第49話 まずは軽~くジャブを
1人残されたリコリスが、錯乱しながら蝙蝠ポーチを振り回していた頃。
ライカリスは正体不明の人物と向き合い、驚愕に目を見開いていた。
「リ――……」
……違う。
口が勝手に馴染んだ名を呼びかけ、しかしライカリスはそれを押し留めた。
「……あなた、は」
「ん? なんだ、わかりきったことをきくなよ、イヌ」
「い、…………犬?」
ライカリスの顔が引き攣るのも気にせず、少年は楽しそうな笑みを深くした。
風もないのに緩やかに靡く黒髪は紫がかって、短く。赤い目は微かに光を放ち、口元には鋭い牙が覗く。
コートに細身のパンツにブーツ、上から下まで真っ黒装束の少年は、確かに少年だと分かるのに、……あぁ、その顔は。
「イヌはイヌだろ。ゴシュジンの、イヌ」
「…………」
その背に小振りの蝙蝠羽を羽ばたかせる少年は、細い腕を組んで尊大にライカリスを見下ろした。
そして欠片の躊躇いも悪気もなく、ライカリスを犬扱いする。
――ライカリスが唯一と想う、リコリスとほとんど同じ顔で。
色彩や性別や見た目の年齢はこの際関係がない。
どれだけ別人だと理解していても、少年はリコリスに似すぎていた。
「あの、その顔なんですが」
「あぁ、オレサマ、ゴシュジンのイチブだからな。こればっかりは、センタクのヨチはない。オレサマにもな。あきらめろ」
(いや、だからって、その顔は……っ)
受け入れることも立ち直ることもできないで竦んでしまったライカリスを、少年はふふん、と鼻で笑った。そして、組んでいた腕を解くと、細い指を突きつける。
ライカリスは、ただそれを見ているしかできず。
主導権は完全に蝙蝠少年にあった。
今まで相対してきたどんな敵よりも手強く、
「そんなことより。おまえにちょっとハナシがあるんだよ、オレサマは。なぁ、この、ドへたれイヌ」
――どんな敵よりも容赦のない少年に。
「…………ドへた……れ……」
今まで生きてきて言われたことのない言葉を、彼女の顔で言われてしまった。
ザクリザクリと言葉は容易に突き刺さる。
「へたれはへたれだろ。このカイショウなし」
「………………」
重なる追加攻撃に、既に灰になりそうな様相のライカリスは、低く呻いて顔を覆ってしまった。
(よりにもよってこの顔で……なんの拷問だ……)
そもそもこの少年がリコリスの蝙蝠ポーチだとして、しかも先ほど言われた通りリコリスの一部なのだとしたら、抵抗できるはずがない。
物理的な攻撃はもちろん、口で言い負かすこともできそうになかった。
もちろん、主に顔のせいである。
「おい、イヌ。聞いてるのか?」
「聞きたくな……いえ、何でもありません、聞いてます」
「ホントウだろうな。まぁ、いい。とにかく、オレサマはイヌにいいたいことがある!」
「はぁ……何でしょう……?」
虚ろな目のライカリスが力なく先を促せば、蝙蝠少年はきっと眉を吊り上げた。
「おまえ! どうしてゴシュジンにテをださないんだ!」
「はぁっ?!」
ライカリスの声がひっくり返った。
「もっとしっかりシュドウケンにぎって、くどけよ。なんで、マイカイあそこまでいってやめるんだ? コンカイも!」
「ちょ、いきなり何を言い出すんですか」
おろおろと、意味もなく手を上下させるが、残念なことに問題の蝙蝠少年には手が届かない。
体を部分的に動かすことはできても、移動そのものはできないのだ。今のライカリスは無数のアイテムと同様に、宙に浮いている身である。
彼があえて避けてきた話題を勢いよく叩きつけた少年は、嘆かわしいとばかりに大袈裟に首を振った。
「オレサマはイマまでずっとみてきたんだ。マイニチ、マイニチ、いちゃいちゃいちゃいちゃしやがるくせに、チュウトハンパで!」
「いちゃ……いや、あの」
「あれはなんなんだ? ナマゴロシがそんなにすきなのか? そういうセイヘキなのか? ほら、あのフタゴのオトウトみたいな」
「それは! 非常に不本意ですからっ!」
挙句引き合いに出された人物に、とうとうライカリスの声は悲鳴じみてきた。
蝙蝠少年は可愛らしい姿に似つかわしい仕草で首を傾げているが、言葉には全く遠慮も恥じらいもない。
「だってなぁ。ほれたオンナとずっといっしょだぞ? シロクジチュウくっついてるんだぞ? しかもヨルもイッショにねてるのに……」
納得がいかないと、しきりに首を捻っていた少年は、そこまで言って、不意にはっと真顔になる。
激しく嫌な予感に襲われたライカリスは、仕方なく強めに制止しようとした……が。
「まさか、イヌ! おまえ、フノ――」
「うわあああっ! なんてこと言うんですか、その顔でっ!!」
これは間に合ったと言えるだろうか。
最後まで言わせなかっただけマシだろうか。
しかし全く救いにならなくて、ライカリスは盛大に頭を抱えた。
(泣きたい……)
どうしてこんな、配色やその他色々おかしい謎の世界で、大量の野菜などと一緒に宙に浮きながら、可愛い顔をした少年に直球で詰られているのだ。
意味が分からない、とライカリスは思った。
どうしてこんな目に、とも。
そして、心底リコリスの元に帰りたい。
「なんだよ。カオはカンケイないだろ」
「いや、大有りですから」
「……ウブでオクテなのかとおもってたんだが、ケッペキなだけなのか?」
「だから、問題はそこではなくて」
ライカリスにとって、リコリスと同じ顔というだけで、その遠慮のない発言がどれだけの衝撃と破壊力を持つのか、蝙蝠少年は理解していない。
双方の悩みは食い違い、会話は噛み合わなかった。
「でも、そんなにヒッシでヒテイするってことは」
「違いますってば」
「だよな? だって、イヌはムカシ、イロイロやらかしてるもんな。ウブでもオクテでもないよな。それに、マエにサカバの2カイで……」
「――っ?!」
至極当然のように言われ、ライカリスは一瞬呼吸を忘れた。
一拍を置いて、それから心臓が波打って、鼓動は容易に耳に届いた。
震える唇が、「どうしてそれを」と言いかけ、無様にも失敗する。
ガクガクと小刻みに震え始めたライカリスを、しかし蝙蝠少年は不思議そうに見つめて、
「どうした、イヌ? ……オレサマを、なんだとおもってるんだ?」
先ほどの包み隠さない口調が嘘のような、不気味に静かな声で問うて、薄らと微笑んだ。




