第57話 勇気の無駄遣い
2/24(日) 22:40 ラストに加筆しました。
牧場へ戻り、賑やかな昼食を済ませ、カトレアお手製のチョコレートケーキに皆で舌鼓を打って。旅の疲れもあるだろうから、と弟子たちはリコリスたちを牧場の作業から遠ざけてくれた。
旅の疲れに加え、今日のお礼行脚で精神的に消耗していたリコリスは、申し訳ないと思いながらもその申し出をありがたく受けた。とはいえ、夕刻前には作業に戻るつもりだったが。
ライカリスと並んでの洗い物の間、今日あったことを話しながら顧みる。
最後の皿を水切りに置き、さて少しのんびりしようかと考えたところで、リコリスはふとあることを思い出した。
「そういえば、ライカ」
「はい?」
椅子に座ろうとしていたライカリスが、動きを止めて振り返る。
「石結び、ってどんなの?」
プッツンしたサフランが言っていた、リコリスたちにとっては指切りに相当するらしいもの。
状況が状況だっただけに、訊くことができなかった。
サフランほどの情熱があるわけではもちろんないが、何となく今気になったのだ。
「石結びですか……」
問われたライカリスは、どことなく複雑な表情で呟き、すぐには答えない。
その微妙な顔のまま、彼は手招きをしてリコリスに椅子を勧めた。
素直に従って腰掛けつつも、何か嫌な思い出でもあるのだろうか……と考えていたリコリスは、あることに思い至る。
(あれ? でも石結びが子ども同士の遊びなら、ライカって……)
「……リコさん、考えてること顔に出てますよ」
「えっ?! あ、ごめん!」
「素直に謝られても……まぁ、いいですけど」
友人などいなかったのは確かですし、と何やら切ないことをさらりと言う相棒に、リコリスの方が慌ててしまう。
「い、いやでもほら! 今は私がいるしっ」
「…………友人、ね。そっちの方が複雑ですよ」
「……」
リコリスは咄嗟に言葉が出なかった。
微かに拗ねた響きのその言葉は、どういう意味だろうか。そう考えてしまったから。
大切な相棒として? ……それとも、と。
後者は、リコリスの願望でしかないのだけれども。
「……ごめん」
「いえ。……すみません、気にしないでください」
ライカリスが首を振り、
「何度かやったことはありますよ、石結び」
ライカリスが指先でトントンと軽く机を叩き、小さなため息と共に、話題が戻る。
若干の気まずさは残るが、リコリスはそれに乗ることにした。
「それってマザー・グレースとか?」
「ええ……」
そのげんなりとした表情に、小さなライカリスが活発な姉に引っ張りまわされている姿が目に浮かぶ。
微笑ましいといえば微笑ましいが、この相棒は心底嫌がっていたのだろうことも容易に想像がついて、リコリスは笑いを噛み殺した。伝わっているかもしれないが。
「で、どんなことするの?」
リコリスは軽い気持ちで問いかける。
どんなものかは分からなくても、そう難しいものではないだろうと思って。
「――そうですね、まず」
僅かに間を空けたライカリスが、不意に立ち上がると、リコリスの手に触れた。
手が引かれ立ち上がると、指が組まれて、ぎゅっと握られる。
「それで、こちらも」
言いながら、反対の手も同じように攫う。
流れるように両の手を塞がれて、リコリスが「しまった」と思った時には、相棒が纏う空気を変えていた。リコリスを落ち着かなくさせる、あの空気だ。
「……っ、ライカ」
「こうして、それから」
ライカリスは一見して淡々と説明を続ける。リコリスのか細い制止は、その役目を果たすことはなく。
その状態で上半身を前に倒すものだから、2人の顔が近づいて。やがて、ぴたりと額が合わさってリコリスが息を詰めた。
「……こう。この状態で、約束を口にするんです。2人にだけ、聞こえるように」
互いの手を固く固く握って、意志を結ぶ。解けることのないように。
そう、囁く声で告げる。
長い睫が、ぼやけるほどに近く見え。吐息が触れる距離に、リコリスはどうやって呼吸を再開すればいいのかも分からない。
(……何で)
どうしてこんなに、と思う。
今までだって、散々似たようなことをしてきたというのに。それなのに何故、何がこんなにも違うのだろう。
頭に血が上って、息苦しくて、ぐらぐらと足元が覚束ない。
座り込むか、いっそ倒れてしまえたら楽だろうと思うのに、実際には目を逸らすこともできず、なす術なくただ固まるしかできなくて。
ややあって視線を上げ、真っ直ぐにリコリスの目を見たライカリスが、柔らかく柔らかく微笑んだ。
