第48話 イヌ、泣く
脳を揺さぶる強い引き寄せにも、ライカリスは目を閉じるのを堪える。
不明瞭な視界の中で、彼女の驚愕に彩られた表情が目に焼きついた。
「リコ――!」
叫んだ声は、届いただろうか。
ぐるぐると視界が回り、揺れて、ライカリスは呻き声を漏らして首を振った。
一瞬前から一変した景色は、どこかで見たような、しかし確かに見たことのないものだった。
周囲は夜。不気味なほど大きな月が、見渡す限り続く赤黒い大地にかかる。
平らな大地は巨大な渓谷を挟んで真っ二つになって、その上に広がる森は、先日の蔓の森よりも更に毒々しい色をしていた。
渓谷の底には溶岩が流れ、両脇の崖には物好きなことに無数の家が造られ、月の光がその輪郭の一部を照らす。
家に明かりが灯っているのは、まさか誰か住んでいるのか。
ライカリスが今いるのは、その奇妙な光景の遥か上空だった。
支えもなく宙に浮いている奇妙な感覚と、それ故に思うように身動きが取れない事実に、彼は顔を顰めながら周囲を見回し、そこここに沢山のアイテムが浮かんでいることを確認する。
間違いなくリコリスの持ち物だ。そして、間違いなくここは蝙蝠の中なのだろう。
「……調理棚の中と似ていますね」
当然といえば当然か。
それは返事を期待していない独り言だった……のに。
「おう。あれもオレサマのナカマだからな」
「っ?!」
何の気配もなかったはずの空間に、高めの、子どものような声が響いた。
慌てて視線を正面に戻せば、少し離れたところに細い足が見え、更に視線を上向けるとそこには同じように宙に浮き不敵に微笑む――、
「リ――……」
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「…………ライカ」
床にぺたりと座り込んだリコリスは、膝の上に置いた蝙蝠ポーチに視線を落としながら、力なく相棒の名を呟いた。
もう何度目のことだろう。
ライカリスが姿を消してから、既に2時間が経過していた。
リコリスも最初は、それこそ体力の続く限り錯乱したが、叫んでも、宥めすかしても、命令しても、懇願しても、蝙蝠は頑としてライカリスを吐き出さなかった。
逆に形容しがたいほどイイ笑顔で羽を動かし、リコリスの手を撫でたのである。まるで「落ち着け」というように。
混乱するための体力すら尽きたリコリスは、お陰で落ち着いた頭で考えた。
ゲーム初期から、今ここに至るまで、ずっと彼女を助けてくれた蝙蝠が裏切るはずがない。
それは希望に過ぎなかったが、改めて正面から蝙蝠を見つめれば、最初のイイ笑顔とはまた違った、自信ありげな笑みが返された。
息をついて、ずるずると床にへたり込んだ。
しかし、どれだけ蝙蝠が信頼に足る相手だとしても、頭で理解していても、予想外に相棒が消えた事実に、本能が怯えてしまうのはどうしようもない。
その不安は理性で捻じ伏せておくのにも限度があり、時間の経過と共に、自身に言い聞かせるのにも無理が出始めて。
「蝙蝠様ぁ、そろそろライカ返して……」
情けなく眉を下げたリコリスがとうとう涙目で蝙蝠に訴えた。
その様子に、さすがの蝙蝠も、初めて見せる困ったような表情で、しばし口をもごもごさせる。
もしかして返してもらえるのだろうか。
今までと違った態度に期待したリコリスが、両手に捧げ持った蝙蝠の口に顔を近づける。
その瞬間、蝙蝠が――ニヤリ。
そしてガバリと口を開き、……悲劇は起こった。
「えっ?! ――わっ」
「うわっ?!」
蝙蝠は笑みを消し、不満げに口を曲げた。
それは何故か? 答えは簡単。
2人分の悲鳴と同時に、何かが衝突する重い音がしたからだ。
そして、蝙蝠の表情など気に留める余裕のない人間2人が、床をのた打ち回る。
「いっ……たぁい……っ」
「……つぅ」
床に仰向けにひっくり返ったリコリスも、その上に覆い被さったライカリスも、揃って赤くなった額を押さえていた。衝突音の発生源である、それぞれの額を。
先に復活したのは、やはりライカリスだった。
「あ……? あ、リ、リコ?!」
ライカリスの下敷きになり、涙目で呻くリコリスに気がつくと、慌てて体を起こし、青い顔でリコリスの顔を覗き込む。
