることは諦めて、彼女は今見たばかりの夢を振り返った。


 リコリスの記憶にあるようでないはずの内容を伝える夢だった。

 彼女が覚えているのは、知っているのは、本来ならゲームの中でのライカリスとの会話だけのはずだった。

 しつこいと言われた覚えはある。けれど、それに対してリコリスが何かを言い返すということはなかったのだ。

 あくまでもNPCとの会話だった。一方的に言葉を与えられるだけの。

 あんな刺々しく会話とも言い切れないやり取り、忘れようと思ってもなかなか忘れられるものではない。

 だから、知らないはずだった……のに。



 ――『私』の目線で流れる景色、出来事、交わした会話の全てが、ひどく懐かしい。



 そのことに気づいてしまえば、『私』の感情を受け入れたのと同じように、すとんと心に落ちる。

 ただの夢として片付けることは、もうできなくなっていた。


 気がつけば牧場に立っていた、あの日。

 ただただ自分の置かれた状況に混乱し、途方に暮れた。ライカリスと合流し、戸惑いながらもこの世界に残ると早すぎる決断をした。

 あの時が始まりだと思っていた。


 そうして、この世界で過ごすうち、芽生えた違和感。

 現実の世界だと実感するたび、人々と関わるたびに、ゲームの世界という考えは覆され。ライカリスに感情を揺さぶられるたびに、ないと思っていた過去の存在を意識し始めた。

 そして、その意識し始めたとはいえ、やはり実感の薄かった過去を決定づけたのが、今回の夢だった。


 鮮明で、懐かしいと思えるあれは、夢ではなくて。

 それがリコリス自身の過去であると、不思議なほどに、自信をもって言えた。

 直接見た場面だけでなく、その合間すら、今はもう思い出せるのだ。

 積み重ねた時間が、築いた関係が確かにある。今の彼女を支えるものが。


(……でも、まだ)


 目を閉じたまま、リコリスはそっと吐息を零す。


 夢以降は、未だに思い出せない。この世界に来た訳も、異変についても、肝心なことは何一つ分からないままで、それがとてももどかしい。

 それを、どうしても思い出さなければいけないのに。

 息苦しさに似た焦燥にリコリスがきつく眉を寄せた時、


「……リコさん?」


 隣で、ライカリスが体を起こす気配がして、間を置かず、気遣わしげな指先がリコリスの頬に触れた。その声はしっかりとしていて、どうやら眠っていたわけではないらしい。

 頬を撫でた手はそのまま上へ移動し、リコリスの前髪を掻き上げる。顔を覗き込まれて……どうしてだろう、思っていたより気まずくない。もっと複雑な気分になるかと身構えていたのに、むしろ。


「大丈夫ですか? 魘されていたわけではないようですが」

「ん。大丈夫。……ちょっと夢を見てて、それで」


 間近で心配そうに揺れる瞳に笑いかけると、困ったように顔が顰められた。


「顔色が良くないです。疲れているんですよ。もう少し休んでください」

「や、平気だよ。色々やりたいこともあるし」

「でも」


 不服そうに言い募るライカリスに、しかしリコリスは自然と笑みを零していた。


 いつも一緒にいるはずのこの相棒が、今までよりもずっと近くにいるように感じるのだ。

 それはきっとあの夢のせい。画面越しだった過去を、自身の過去として受け入れる切欠を得たから。


 以前は、ライカリスの知る『リコリス』でないことを必死に隠そうとしていた。

 出会ったばかりのはずのライカリスに嫌われることがとてもとても恐ろしかった。嘘をついていることが苦しいのに、それでも『リコリス』のフリをしていた。けれど、今は……。

 未だに思い出せないことも、分からないことも、言えないこともたくさんある。もちろん申し訳ないと思ってもいる。

 それでも、以前の思い悩んでいた時より、ずっと晴れ晴れとした気持ちだった。


 それが嬉しくて、知らず、リコリスの笑みは深くなる。

 緩んだ表情のまま、彼女はそっと相棒の胸元に身を寄せた。


「これ以上寝たら夜寝られなくなっちゃうから。適度に運動して、その代わり今日は早めに休むね」

「……分かりました」


 渋々といった風だが、同意を得ることには成功したようだ。

 ふわふわと浮き立った、妙に高いテンションのまま、リコリスは一度ライカリスの鎖骨の辺りに頬を摺り寄せた。


「……っ」

「よし。じゃあ、起きよっか」


 頭の上で息を詰める気配がしたが、深く考えずに体を起こして。

 両腕を上げて大きく背伸びをしたリコリスは、ふと視線を隣に落とす。

 そこではまだ、ライカリスが身を伏せたままでいた。しかも何故か、枕に顔を埋め、頭を抱えて。


「ライカ?」

「………………何でもないです」


 枕の中で随分とくぐもったその声は、緊張と脱力が奇妙に混ざり合って聞こえた。

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