「――さて、何を約束しましょうか」
「いや、あの、えと」
(それどころじゃないんだけど……っ)
この状況で、それを考える余裕などあるものか。
しかし、何か約束を交わさなければ、このままが続くのかもしれないのだ。それはもっと困る。
「えっと、えー……っと。あ、いつもみたいに、『ずっと一緒にいよう』とか……!」
「そうですねぇ。それでもいいですけど……」
てっきり賛同を得られるものと期待していたのに。
苦し紛れの、半ば叫んでの提案だったのに、相変わらず囁くようなライカリスの声が掻き消してしまった。蝋燭の火に、息を吹きかける、そんな簡単さで。
一瞬躊躇いの沈黙が降り、それからまた、ライカリスがゆっくりと口を開く。
「――――……」
その声は。
音にはならず、溶けて消えた。リコリスに届く前に。
拾えたのは、祈りのような、密やかな吐息だけ。
ただ、唇が何かを紡ごうとして、微かに動くのを見ているしかできなかった。
「……」
しばらくしてライカリスが僅かに唇を引き結び、それから小さな吐息を漏らす。
ただそれだけの小さな動きなのに、その不安や怯えをはっきりと伝え、そしてそれはリコリスを別の混乱の中へと突き落とした。
何をそんなに恐れて、何がそんなにも悲しいの。
ふわふわと浮き立って定まらなかった思考が、一転して叫びのようなそれに変わる。
どうしてこんな顔をさせているのだと、リコリス自身を苛む叫びに、胸の辺りが軋んだ。
「ラ――」
「リコ」
耐え切れなくなったリコリスが声を上げかけた時、それより僅かに早く、ライカリスが口を開いた。
リコリスを呼んだ静かな声は、先ほどよりも硬く、沈んで聞こえ。
「お願いします。どうか、」
暗く翳った暗褐色が揺れる。
「私のことを、嫌いにならないで……」
自分勝手でごめんなさい、と今度は確かに音になった言葉が、リコリスの思考を停止させた。時間にして、瞬き数回。
縋り、許しを請う響きは、それからじわじわとリコリスの頭に浸透して、やがて驚愕と共に彼女の感情を強く揺さぶった。先の混乱よりも、強く強く。
「ライカ」
リコリスは小さく息を吸い、相棒を呼んだ。声が震えていたかもしれない。
組んだままの手に、強く力を込める。
「……はい」
静かながらも強い響きに、ライカリスが不安そうに瞬きをしたのが見えたが、構わずに。
「――嫌いになんて、ならない」
何をされても。どんなひどいことをされたとしても。
いつかの夜、温泉でジェンシャンに問われ、答えた想い。それが今はもっと強く、あの時とは違った感情を伴っている。
「何があっても、嫌ったりしない。約束、するから」
はっきりと告げ、それからリコリスは口を噤む。
それは躊躇いを捨てるための一瞬。
また小さく息を吸い込んで、今度は声が震えないように。
「大好きだよ、ライカ」
伝えるつもりのなかった言葉だった。ライカリスが嫌がりそうだから、と言い訳をして。
ただ、勇気がなくて。今の関係を失うのが恐ろしくて、先延ばしにした。できることなら、避けて通るつもりだった。
――だが、それがライカリスの不安に繋がるのなら。
それだけで、リコリスの決断など簡単にひっくり返される。
いつも、ライカリスに関わることだけが、リコリスを揺さぶるのだ。そう、今も。
「リ、コ……」
「何を怖がってるのか分からないし、言いたくないなら聞かないけど。でも、それだけは分かって」
最後は囁くような声になった。
それも消えると、訪れたのは沈黙。2人とも何も言わず、蝉の鳴き声と、木々の風にそよぐ音だけになって。
しばらくして、ようやく動いたのはライカリスだった。
組んでいた手が解かれ、額が離れる。
それを緊張の面持ちで見守ったリコリスを、長い腕がすっぽりと包み込んだ。
「……ありがとうございます」
「ん」
柔らかく抱きしめられたのを幸いと、リコリスはライカリスの胸元に顔を埋めた。
耳元に囁かれた声にはもう暗さはなく、それどころか嬉しそうに弾んですらいるようで、安堵する。同時に、じわじわと恥ずかさが込み上げてきて、とてもではないが、相棒の顔を見られそうになかった。
覚悟してのこととはいえ、ストレートに告白してしまったのだから。
(嫌がられてはない、かな)
それは大丈夫そうだったけれども。
とにかく、リコリスとしては言うだけのことは言った。
後は、じっとライカリスの反応を待つのみ……だが。
「あなたは、本当に優しいですね」
(ん?)