「大丈夫ですかっ?」
「うー……」
額に当てていた手が退けられ、痛みのあまり潤んだリコリスの視界にライカリスの顔が映った。
焦りの表情でリコリスの名を呼んでいる相棒の姿を認識すると、彼女は咄嗟に手を伸ばす。
「ライカ! よかった……っ」
目の前の首にしがみつくと、一瞬動きを止めたライカリスもリコリスの背に腕を回す。背を撫で、髪を梳いてから、ぎゅっと長い腕に力が入った。
「……すみません。ご心配おかけしました」
沈んだ声に、リコリスは首を振る。
「ごめん。蝙蝠様だから大丈夫だとは思ってたんだけど……それでもね、ちょっと」
「いえ、あれは……多分誰でも驚くと思いますから」
確かにその通り。
リコリスは納得しつつ、それでいて自分の取り乱し方が情けなくもあり、恥ずかしくもあり。しかし、それを上回る安堵に息をついていると、彼女を抱きしめているライカリスも、小さくため息をついた。
安堵を含みながら、強い疲労を滲ませた吐息に、リコリスは顔を上げる。
「ライカ? 大丈夫?」
「……ええ、特に怪我などもありませんし。リコさんは大丈夫ですか?」
心配そうに問われ、撫でられた額は確かにまだ熱をもって、鈍い痛みが続いている。
普通ならば、放っておけばコブか青痣か……。しかし幸いなことに、それはリコリスには該当しない。
【単体回復】
繊細な音が鳴り、淡い光が舞い散った。
ライカリスの額から赤みが、リコリスも、感じていた痛みが引いていくのを感じる。
「ん、これで大丈夫」
「あぁ、ありがとうございます」
「……」
打撲は怪我だ。だから回復魔法が効いた。だが疲労までは治せない。
心配事を取り去り、改めて見ても疲労の色濃いライカリスに、リコリスは眉を寄せる。
「……中で、何があったの?」
そっと問いかけた瞬間、ライカリスは分かりやすすぎるほど分かりやすく、ギクリと体を強張らせる。
見る間に顔も引き攣って、しかし何故か笑みの形に歪んだ唇からは乾いた笑い声。ガクガクと音がしそうなほどに震え始めて。
「?!」
「いえ、まぁ、その、何というか……ははは」
笑い声はそのまま大きなため息になり、ライカリスはリコリスの肩口にぽすんと顔を伏せた。
(ほ、本気で何があった?!)
ライカリスと頭をぶつけた時に床に落とし、そのままになっていた蝙蝠に視線を投げるも、わざとらしいほどの無表情である。
よくよく見れば小刻みに震えているので、笑っているのかもしれない。
「訊かない方がいい?」
「……そうしてもらえると助かります。――あ、でも」
「ん?」
少しだけ顔を上げたライカリスが窺うように蝙蝠を見て、躊躇い躊躇い口を開く。
「ちょっと、その…………慰めて、くれませんか……?」
「へ?」
「できる限り、目一杯優しい言葉をください……」
らしくないことを覇気のない声で告げられて、リコリスはきょとんと目を瞬かせた。
一体どんな顔をしているのか、再び力なく顔を伏せてしまった相棒の表情は分からない。
リコリスは戸惑いながら、脱力気味の背を撫でる。
「えーと……大丈夫? た、大変だったね」
「……っ」
何があったのかが分からないので、リコリスはとりあえず無難な言葉をかけた。
取り立てて効果があるとも思えない慰めだったが、ライカリスはそれで何か限界を超えたらしい。
顔を埋められた肩口から鼻をすする湿った音がし始めた。
「?! え、えぇぇ、もうどうして泣くの……ほら、大丈夫だから」
目一杯優しくと望まれたので、リコリスの口調はどこまでも優しい。
だが顔面に張り付いた笑顔は目が全く笑っておらず、黒い気配すら漂わせて、それは蝙蝠へ。ビクッと硬直した蝙蝠は、器用に前に倒れ顔を隠すと、羽も下に伏せて、そのままピクリとも動かなくなった。
(死んだフリ……だと)
リコリスに縋りついて泣くライカリスに、床で死んだフリをする蝙蝠ポーチ。
上を向き、大きくため息をついて色々と諦めたリコリスが、その後借りている客間に入れたのは、深夜も近くなってからだった。
寝付くまでリコリスを離さなかったライカリスが、やっと眠りにつく寸前、消え入りそうな声で「あの顔にヘタレと言われるのはキツイ……」と呟いたが、真相は謎である。