ふと違和感を覚えて、リコリスは目を瞬かせた。
ライカリスが本当に嬉しそうなのは感じ取れる。けれど、それ以上が、ない。
「気を遣わせてしまって、すみません……。でも、その約束は、本当に嬉しいです」
受け入れられる、受け入れないはまた別にしても、何か相応の反応があってもよさそうなのに。
困惑の気配すらなく、ただプレゼントを貰った子どものような、純粋な喜びだけが、相棒から伝わってくる。
その意味するところは。
(あ、れ? これってもしかして)
まさかと思うけれども。
(告白と認識……されて、ない……?)
愕然とする。
リコリスとしては、相当の勇気を振り絞っての行動が、全く伝わっていなかったと。
緊張の反動に落胆、微かな安堵が混ざり合って、リコリスは力なくライカリスに凭れ掛った。
(うぅ……っ)
「リコさん?」
不思議そうにしているライカリスに顔を覗き込まれても、何を言えばいいのか。
ここから更に言い募るだけの気力は、リコリスにはなかった。
脱力し、そのままずるずると座り込みそうになって、リコリスを抱えていた腕に慌てたように力が入る。
「リコ?! どうしたんですかっ?」
「ん、んーっと……なんだろ。えっとね、ライカが嬉しそうで良かったって思ったら、力抜けちゃって」
リコリス自身でもよく分からない誤魔化し方になってしまった。
他にも何か言った方がいいだろうか。言葉を探すが、半ば呆然としている頭は、思うように働いてくれなかった。
だが、その様子を見ていたライカリスが眉を寄せたのに気づき、リコリスは咄嗟に言葉を添えた。
「疲れてるのかなぁ。ライカ、一緒にお昼寝しよ」
こうなったらもう、旅の疲れで押し通そう。
甘えるように見上げれば、心配そうなライカリスと目が合った。
「大丈夫なんですか? ……とりあえずベッドへ」
抱え上げられ、ベッドへ移動させられる。
濡れタオルだ、飲み物だと、オロオロし始めた相棒を宥めて、隣へ引きずり込んで。
その腕にしがみ付いて寝たフリをしながら、リコリスはそっとため息を噛み殺した。
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腕の中で硬くなっていた華奢な体から、やがて力が抜ける。押し殺すようだった呼吸がゆったりとした寝息に変わったのを確認し、ライカリスはそっと息を吐いた。
リコリスの顔にかかる前髪をそっと払えば、微かに眉が寄せられているのに気がついて、唇を噛む。
「…………すみません」
こんな顔をさせていることが辛い。
しかし酒場での出来事を忘れているリコリスに応えることは、やはりどうしてもできなかった。ましてや想いを告げることなど。
……そんな資格は、ない。
心の全てを映したかのような苦しげな声は、眠りの中にいるリコリスには届かず消えた。
それでいい、とライカリスは思う。届いては困るから。
そう自分を納得させながら、同時に届いてほしいとも願ってしまうのだ。
リコリスが思い出すことを恐れているくせに、蝙蝠少年に脅されて仕方なくと自分に言い訳をしながら、本当は望んでリコリスに触れて。
何より、リコリスの言葉が嬉しくて嬉しくて。
――なんて浅ましいのだろう。
ライカリスの手がリコリスの顔に触れる。
ほとんど無意識に、親指が赤い唇をなぞった。
「……」
そこで、ふと視線を感じた。
元を辿るまでもなく、それが枕元の蝙蝠ポーチからだと即座に理解して、ライカリスはまたため息をついた。
どこか、叱られた、あるいはこれから叱られる子どものような、そんな表情で。




